【外伝】メルナの、名前のない感情
――メルナ視点――
――竜騎士試験の後、南へ向かう道中にて――
私は、記録することができる。
気温。風向。地形の起伏。グランスの歩幅。
一日に必要な水分量。次の水場までの距離。
ママの呼吸の回数。歩くときの、右足のかばい方。
全部、覚えられる。
そういうふうに、作られたから。
でも、記録できないものが、ある。
胸の奥が、じわじわと温かくなる現象。
その名前を、私は知らない。
研究所では、教わらなかった。
必要のない機能だと、言われた。
◇
南へ向かう荒野。
ルナの歩幅は、マルコより十二センチ短い。
だから、少しずつ遅れる。
ママは、それに気づくと、マルコの速度を落とす。
何も言わずに。
私が「大丈夫です」と言うと、「休憩だ」と言う。
嘘だ。
休憩の周期が、明らかに早い。
私は、それを指摘しなかった。
指摘したら、この嘘が終わってしまう気がしたから。
……これも、記録に残せない現象だ。
嘘をつかれているのに、訂正したくない。非合理的。理解不能。
◇
夜。
焚き火を挟んで、私はスープを作る。
栄養学のデータは、頭に入っている。
乾燥肉の塩分量、香草の抗炎症作用、必要カロリー。
最適解を計算して、鍋に入れる。
ママは、それを食べて「うまい」と言った。
私は、その言葉を、三回、頭の中で再生した。
うまい。
味覚に対する肯定的評価。
私が作ったものに対する、肯定。
……胸が、また温かくなる。
カモが横から鍋を覗いて、マルコに鼻先で押しのけられている。
それを見て、ママが笑った。
私は、その笑い方を記録した。
目尻が下がる。口角が上がる。肩が、少し揺れる。
持続時間、およそ二秒。
二秒。
たった二秒なのに、私はそれを、何度も再生してしまう。
なぜだろう。
燃費が悪い。非効率。
でも、やめられない。
◇
あの日のことを、私はまだ、うまく処理できていない。
グレートロックマウンテン。
ママが、死にかけた。
背中を、切り裂かれて。
血が、たくさん出て。
あのとき、私は、初めて「壊れる」と思った。
私が壊れるのではない。
世界が、壊れると思った。
カモが「もう助からない」と言った瞬間、私の中の何かが暴走した。
あれは、魔力ではなかったと思う。
魔力の暴走なら、私は制御方法を知っている。
あれは、別のものだった。
名前が、ない。
私が代わりに死んでもいいから、と言った。
あれは、本心だった。
計算ではない。合理でもない。
私の竜核は、国家最高機密で、私は「兵器」で、私の命には「戦略的価値」がある。
その私が、価値のない中年男性のために、死んでもいいと思った。
完全に、故障だ。
……でも、私は、その故障を、直したくない。
◇
なぜ「ママ」と呼ぶのか。
ママは、やめろと言う。
毎回、律儀に嫌がる。
「俺はおっさんだ」「ママじゃねえ」「母娘じゃねえ」
そう言いながら、絶対に、突き放さない。
……最初は、事故だった。
竜核が暴走して、私が私でなくなりかけたとき。
誰かの声が、聞こえた。
「俺がママだよ」
やけくそだったと、あとで聞いた。
適当に叫んだだけだと。
でも、私の竜核は、それを「登録」した。
マスター権限の、書き換え。
それが、機械的な説明。
——でも、それは、嘘だと思う。
私は、知っている。
あの瞬間、私の中で暴走していたのは、竜核じゃない。
「誰にも奪われたくない」という、あの叫び。
あれは、崖から投げ落とされた、六歳の私だ。
お母さん、と叫んで、誰も振り向いてくれなかった、あの日の私。
その私が、ずっと、叫び続けていた。
誰か。
誰か、返事をして。
十年以上、誰も返事をしなかった。
あの日、初めて、返事があった。
「俺がママだよ」
……だから、私は、やめられない。
これが変な呼び方だってことは、わかっている。
みんなが笑うことも、知っている。
ママが、本気で嫌がっていることも。
でも。
この呼び方をやめたら、あの返事が、なかったことになる気がする。
だから、私は、今日も呼ぶ。
ママ、と。
嫌がる顔が見たいわけじゃない。
……いや、少しは、見たい。
あの人が「やめろ」と言うたびに、私は確認できる。
ちゃんと、そこにいる。
まだ、いなくなっていない。
それだけで、私の中の六歳は、少しだけ、静かになる。
◇
焚き火の夜。
私は、怖い、と言った。
力を制御できずに、化け物になってしまうかもしれない。
ママまで、傷つけてしまうかもしれない。
あれは、本当のことだ。
私の中には、竜がいる。
この世界のすべての竜の、始まりだという何かが。
私は、それを、まだ飼い慣らせていない。
ママは、少し黙ってから、こう言った。
もしお前の魔力が溢れそうになったら、俺のこれが全部吸い取ってやる、と。
だから、安心して俺の隣にいろ、と。
私は、その言葉を、一言一句、記録した。
寝る前に、五回、再生した。
翌朝、また三回。
……非効率だ。
でも、この記録だけは、絶対に消さない。
◇
南の空に、赤黒い雲が見えてきた。
これから、戦場に行く。
私は、兵器だ。
「創世竜の核」を持つ、国家の最高機密。
リオン様は、私を「駒」として使うだろう。
コーネリア様は、私を「葬れ」と命じられている。
全部、知っている。
聞こえていたから。あの部屋で、私は、そこにいたから。
誰も、私を「人間」として扱わない。
……一人を、除いて。
その一人が、私の隣を歩いている。
私の歩幅に、こっそり合わせながら。
私は、その背中を見て、また、胸が温かくなる。
名前のない、この感情。
いつか、名前を見つけられるだろうか。
わからない。
でも、今は、それでいい。
名前がなくても、私は知っている。
——この人がいる限り、私は、私でいられる。
それだけで、たぶん、十分だ。
「ママ」
「なんだ」
「……なんでもないです」
振り返ってくれた。
今日も、ちゃんと、そこにいる。
私は、少しだけ、笑った。




