2-14 善意のバグと不可思議さん
常盤正悟は仕事も人間関係も滞りなくこなしている。ただ一つ、どうしても拭えない違和感があった。それは『お前のため』だと善意を押し付ける同僚・麻木善也の存在。正しく、非の打ち所のないはずの彼に、なぜか苛立ちが募っていく。
やり場のない感情を抱えたまま、気づけば見知らぬ駅で途中下車していた。
偶然見つけた『喫煙と愚痴歓迎』の居酒屋。そこで出会ったのは、どこか現実離れした女だった。
彼女の何気ない一言。それが常盤の中に溜まり続けていた感情の輪郭を、静かに浮かび上がらせていく。
「お前のためだよ」
その言葉を聞く度、俺の意思はどこにあるのか分からなくなる。
朝。午前六時三十分。
枕元のスマホから不快な音が規則的に鳴る。平日の、しかもまだ夢心地という半覚醒。この音で気怠い現実に引き戻される。
身支度のあと、すっかり糊が取れたワイシャツに腕を通す。
満員電車へ押し込まれ、目的地到着と同時に開放される。鬱屈した毎日だが、この瞬間だけは嫌いになれない。
職場に入る、その直前までは。
見慣れたビルのエントランスを抜ける。エレベーター前で別部署の彼女と目が合った。恥ずかしそうな笑顔で、ほんの一瞬互いに手を振る。
この些細な幸せで、世界が少しまともに見える。
フロアに入ると打刻用PCに繋がるマウスに手を置く。
「おはよう。常盤」
画面にカーソルが浮かび上がった直後、男の声が突き刺さった。舞台俳優を思わせるハキハキとした発音。
身を固くしたのを悟られないよう無難に言葉を返す。
「おう。おはよ」
意識していないつもりだったが、己の喉から出てきたのは情けない引きつった声だった。出勤の欄にチェックを入れると、後ろの男に順番を譲る。そのまま立ち去ろうとした時、続けて男は俺に話しかけた。
「今日、暑いよな。まだ五月始めだっていうのにさ」
「あぁ……そうだな」
適当に相槌を打つ。世間話として何もおかしくない。
声も、態度も、女子社員が騒ぐのも、上司が可愛がるのも、たぶん間違っていない。
それでも俺は、この男――麻木善也が苦手だった。
麻木はこれ以上話題を膨らます様子でもなさそうだったので、今度こそその場を立ち去るべく踵を返す。瞬間。
「あぁ、そうだ。常盤」
「何?」
嫌な予感がする。
「昨日のプレゼン資料。間違いあったから直しといた」
一拍、思考が停止する。頼んだ覚えはない。
俺の返事を待たず、麻木は言葉を続けた。
「ここ最近忙しそうだっただろ? ま、気にすんな」
彼に軽く左肩を叩かれ、思わず顔を引き攣らせてしまう。
ふざけるな。先回りして勝手なことをしないでくれ。
頭に浮かんだ罵倒が口から飛び出すのをグッと堪える。ここで爆発させてしまったら針の筵になってしまう。代わりに俺は簡単な言葉を口にする。
「ありがとう。助かった」
嘘を伝え、罪悪感と違和感に苛まれる。彼は俺の声色に疑問を抱くことなく、いつもの調子で満面の笑みを浮かべた。彼女の笑顔と全く異なるいかにも営業向きなものだった。
「そんなヘコむなよ。お前のためだって。じゃあ、またな」
我先にと自分のデスクに向かう彼の背中を一瞥し、触れられた肩を誰にも見られぬようハンカチで拭った。
こんなことは、別に珍しくもない。
ただ……少しずつ溜まっていくだけだ。
会社から割り当てられた自分のデスクの前に腰を下ろす。使い回されたせいかガタがきている事務椅子。いっその事壊れてしまえば経費で新品を購入できるというのに。
職場用のPCを起動した時だった。近くの女子社員がスマホを見ながら騒いでいる。
「ねぇねぇ、これ見てよ」
「ん? ネット掲示板? あんた、そんなもの見てんの?」
耳をそばだてるつもりはなかった。ただ彼女達の声のボリュームで自然と意識が向いてしまう。社外の電子メールに目を通すが全く頭に入ってこない。
要約すると、どうやら『地下鉄S駅で痴漢撃退』という書き込みがあったらしい。しかも、それをやったのが麻木じゃないかと言っている。
先週、珍しく午後から出社したことを理由にそんな推測が飛び出す。ドラマの観過ぎだと笑われていたが、その時だった。
彼女らの視線がスマホからオフィス出入り口に向く。つられて俺も顔を上げる。すると、クリーム色の大判な厚紙を手に持った麻木が現れた。すかさず噂好きの女子社員が奴に声をかける。
「麻木さん、それ……もしかして」
「警察から貰った。感謝状ってやつ」
奴はそう言うと自分の席に座り、紙を半分に折り始めた。
「え……賞状、折っちゃうんですか?」
「あっても場所に困るだけだし。紙ごみでいいんだよ、こんなのは」
「はぁ……あ、そうそう。やっぱり噂は本当なんですか?」
「噂?」
麻木は事情を一通り聞くと、たった一言こうつぶやいた。
「それ、普通じゃない?」
上手く言えないが、また怒りが溜まった。
その感情を持て余したまま、気づけば定時になっていた。
スマホが震える。彼女からのメッセージだった。
『お仕事お疲れ様。今日、お泊りの日だったよね? 食材買っておこうか?』
すっかり忘れていた。こんな俺でも待ってくれる人がいる。そう思うと心が緩んだ。
ただ今は……どうしても一緒にいる気になれない。
俺は初めて彼女に嘘をついた。
『ゴメン。ちょっと人から相談受けてて……来週でもいい? ディナーごちそうするから』
五分悩み、完成した文章がこれだ。自分の精神状態で『相談役』だなんて滑稽にも程がある。送信から一分と経たずして、彼女の返信が届いた。
『そっか。正悟君って面倒見いいもんね。じゃあ、友達とカラオケ行ってくるよ。ディナー、楽しみにしてる』
この女性はどこまでも真っすぐだ。俺にはもったいないくらいに。
帰りの電車に揺られながら、俺の立場を改めて考える。家庭環境、ルックス、出身大学、職場の業績はどれも平凡そのもの。かたや麻木は全てパーフェクト。しかも取引先の社長令嬢と婚約中だ。そんな完璧人間に怒りを覚える自分が分からない。
電車特有の床の感触が、いつの間にか点字ブロックの硬さに変わっていた。我に返り振り向くと、俺を運んでいた四角い箱は遥か遠くに行ってしまった。目的地とは違う駅に降りていた。急ぐ理由もない。少し歩いて頭を冷やすことにしよう。そう考え、改札を抜けた。
ひとまず駅の壁沿いに目線を送る。コンビニやファーストフード店。自宅最寄りと変わらない景色。
その中で一際目立つ存在がある。よれたスーツを着た初老の男が、駅前の掲示板に向かって怒鳴り散らしていた。俺はほんの好奇心で通行人を装い、怒りの対象を横目で眺める。
それは『誰でも相談ホットライン』のものだった。
「お前で解決するなら苦労しねぇんだよ!」
オッサンの悲痛な叫び声が俺の胸に突き刺さった。そうだ。所詮、窓口の向こうにいるのは人間だ。おいそれと愚痴を漏らしたとして、こちらの考えを全てくみ取ってくれるわけでもない。
――もしかすると未来の俺なのかもな。
そんな言葉が脳内を巡る。しかし公共の面前で迷惑をかけるわけにはいかない。この黒いものを吐き出せる場所があったなら。
行き場のない怒りが、また腹の奥に溜まっていく。
無性に煙草が吸いたくなった。だが、周辺には喫煙所が見当たらない。どこもかしこも禁煙の貼り紙ばかりだ。加熱式でも、ルールを破るほど落ちぶれてはいない。
「これも『善意』ってやつか……」
思わず本音が零れる。そろそろ自宅へ帰ろう。そう思った時だった。視界の端に小さな看板が見えた。路地裏に置かれた黒板に、こう書かれている。
『喫煙と愚痴歓迎 飲み処隠れ家』
建物の外観を見る限り飲食店のようだ。小さな、古びた居酒屋。喫煙はともかくとして『愚痴歓迎』とは。……出来過ぎている。
店の引き戸を開けると、煙草と酒が混ざった匂いが鼻を刺激した。座席はカウンターとテーブル二台のみ。まさに店名通りの『隠れ家』といった内装だ。
テーブル席に座る作業着姿の男が愚痴を零していた。
「なんかさぁ、理不尽ばっかりだよなぁ、この世の中って」
男は手に持ったグラスを空にすると、長く深い溜息をついた。それを見た座席合い向かいにいる店員が笑いながら言う。
「まぁまぁ、今日はそれくらいにしておけ。奥さん待ってるんだろ?」
「店長、いつも助かる。ごちそうさん」
「まいどー」
男は会計を済ませ、足取り軽くその場を後にした。
店内がBGMと換気扇が回る音だけになり少し静まる。男が飲んだグラスを片付けている店長と目が合う。
「いらっしゃい。好きな席、座っていきな」
そう言われた俺はカウンターの一番端に座る事にした。煙草を箱から一本取り出し、デバイスに差し込む。彼女に禁煙を促されてもこれだけはやめられない。
一本吸い終わる間際、店長が注文した生ビールを提供してくれた。カウンター越しにマジマジと俺を見る。
「にーちゃん、ずいぶんと溜め込んでいるな?」
俺はその言葉を合図に愚痴を吐き出した。店長は横入りする事なく頷いてくれる。会話の合間に喉の渇きをビールで癒していると、どこからか押し殺す笑い声が聴こえてきた。周りを見渡すと、カウンターの逆端に若い女が紙煙草をふかしていた。黒い無地のTシャツとジーンズという出で立ちから、おおよその年齢も判断できない。俺は女に問いかける。
「あの、何かおかしいですか?」
「別に? ただ『大変だなぁ』って思ってさ」
「……それ、喧嘩売ってます?」
「まさか。ただ……」
女は煙を細く吐き出し、吸い殻を灰皿に押し付けた。
「ちゃんと怒れてるだけマシだよ」
「……は?」
「それ、人間として当然だから。むしろ健全」
スマホが震える。取り出すと画面には彼女からの通知。
女に視線を戻すと新しい煙草に火を付けていた。
「で、なんであんたが怒っているか知りたくない?」
俺は少しだけ悩み、スマホの電源を落とした。
「……聞かせていただきます」
この不可思議な女との出会いが全ての始まりだった。





