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ノミの心臓のおっさん、竜の心臓を手に入れる  作者: Zoo
第四章 第七騎士団編
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【外伝】メルナの、名前のない感情

――メルナ視点――

――竜騎士試験の後、南へ向かう道中にて――



 私は、記録することができる。


 気温。風向。地形の起伏。グランスの歩幅。

 一日に必要な水分量。次の水場までの距離。

 ママの呼吸の回数。歩くときの、右足のかばい方。


 全部、覚えられる。

 そういうふうに、作られたから。


 でも、記録できないものが、ある。


 胸の奥が、じわじわと温かくなる現象。

 その名前を、私は知らない。


 研究所では、教わらなかった。

 必要のない機能だと、言われた。



   ◇



 南へ向かう荒野。


 ルナの歩幅は、マルコより十二センチ短い。

 だから、少しずつ遅れる。


 ママは、それに気づくと、マルコの速度を落とす。

 何も言わずに。


 私が「大丈夫です」と言うと、「休憩だ」と言う。


 嘘だ。

 休憩の周期が、明らかに早い。


 私は、それを指摘しなかった。


 指摘したら、この嘘が終わってしまう気がしたから。


 ……これも、記録に残せない現象だ。

 嘘をつかれているのに、訂正したくない。非合理的。理解不能。



   ◇



 夜。


 焚き火を挟んで、私はスープを作る。


 栄養学のデータは、頭に入っている。

 乾燥肉の塩分量、香草の抗炎症作用、必要カロリー。

 最適解を計算して、鍋に入れる。


 ママは、それを食べて「うまい」と言った。


 私は、その言葉を、三回、頭の中で再生した。


 うまい。

 味覚に対する肯定的評価。


 私が作ったものに対する、肯定。


 ……胸が、また温かくなる。


 カモが横から鍋を覗いて、マルコに鼻先で押しのけられている。

 それを見て、ママが笑った。


 私は、その笑い方を記録した。


 目尻が下がる。口角が上がる。肩が、少し揺れる。

 持続時間、およそ二秒。


 二秒。


 たった二秒なのに、私はそれを、何度も再生してしまう。


 なぜだろう。


 燃費が悪い。非効率。

 でも、やめられない。



   ◇



 あの日のことを、私はまだ、うまく処理できていない。


 グレートロックマウンテン。

 ママが、死にかけた。


 背中を、切り裂かれて。

 血が、たくさん出て。


 あのとき、私は、初めて「壊れる」と思った。


 私が壊れるのではない。

 世界が、壊れると思った。


 カモが「もう助からない」と言った瞬間、私の中の何かが暴走した。

 あれは、魔力ではなかったと思う。


 魔力の暴走なら、私は制御方法を知っている。

 あれは、別のものだった。


 名前が、ない。


 私が代わりに死んでもいいから、と言った。

 あれは、本心だった。


 計算ではない。合理でもない。


 私の竜核は、国家最高機密で、私は「兵器」で、私の命には「戦略的価値」がある。

 その私が、価値のない中年男性のために、死んでもいいと思った。


 完全に、故障だ。


 ……でも、私は、その故障を、直したくない。



   ◇



 なぜ「ママ」と呼ぶのか。


 ママは、やめろと言う。

 毎回、律儀に嫌がる。


 「俺はおっさんだ」「ママじゃねえ」「母娘じゃねえ」


 そう言いながら、絶対に、突き放さない。


 ……最初は、事故だった。


 竜核が暴走して、私が私でなくなりかけたとき。

 誰かの声が、聞こえた。


 「俺がママだよ」


 やけくそだったと、あとで聞いた。

 適当に叫んだだけだと。


 でも、私の竜核は、それを「登録」した。


 マスター権限の、書き換え。

 それが、機械的な説明。


 ——でも、それは、嘘だと思う。


 私は、知っている。


 あの瞬間、私の中で暴走していたのは、竜核じゃない。


 「誰にも奪われたくない」という、あの叫び。


 あれは、崖から投げ落とされた、六歳の私だ。


 お母さん、と叫んで、誰も振り向いてくれなかった、あの日の私。


 その私が、ずっと、叫び続けていた。


 誰か。

 誰か、返事をして。


 十年以上、誰も返事をしなかった。


 あの日、初めて、返事があった。


 「俺がママだよ」


 ……だから、私は、やめられない。


 これが変な呼び方だってことは、わかっている。

 みんなが笑うことも、知っている。

 ママが、本気で嫌がっていることも。


 でも。


 この呼び方をやめたら、あの返事が、なかったことになる気がする。


 だから、私は、今日も呼ぶ。


 ママ、と。


 嫌がる顔が見たいわけじゃない。


 ……いや、少しは、見たい。


 あの人が「やめろ」と言うたびに、私は確認できる。


 ちゃんと、そこにいる。

 まだ、いなくなっていない。


 それだけで、私の中の六歳は、少しだけ、静かになる。



   ◇



 焚き火の夜。


 私は、怖い、と言った。


 力を制御できずに、化け物になってしまうかもしれない。

 ママまで、傷つけてしまうかもしれない。


 あれは、本当のことだ。


 私の中には、竜がいる。

 この世界のすべての竜の、始まりだという何かが。


 私は、それを、まだ飼い慣らせていない。


 ママは、少し黙ってから、こう言った。


 もしお前の魔力が溢れそうになったら、俺のこれが全部吸い取ってやる、と。


 だから、安心して俺の隣にいろ、と。


 私は、その言葉を、一言一句、記録した。


 寝る前に、五回、再生した。


 翌朝、また三回。


 ……非効率だ。


 でも、この記録だけは、絶対に消さない。



   ◇



 南の空に、赤黒い雲が見えてきた。


 これから、戦場に行く。


 私は、兵器だ。

 「創世竜の核」を持つ、国家の最高機密。


 リオン様は、私を「駒」として使うだろう。

 コーネリア様は、私を「葬れ」と命じられている。


 全部、知っている。

 聞こえていたから。あの部屋で、私は、そこにいたから。


 誰も、私を「人間」として扱わない。


 ……一人を、除いて。


 その一人が、私の隣を歩いている。

 私の歩幅に、こっそり合わせながら。


 私は、その背中を見て、また、胸が温かくなる。


 名前のない、この感情。


 いつか、名前を見つけられるだろうか。


 わからない。


 でも、今は、それでいい。


 名前がなくても、私は知っている。


 ——この人がいる限り、私は、私でいられる。


 それだけで、たぶん、十分だ。



「ママ」


「なんだ」


「……なんでもないです」


 振り返ってくれた。


 今日も、ちゃんと、そこにいる。


 私は、少しだけ、笑った。

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