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2-09 黒曜の神紋 〜見捨てられた少年は神の力を奪い世界に叛逆する〜

神に愛された聖なる都カルセド。

それは、純血のエレネ人だけが尊ばれる、美しき支配の街。

その裏で、混血の少年サバジュは誰からも見捨てられ、ただ生きるために足掻いていた。

かつてこの地を治めていたアトゥーサの民は滅び、旧き神もまた力を奪われた。

そしていま、少年は一匹の狐と出会う。

それは、かつてアトゥーサの神として君臨していた九尾の神狐イシュカ。

だが、いまではエレネ人の神に敗北し、全てを奪われていた。


少年がイシュカと契約を結ぶとき。

その額に神の力が刻まれる。

──黒曜の神紋。


それは、世界への叛逆の証。

魔獣を呼び出し、その力を使う禁忌の力。

己も、街も、国も──そして神の力さえも。

全てを、奪い返すために。

 がちゃり、と金属が(こす)れる音がした。


 通路の先。

 視界が開けた空間に、白銀の甲冑を着込んだ聖騎士が立つ。

 教会が、ついに俺を敵と認定したようだ。

 聖騎士の横に、青銅の鎧を着た聖兵隊が居流れる。

 彼らの無機質な眼差しは、着古した古着のように馴染み深かった。


「対象確認。例の低級魔猟師です」

「低級がこの階層に現れるとはな。しかも、一人で」


 聖騎士の蒼い双眸が鋭くなる。

 確かに、ここは中級魔猟師じゃないと立ち入れない階層だ。

 それでも、そう簡単に見つかるほど間抜けではなかったつもりだ。

 どうやら、教会が魔塔(ミルゴス)を管理しているという噂は本当なのかもしれない。


「ソティリス。お前が、俺に興味があるとは知らなかったよ」

「混じり物の低級など、私も相手にするほど暇ではないのだがね」


 豪奢な黄金の髪を掻き上げるソティリス。

 蔑みの目は、幼い頃から変わらない。

 こいつにとっては、純血のエレネ人が一番なのだ。


「異端は、別だ」


 ソティリスの右手が上がる。

 兵たちの剣が、一斉に抜き放たれた。


「俺が相手なら、騎士様は出る必要もないってか?」


 甘いな、ソティリス。

 一人で中階層に来ているという事実を、きちんと認識できているのか?


 そっと額環に触れる。

 冷たい感触が、俺に力を与えてくる。

 額環の下に隠された守り神が、勇気を奮い立たせるのだ。


 右手を突き出し、俺は理をねじ曲げた。


灰色狼(グリスリュコス)!」


 右手の腕に刻まれた魔獣紋(セリオン・キクロス)が、赤く輝く。

 同時に、同じ紋様が床に描かれると、そこから獰猛そうな灰色の魔狼が現れた。


「来い、白兎(レウラゴス)!」


 左腕の魔獣紋(セリオン・キクロス)の輝きとともに、今度は純白の魔兎が出現する。


「魔獣の召喚──それが、中階層まで来た秘密と言うわけか。だが、その程度の魔獣ではな」

「驚くのは早いんじゃないか、ソティリス」


 そっと額環を外す。

 露わになった黒曜の紋様に、聖騎士の瞳が開かれた。


「貴様、それは──」

人化(アラガンスロープ)!」


 ソティリスには、この紋様が何かわかったのだろう。

 だが、もう遅い。

 額に刻まれた黒き神紋が、鮮烈な輝きを放つ。

 意志を持つかのようにまたたくと、そこから膨大な力が流れ出す。

 ドクン、と両腕の魔獣紋(セリオン・キクロス)が脈を打った。

 その瞬間──。


 狼と兎から黒い光が発し、人の姿へと変わっていく。

 長い灰色の髪のすらりとした美女。

 そして、赤いショートカットの活動的な少女が現れた。


「お呼びいただき感謝致しますわ、主君。御身の牙たるサルハーナはここに」

「待ちくたびれたで、あるじ様! このアルネブはあるじ様の刃。さあ、蹴散らせと命令してや!」


 サルハーナは背筋を伸ばして一礼し、アルネブは背丈より長い刀を振り回す。

 異様な光景に、さすがのソティリスも言葉を失っていた。


「──おい、サバジュ。貴様、これは異端とかそういう話ではもうないぞ……」


 白い肌から血の気が失せ、その瞳には畏怖が宿っている。

 視線は、俺の額に釘付けだった。


「貴様、その紋様──邪神イシュカの黒曜紋だな」


 イシュカの名を聞き、聖兵隊にどよめきが走る。

 連中から見れば、そうなのだろう。

 だが、俺にしてみれば、イシュカは救い。

 魂そのものだった。


「邪教徒め──このソティリスが、腐った魂を浄化してやる。おとなしく地獄に行くがいい!」


 剣を抜くソティリスを見ながら、俺は奇妙にも懐かしい思いに囚われていた。

 彼と初めて対決したのは今から五年前。

 聖都カルセドの薄汚い路地裏──。


 そこで、俺はイシュカと出会ったのだ。



 腹が減っていた。

 表通りでは、きらびやかな服をまとった白い肌のエレネ人たちが行き交っている。

 だが、混血の俺には、光は眩しすぎた。


 十三歳まで生きてこられたのが、奇跡だった。

 死と常に隣り合わせの世界。

 唯一の肉親であった母親も、三年前の朝ぼろ雑巾のように冷たくなっていた。


 世界を変えるなんてだいそれた望みはなかった。

 ただ、この飢えを満たしたい。

 そう思いながら、力なく路地裏に横たわる。

 もう立ち上がる力もなかったのだ。


「薄汚い狐め! 聖都に獣が紛れ込むか!」


 薄れゆく意識を、喧騒が呼び戻した。

 大路から路地に、きれいな身なりの少年たちが駆け込んでくる。

 金髪のエレネ人。

 聖都を支配する神クラーヴァの信徒たちだ。


 彼らが追っていたのは、傷だらけの小さな狐だった。

 魔獣にしては、弱々しい。

 追いかけ回すような害のある存在には見えなかった。

 だが、エレネ人にとって、弱さとは悪だ。

 力がない者は淘汰されていく。

 あの狐は、運がなかったんだろう。


 棒を持った少年が、狐を殴りつけた。

 かん高い鳴き声。

 壊れた心でも、揺さぶられる響きがある。

 だが、俺になにができる。

 エレネ人の街で、混血が逆らってもいいことはない。


 悲鳴をあげながら、狐がじっとこちらを見てきた。

 あきらめと、そしてかすかな希望。

 絶望の中に潜む生への執着は、まるで俺を見るかのようだった。


「よせ」


 制止の言葉。

 思わず、口をついて出ていた。

 自分がその言葉を発したことが、信じられない。

 だが、俺には耐えられなかったのだ。

 あの狐の瞳は、自分と似すぎていた。


「やめろ、ソティリス。そこまでやらなくてもいいだろう」


 棒を持ったエレネ人の少年が振り返った。

 そいつは、教会のえらい奴の息子だった。

 市場で食べ物を盗んだ俺を、半殺しの目に合わせてくれたことがある。

 金髪に、蒼い目。

 鍛え上げられた身体は、エレネ人の理想そのものだった。


「誰かと思えば、混ざり物のサバジュじゃないか。もうとっくにくたばったと思っていたが、私に手助けしてほしいのか?」

「そいつは魔獣じゃない。殺すことはないだろう」

「は、戯言を。至高の神クラーヴァが、狐を悪魔だと断じているのだ。これは神の正義の執行だ」


 クラーヴァなんてクソ食らえ。

 エレネ人の神は、俺にとっては敵そのものだ。

 混血を庇護する神など、いるはずがない。


「邪魔をするなら貴様も殺すぞ、混ざり物。前から目障りだったんだよ」


 タ・ス・ケ・テ。


 不意に、頭の中に声が響いた。

 力なく横たわっていた狐が、不意に大きくなったような感覚。

 黒い双眸が、俺を呑み込むように輝きを強めていた。


「──俺に、語りかけているのか?」


 狐は、じっと見つめてくる。

 声はもう聞こえなかったが、その目が雄弁に物語っていた。


「──わかったよ」


 俺が頷くと、ソティリスは満足そうに笑った。

 自尊心の塊のような男だ。

 肯定が、奴の機嫌をよくする。

 だが、今のは、お前に向けたものじゃない。


「俺が、お前を助ける。それでいいか?」


 にやりと、狐が笑った。


 黒い輝きが、路地裏を走る。

 ばたばたと、エレネ人たちが崩れ落ちた。

 気がつくと、俺の目の前に、艷やかな黒髪の美しい女が立っていた。

 あちこちに、傷を負っている。

 彼女が狐が変じた化生であることは、すぐわかった。


「よき心がけじゃ、アトゥーサ人の少年」


 傷だらけでも、その女は美しかった。

 絶望に満ちた瞳が、別人のように強く輝いている。


「殺したんですか?」

「そこまでの力は戻ってはおらぬ。気絶した程度じゃろう。かつての妾なら、ひと睨みで命も奪えたものを」

「そんな力を持っているのに──どうして」

「妾の力は、みなクラーヴァに奪われたのでな。部の民も、魔力も、みなあの牡牛めが持っていった」


 美女の漆黒の双眸には、深い昏さがあった。

 俺と同じ闇を抱えた瞳。


「妾はイシュカ。かつてはこの地の神として君臨していた。じゃが、力を失ってからは、ただの獣として生きてきた。いま、僅かな力を振るえたのは、そなたが妾を助けようと思ってくれたからじゃ」


 イシュカ。

 カルセドでは、その名は邪神として語られている。

 だが、それはエレネ人にとっては、の話だ。


「ま、その思い程度では、こうして一時数人を昏倒させることくらいしかできぬ。じゃが、少年よ。そなたが妾と契約し、民となるのであれば、話は別じゃ。妾とともに、クラーヴァに奪われたアトゥーサ人の王国を取り戻すつもりはないか?」


 イシュカが手を差し出してくる。

 その手を取れば、俺は血塗られた人生を歩むことになるかもしれない。

 しかし、それがどうしたというのか。

 イシュカも、俺も、もう奪われたままでいるのはごめんだった。


「少年じゃない。俺の名は、サバジュだ」


 血が滲む手を取る。


「契約、成立じゃな」


 安堵したように、女神が微笑む。

 その言葉とともに、額に激痛が走った。

 思わず座り込む俺を見て、イシュカが肩をすくめる。


「しっかりせい。痛みは一瞬であろう。それは契約の証──妾の紋章じゃ」


 額に触れると、焼き印を当てられたように熱を持っている。

 何かの紋様が、肌に刻み込まれていた。


「その黒曜紋がある限り、妾はそなたとともにある。さあ、取り戻しに行くぞ」


 そうだ、座り込んでいる場合じゃない。

 俺は、これから全てを奪い返すのだ。

 俺自身を、そしてこの世界を。

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