50,幼い私の歩いてきた道
「さぁ、ミュシュ。まずはこっちだよ」
スティは私の手を取ると、恭しく一つ目のお立ち台へ導いた。
(なに……?これから何が始まるの?)
エスコートされながら、お立ち台に上らされる。すると、皇帝陛下や皇妃殿下さえ見下ろす高さで。恐れ多さに、ふわりと気が遠くなりそうだった。
「ラダ、ユン!準備して!」
「「はっ!」」
私が入場してきた扉の近く、壁際にひっそりと置かれていた可動式のボードがガラガラと運ばれてくる。
近付いてくるそれには、横長の紙が貼られていた。
(ええと、『ミュシュ、歌姫としての活躍の記録』……って、えっ!?)
目を見開く私を差し置いて、全員が「おぉ!」と感嘆の声を上げる。
(待って、お願いだから待って……!)
そんな願いも虚しく、全員から拍手が起こる。ユンから大きな籠を受け取ったスティは、一度頷いてから年表を示した。
「これは、影に調査させた記録と、私が王国で調べ上げたミュシュの足取りを年表にしたものだね。まずは七歳の秋。弟のラディムが四歳になった、すぐ後から始まるよ」
それからスティは、私の“王宮での日々”を語り始めた。
まだ成長しきっていない幼い体。それなのに求められるのは、力強く安定感のある歌姫としての声。その日の課題がこなせなければ、その日の目標を達成出来なければ、食事を抜かれ、体力を付けるため走らされた。
喉が枯れても。立っている気力すら失っても。指南役の罵声が飛び、歌姫の先輩方から嘲笑される――毎日がその繰り返し。
冬の寒い廊下で、一人声出しをさせられた日。今でも空気の冷たさまで、鮮明に思い出せる。翌日、私は倒れて寝込み、戻った頃には更に険のある目つきで睨まれることになってしまった。
見習い歌姫として、先輩に指導を乞おうとしても、身分の低い私の面倒を見てくれる人はいなかった。見兼ねた二つ年上のビェラさんが、まだ同じく見習いだというのに私の面倒を見てくれて……。
スティの話を聞くと、懐かしさが込み上げてくる。
けれど、決して楽しい話ではない。気付けばみんなの表情が曇り、そして怒りを顕にしていた。
(どうして、こんなパーティーの場で……?スティは、一体何を考えているの……?)
「ミュシュは半年間、頼れる相手もいないところで、ずっと耐え続けていたと聞いた。気にかけてくれたのは、その子爵令嬢一人だけだった……と」
その声と共に、ラーンスキー公爵夫人――お養母様が私の前へ出た。後ろ手に隠していた、リボンのかかったそれを差し出される。
「……え?」
「ミュシュ。一人で心細かったことでしょう。王宮に入ってから、何度も枕を濡らしたと聞いたわ。寂しがる貴女に、わたくしはこれを贈ってあげたかった。貴女は一人ではないのよ、って」
それは、可愛らしいうさぎのぬいぐるみ。放心する私の腕に、お養母様はそっとそれを乗せた。ふわふわで、まるで私を見上げているような瞳が付いている。
「ミュシュ、次に行こうか」
「…………っ」
それだけで、スティの考えが分かってしまった。既に泣いてしまいそうな私は、きゅっと唇を結ぶ。
(スティ、貴方は……私の誕生日を取り戻そうとしてくれているの……?)
私はその背に連れられて、次のお立ち台へと上った。
八歳から九歳。この間は、イルジナ様が王宮にやって来た頃のこと。
同じ見習いとは思えないほどの高待遇。身分の低い歌姫を見下し、罵り、軽んじても。訓練も甘く、彼女は何をしても許されていた。
(心が清らかな人間じゃなくても歌姫になれるのね……)
と、私はモヤモヤとした気持ちを抱いてしまっていた。同じことをしても、イルジナ様は褒められ、私は当然だと言われ。イルジナ様は許され、私は叱られたから。
リブシェさんと親しくなったのもこの頃だった。身分の低い者同士で、ひっそりと過ごすことを覚えたのよね。
そんな私に、今度はラーンスキー公爵――お養父様が、私に一冊の絵本を掲げる。
「これは王国で有名な、女神と歌姫を題材にした絵本だそうだ。ここには女神から力を与えられ、苦しむ民や土地に光をもたらす心優しい歌姫が描かれていてね。ミュシュこそ、この歌姫だと教えてあげたかった。我が養女は、私達の誇りだ」
唇を閉じているのに、歯が震えてカチカチとぶつかり合う音が小さく鳴る。「ありがとうございます」と言いたいのに、口を開けば一緒に涙も溢れてしまいそうで。
「次はミュシュが十歳になるまでだね」
スティはそんな私を、穏やかな瞳で見つめている。潤む瞳を一度ぎゅっと閉じて、導かれるまま足を運んだ。
十歳といえば節目の歳。それまで一度も誕生日パーティーを開いてもらえなかった私に、イルジナ様は嫌味を言ってきた。
「お前、十歳もどうせ家族に祝ってもらえないのでしょう?仕方がないから、わたくしの誕生日に呼んで差し上げるわ」
そうして私が着ていったのは、歌姫見習いの式典用衣装。
華やかに着飾る令嬢達。その髪に揺れる可愛らしい髪飾り一つさえ、この手にはない。その頃には悲しみも薄れ、諦めが勝っていた気がする。
私の前に立った皇妃殿下――お義母様は、綺麗な小箱を開く。中には色とりどりのリボンや髪飾りが入れられていた。
「ミュシュ。貴女の艶やかで美しい髪に、これらを飾ってあげられなかったのが残念だわ。けれど、自信を持ちなさい。身を守る鎧も持たず戦い続けた貴女は、何にも変え難い美しさを持っているわ」
その言葉に、頷くことしか出来なかった。震える手で受け取ると、もう手がいっぱいになってしまった。
「プレゼントは一旦預かるね。気を付けて下りるんだよ」
優しく声をかけられ、手が差し出される。大きな籠はそのためだったのねと、つい笑ってしまう。目を細めると少し視界が滲んで、すんと鼻をすする。
十歳から十一歳。フレナが王宮に来た年。彼女も私と同じ男爵令嬢で、とても立場が弱かった。
先輩だけでなく同期からも疎外され、いつも俯くその姿に、私は耐えられなかった。けれど、同じ立場の私が寄り添ったところで何の防波堤にもなれず、結局嫌がらせを受けてばかりで。
――明日はどんな目に遭うのだろうと、不安で眠れない夜もあった。
私のせいで、かえってフレナの状況まで悪くしてしまったかもしれない。そう何度も考えてしまった。
それでもフレナは「ミュシュ様、ありがとうございます」と、私を慕ってくれて……。彼女を救いたかったのに、私の方が支えられていた気がするわ。
「逆境でも他者を労わる心を忘れず、美しい心を持ち続ける。それは並大抵の者には出来ぬことだ。類稀なる天賦と言えるだろう。清らかな義女に、私からは優しき音色を贈ろう」
ポロン……と鳴り始めた音。それは、スティやエウテと奏でた曲。皇帝陛下――お義父様は、私にオルゴールを渡してくださった。
上部には金と銀の宝石が輝き、中には『愛しき義女に、安らかな眠りを』とメッセージが書かれている。
私はそれをぎゅっと抱き締めて、目尻を拭った。
その次、十二歳までの年もまた大変だった。王宮に来て五年。見習いから一人前の歌姫として扱われるようになった年。
一人前の歌姫と認められてから、多くの祝詞や作法を覚えなければならなかった。
それなのに、私はペンや紙すら用意出来ず、宮廷で最低限支給されるものだけでは足りなくなってしまって。先輩方の課題や雑務を肩代わりをして、お古をもらっていた。
使い古された、毛の抜けている羽根ペン。書いた部分だけを千切り取られた、表紙の汚れたノート。それがなければ、私はまともに学ぶことすら出来なかった。
「ミュシュお姉ちゃん!」
「……エウテ」
ぴょこんと飛び出してきたエウテが、透明な箱を差し出した。中には上質な文房具セットが収められている。
「僕もね、この間お師様にもらったんだ。『帝宮楽師見習いになって、沢山学んでくるんじゃ』って。だから、ミュシュお姉ちゃんにも使ってほしいな」
私は、受け取ったそれを眺める。凝った意匠の持ち手の、真っ白の羽根ペン。皮表紙のノートに、五線譜の用紙。紐の付いた可愛らしい栞も入っている。
私は小さな頭を撫で、精一杯微笑んだ。エウテは照れくさそうに微笑んで、楽師達の元へと戻っていく。
「ミュシュとお揃いなんて羨ましいな。私も同じものを買おうかな?」
と、スティが呟き、私は目を瞬いた。そしてつい、くすっと笑ってしまう。
(この二人、どうしてこういうところでいつも張り合ってしまうの?)
笑っているはずなのに、ついに一筋だけ涙が零れてしまう。指で拭おうとすると、スティにハンカチを当てられた。
「まだまだ沢山あるからね。一緒に行こう」
「……えぇ」
もう痛みも忘れた、古ぼけた思い出の欠片。
決して一人ぼっちではなかったけれど、それでも寂しさや虚しさ、諦めといった感情ばかりの記憶だった。
小さな体で歩き続けてきた過去の私。その隣に、まるでスティが居るよう。私の歩んできた道を、寄り添って辿ってくれているみたいに。
(こんな未来が来るなんて。私のこれまでの道が、こんなにも明るく照らされる日が来るなんて……この頃の私は思いもしなかったわね)
スティの手に、自分の手を重ねる。
それは、単音だけの寂しかったメロディーに、一つずつ音が足されていくような。真っ白に近かった五線譜が、少しずつ埋まり、満たされていくような温かさで。
スティの隣を歩きながら、私は次の過去へと足を向けた。




