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2-08 誤算

時は明治。車夫として働く男の前にある男が現れたところから車夫の運命の歯車が狂い始める。男と男の周りの人々に生じる誤算。男を待ち受ける結末とは。

あるじ、いつもの酒」

「未だ宵の口ってぇのに、車屋はどうした」

「今日は酒代を呉た気前いい客が居て、早仕舞いでげす」

「そりゃぁ、儲けものじゃねぇか。へい、お待ち」


 車夫は出てきた一杯の酒を一気に飲み干し、金を置くと、酒屋の店先を後にする。


 時は、明治半ば、秋。

 五街道の起点である東京市日本橋区は経済の中心地。人、物、金が全国から集まる。


 辻待ちで客を引き、日銭ひぜにを稼ぐ人力車の車夫は、酒屋から歩き、人の行き交う賑やかな表通りを抜け路地へ。

先程より後ろに気配して、立ち止って振返る。そこには一匹の黒猫。「にゃ〜」と、ひと鳴き。男の横を行き闇夜へ消えた。

 

 翌日、早朝。車夫の住む平長屋の戸を叩くものあり。その音、だんだん騒がしくなり。家の中で寝ていた車夫も目を覚ました。たまらず、煩わしく厭わしと、戸を開ける。

そこに居たのは、かばんを手に持ち上等の着物に鳶合羽を羽織った初老の男。

すぐさま車夫は戸を掴むも、時既に遅し。男は戸を押さえ閉まらぬようにしていた。


「方々、探しました。若旦那様」

「番頭……」


 実はこの車夫。地方豪商の跡取り息子。婚約を疎ましく思い、又東京て名を上げ知らしめると、一人勝手に家を出て、汽船に乗り横浜へ。半年滞在して東京へ来た。


 眉間に皺の寄る若旦那は後ずさり。


「番頭。なぜ、ここが」


 初老の男。番頭は、一畳もない土間へ踏入り戸を閉めた。


「近頃、日本橋で若旦那様を見た同郷の者より店へ沙汰がありまして、急ぎ東京へ参り三日三晩、尋ね歩き、遂に若旦那様の引く車を」

「昨夜の気前いい客は番頭……」


 我、一生の不覚。と、若旦那。


「左様でございます。五年半も前、三千圓もの大金を携え家出された若旦那様の今を見るに、不憫で」


 土間より上り若旦那は布団を片づけ、三畳間の隅で座布団の布を破る。


「若旦那様。すぐ、帰り支度を」

「待て。金はある」


 若旦那は更に一枚、座布団を敷き番頭に「座れ」と促す。敷居を跨ぎ番頭は机の前へ正座する。

暫くして、若旦那は番頭の横へ行き、ひそひそ小声で、


「これ全部で、五千圓ある」


 座布団から出した布袋を机に置く。


「若旦那様。しや不義を……」

「違うぞ。株、公債、取引で利を得た」

「若旦那様。恐れ入りました。中を拝見」


 番頭は布袋を掴めず手は空を切る。それを見た若旦那はある事に気づく。


「番頭、眼鏡はどうした」

「先程、そこの角で人とぶつかり、眼鏡を落としたでがんす」


 番頭は言う。眼鏡を拾う為に腰をかがめた所へ又、人が威勢よくぶつかり、眼鏡を踏み壊しました。



 それを聞いた若旦那はある事を思いつき。思案するうち、机の上は片付き何もない。


「旦那様へは、若旦那様、自ら御報告を」

「心得たが、帰る為に家を引払い」

「承知しました。さらば是より、二日、二日でがすよ」



 二日後の朝。新橋近所の旅館前。


「番頭、待たせた」

「若旦那様。御声、どうなされたでがす」


 番頭の前に立つ、仕立てた洋服を着て靴を履き帽子を被る男は、若旦那と背丈、体つきは近いが顔は似ても似つかぬ。この男の方が美男子。



 どうしても東京に残りたい若旦那は、自分の身代り、替玉を用意した。



 男は番頭の言葉に狼狽せず落着いて、


「番頭は耳が遠くなったのか」

「誰の所為せいと。二日も車で方々を巡り、腰が痛くなりました」


 番頭の眼鏡修理を止める為、若旦那は番頭を人力車に座らせ、二日間、市中を遊覧した。


「若旦那様。汽車へ乗りますに、歩き停車場へ参ります。御承知願うでがす」

「承知した」



 当の若旦那は、早寝早起し、夜明前から、他の長屋へ転居する準備を始めた。

 番頭へ替玉の事が露見する前に家を出なくてはならず、急ぎ片付る。番頭たちの出立する時刻も迫る。いつ何時、発覚するかも知れぬ。


 これは何だ。


 衣服の入った行李こうりを動かした時。見慣れぬ封筒を見つけた。中を覗くと、驚き腰を抜かす。暫くして正気に戻り、急ぎ全財産をかき集め、荷を一纏めにする。身支度を済し、家を飛び出す。



 番頭たちは既に出立している。何処に居るかわからぬ。



 走り馬方の所へ。


「馬を借りたい。金は幾らでもある」


 馬方は若旦那を見て、


 この男は辻待ちの車夫だ。こんな訝い奴へ肝要の商売道具は貸せぬ。


 馬方は必要費用の四倍の金額を若旦那に告る。「承知した」と、若旦那は即答し金を出す。

 渋々、馬方も馬を貸す事にした。


 馬の手配をする馬方は思う。


 なぜ馬を。今は鉄道もあるってのに。

 しかも、早馬とは。金を持ってる奴の考えは知らぬ。


 若旦那は用意された馬に跨り北の方へ出立した。



 一方の番頭と若旦那の替玉男は日本橋迄来た。更に北西へ進む。



 替玉の男は、旅館から新橋停車場の方へ歩き、番頭に「若旦那様。どちらへ」と声をかけられ焦る。



 替玉の男は、若旦那から「新橋停車場より汽車に乗り……」



 聞いた話と違う。



 仕損じたと思うも、番頭は何も言わす事なきを得た。


 若旦那様の為に、しくじれぬ。


 替玉の男は相場師の弟子だった。

若旦那と相場師は親しい間柄。

当然の事、弟子も若旦那と親しくなり。

昨年の春頃、相場師が消息を絶つと、男は店を始めた。


 二日前の夜。男の所へ若旦那が来た。


「君を見込んて頼みがある」

「何です」

「僕の替玉をして番頭と帰郷してくれ」

「若旦那様にはお世話になっています。けれど、そんなこと……」

「番頭は眼鏡を壊し、人の顔がわからぬ。覚書もある」


 男は覚書の帳面を受け取り開く。


 なるほど。色々、書き留めてある。

……若旦那様は泳ぎが苦手……番頭さんは、甘い物が好み……。



「僕も東京で商売を始める。引受けてくれ」


 若旦那の気に圧されて、男ほ承知した。



 

 番頭と替玉の男は神田明神を詣で。商売繁昌を願う。

その後は水茶屋で休む。



 その頃、若旦那は馬の手綱を引き、全速力で走らせ、千住へ来た。宿場で馬を替え、更に北へ。


 番頭たちより何としても早く着かねば。

 

 若旦那は気が焦る。原因はあの封筒に入っていた女性の写真。

若旦那はあの女性に見覚えがあった。

 去年の秋頃、人力車に乗せた事のある女性。

容貌婉麗で若旦那は女性の笑顔につい、見惚れ「出して下さい」と車の出発を女性に促された。何処の誰とも知らぬ女性へ恋焦れ片思い。

 同じ場所で何度、辻待ちしても再び逢う事はなく。


 しかも同封の手紙に『結婚の相手』の文字を見つけ。



 替玉が顕になる前に到着しなければ。結婚出来ぬ。急げや急げ。



 歩き出した番頭と替玉の男は、神田明神を北、湯島方面へ。湯島天神の北側、切通坂を下る。途中、不忍池と競馬場を囲む外柵が望める。坂を下りきり、柵に沿って歩き、上野広小路へ。


 番頭、懐中時計を見れば、時刻はちょうど昼時。


「御飯はどうされます」

「天麩羅蕎麦でどうだ」


 替玉の男は、天麩羅蕎麦を若旦那様は選ぶか不安になる。


 又、しくじりた……。


「蕎麦屋へ参りませう」


 替玉の男は安堵した。。



 馬を馳る若旦那は、幾つかの宿場で馬替えをして北へ向かう。



「今は時を待て。時が来れば、機を逃さず攻め行け。必ず成功する」


 相場師の男と最後に会った時、言われた言葉。


 機を待ち過ぎた。


 早く商売を始め名を上げれば。こんな事には……。

 

 若旦那は、よく言えば慎重。悪く言えば優柔不断。


 五年半前。汽船で着いた横浜で若旦那は、持参した金を使い商売しようとし、詐欺師に騙された。大方の財産を失い、路地裏で倒れている所を相場師の男に助けられた。

その時は、未だ男は相場師ではなく、若旦那の面倒を見てくれ、金も取戻してくれた。

最初は男を詐欺師の仲間と思った若旦那も、次第に男へ心を赦し。

 その後、若旦那は男と東京へ出て、男は相場師。若旦那は、なかなか商売を始められず、車夫になり。今に至る。



 他方、昼飯を終えた番頭と替玉の男は、上野公園を散策し、上野停車場へ来た。

 番頭は中等切符を二枚買求め。便所へ行き、二人で中等客室へ乗込む。


 日本鉄道東北線。

 午後二時四十五分。

 汽笛を鳴し汽車は青森へ向け、ゆっくりと走り出した。


 青森着は翌日の午後五時十分。


 番頭は按じる。若旦那様は耐忍して、二十六時間二十五分、辛抱出来るか。


 番頭と若旦那の替玉、身代り男の帰郷旅が、今、始まった。



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