空白(ホロウ)
暗闇の中を、リーザスは漂っていた。
寒くて、重い。死の淵で、意識が、ゆっくりと沈んでいく。
その時、懐かしい声が、闇の奥から響いてきた。
『……ザス……リーザスさん』
一通の手紙の文面が、闇の中に浮かんでは、消える。
『こっちの地方では、「竜の心臓」と呼ばれている石です』
ビアンカ。
その笑顔が、まぶたの裏に蘇る。
もう、二度と会えない人。それでも、忘れたことなど一日もなかった、愛しい人。
『ただの石かもしれませんが、私の愛情はたっぷり込めておきました。だからきっと、効果があるはずです。試験の時も、これを握りしめて頑張ってくださいね』
(ああ……そうだ。これは、お前がくれた……)
胸の奥が、じんわりと熱くなっていく。
死にかけて、ようやく思い出した。この石は、ただのお守りじゃない。あの人の愛情そのものだったのだ。何度試験に落ちても、捨てずに持ち続けてきた、たった一つの宝物。
『心から愛しています』
その「愛」の熱さが、胸元の石を通じて、全身へと広がっていく。
そして、別の声が、重なった。
『ママ! 死なないで!!』
「……メルナ?」
二つの声が重なり合い、胸の石が——激しく、脈打ち始めた。
◇
現実世界。
シュゴオォォォ!!
リーザスの胸のペンダントが、メルナから溢れ出る赤い魔力を、掃除機のように吸い込み始めた。
「なっ!? 魔力を吸ってやがる!?」
カモが、目を丸くする。
「吸い込まれた、禍々しい破壊の魔力が……石の中で濾過され、生命の力へと変換されてやがる……!」
カモの声が、驚愕に震えた。
「信じられねえ……そいつは『空白』か!?」
人間の姿に戻ったメルナが、首を傾げる。
「ホロウ……?」
「太古に滅んだ、古代の竜の化石だ!」
カモが、興奮してまくしたてる。
「そいつは、空っぽの器だ! だが、強力すぎる魔力を吸うと——本来の竜の力を発揮しやがる!」
◇
「姉ちゃんの、そのバカでかい魔力が、枯渇した石の燃料になったんだ!」
光が、リーザスの全身を包み込んでいく。
青白かった頬に、じわじわと赤みが差していく。
背中の傷が、信じられない速度で細胞分裂を起こし、新しい皮膚が再生していった。
そして傷が塞がるのと同時に、胸のペンダントの「石」が、ずぶずぶとリーザスの肉体へと沈み込んでいく。
光が収まると、リーザスの呼吸は、穏やかな寝息へと変わっていた。
「……んぅ……」
うっすらと、リーザスが目を開ける。
夢の残滓が残る、ぼやけた視界。
そこに、泣き顔のメルナが映った。
「……ビ……アンカ?」
「ビアンカ?」
メルナの表情が、固まる。
「……違います。ママ、私はメルナです。メルナ!」
必死に、呼びかける。
「メル……ナ」
視界が、はっきりとしてくる。
「!!」
リーザスは、ハッと我に返り、ガバッと上半身を起こした。
「ここはどこだ!? あいつらは!?」
激しい動作にも、痛みはない。
ふと、自分の胸元が、赤く光っていることに気づいた。
「……ん? なんだこの光……って、うおおおおッ!?」
リーザスは、絶句した。
「なんだこりゃあああ!? ペンダントの石が……胸に埋まってるぞ!?」
リーザスの胸の中央に、竜の心臓——ホロウが、完全に一体化していた。
「ママ……! よかったぁぁぁ!」
混乱するリーザスに構わず、メルナが泣きながら抱きついた。
その小さな体は、まだ震えていた。リーザスが死にかけている間、この子がどれほどの恐怖と絶望を味わったのか——その震えが、何より雄弁に物語っていた。
◇
「いってぇ! 急に抱きつくな! ……って、背中痛くねえぞ?」
自分の完治した体に、リーザスが驚く。
あれほどの深手だったはずなのに、傷跡ひとつ、残っていない。
その様子を、カモは離れた場所から、じっと見ていた。
その視線は、リーザスの胸に埋まった「石」に、釘付けだった。
(あの石……肉体と同化しやがった。とんでもねえ古代遺物だ)
カモの目が、商人のように、怪しく細められる。
(俺の「硬さ」と、あの胸に埋まった石の「エネルギー」……)
(……組み合わせりゃ、化けるぞ)
カモが、ニヤリと笑った。
(へっ……こいつは拾いモンだ。あのおっさん、とんでもない「燃料」を、その身に宿しやがった)
数百年、待ち続けた。乗れない、使えないと、誰からも見捨てられてきた。
だが、あの石さえあれば——状況は、ひっくり返るかもしれない。あの男は、ただの瀕死の中年ではない。自分が外の世界へ羽ばたくための、唯一無二の「鍵」なのだ。
「ただのカモ」から、「利用価値のある投資対象」へ。
リーザスを見るカモの目が、その瞬間、決定的に変わった。
カモは、岩陰から飛び出し、ズカズカと二人の元へ歩み寄った。
「おいおっさん! 生きてるなら、さっさと起きろ!」
偉そうに、声をかける。
「あん?」
抱きつくメルナを引き剥がしながら、リーザスが振り向く。
「感動の再会は、そこまでだ」
カモは、瓦礫の上で仁王立ちした。
「命の恩人の俺様と、大事な話があるだろ?」
リーザスは、胸の石を気にしつつ、怪訝な顔をする。
「……な、なんだこの喋るトカゲは?」
カモが、不敵に笑った。
「契約の話を、しようじゃねえか」




