三十四歳、祝福と雨と、ぎっくり
夜の店はいつも通り賑やかだった。
油の匂いと笑い声、ジョッキのぶつかる音。俺――リーザスはテーブル席に腰を落とし、カウンターに背を向けて酒を舐める。だが、耳はずっと後ろに向いていた。
「サーシャ、今日は特別なワインを持ってきたんだ。実家の蔵から取り寄せた一本さ」
「ねえ、パパ。マルコが仕入れに協力してくれてから、今までうちでは出せなかったものが出せるわね」
「そ、そうだな」
カウンターでは、マルコとサーシャが肩を並べて座っていた。
マルコの声は妙に張りがある。
「お義父さん、これからは僕に任せてください。仕入れだって、店の切り盛りだって、僕がバリバリやってみせますよ」
背中で聞く。酒が苦くなる。
「お義父さんに少しでも楽させたい――それが、俺たちの結婚の目的でもあるんですから」
手の中のジョッキがからんと鳴った。
(……なんだそりゃ! マルコ、テメェ。俺と一緒に騎士になるって言ってたじゃねえか)
(てか、オーナー。何、喜んでるんだよ)
脳裏に、少し前の会話がよぎる。
――「騎士を諦めて、うちのサーシャと結婚して、この店を継がないか?」
オーナーの真剣な目。
(“娘を頼む”って、俺に継がせたかったんじゃないのか。なんでマルコなんだよ)
(それに……サーシャが俺を好きだってのは、なんだったんだ?)
ガタン。
衝動でジョッキを叩き、立ち上がった。
「オーナー、お勘定!」
カウンターへ睨みを飛ばす。
オーナーは一瞬たじろぎ、俺の耳元で囁いた。
「し、仕方ないだろ。俺だって驚いてるんだ。まさか、あの二人が付き合い出すなんて……」
ちょうどその時、マルコとサーシャがこちらへ歩いてきた。
「おいおい! 何帰ろうとしてるんだよ!」
◇
「俺たちは、まずお前に祝福してほしいんだ」
マルコが真っ直ぐ言う。
「わかるだろ? 戦友!」
「マルコはね、リーザスこそが一番の親友だって、いつも言ってるの」
サーシャが柔らかく微笑む。
「私もリーザスのことが大好き。だから、ずっと家族で仲良くしたいの」
サーシャの指が、そっと自分の腹を撫でた。
「……家族?」
「ええ。もうすぐ三ヶ月になるの」
喉がきゅっと鳴った。
店内の視線に気づく。期待、祝福、好奇。
歯を食いしばる。胃のあたりに、熱い石が落ちたみたいな痛み。
「……マルコ、サーシャ、オーナー。本当に、おめでとう」
笑顔を引っ張り出し、声にする。
「今日はみんな飲もう! 俺の奢りだ!」
わっと店が湧いた。
「おいおい、そこまでしなくても!」
「いいんだ、奢らせてくれ。二人の未来に――乾杯!」
ジョッキが林立し、泡が溢れた。
笑い声の渦の真ん中で、俺は笑い続けた。笑い続けることだけが、今できる唯一の“祝福”に思えた。
◇
店を出ると、夜風が顔を撫でた。
石畳を踏む足が、酒に引かれて少しふらつく。
「なーにが、“家族で仲良く”だ、コラ……」
ひっく、と情けない音が漏れる。
「お前ら、俺がいないところで、まず二人で仲良くしてたじゃねえか……」
ぽつ、ぽつ。
空から水が落ちてきた。
「マルコ。お前、酷いよ。……酷すぎるよ」
雨脚はすぐに強くなった。
衣は肌にはり付き、靴は重くなる。けれど、足は止まらない。
「――マルコめ!」
胸の底から、怒りと悔しさと、どうにもできない寂しさが混ざった声が出た。
「俺は絶対に諦めないからな!」
腰の鞘に手をやる。
「騎士だ。今年こそ、騎士試験に受かって――心の中でお前に言ってやる!」
剣を抜いた。
「負け犬めがっ!」
むちゃくちゃに振り回す。
刃が雨を裂き、夜気が音を立てて逃げる。
「うおおおおおおお!」
その瞬間、つる。
濡れた石に足を取られ、尻から落ちた。
「ぐっ!」
――ぐき。
鈍い音が、腰の奥で鳴った。
息が止まる。視界が白く弾け、次の瞬間には全身の力が抜けていた。
雨が顔に落ち、痛みが波のように押し寄せてくる。
(……嘘だろ)
地面に片手をつき、なんとか体を起こそうとするが、腰が爆ぜるように痛む。
歯を食いしばり、しばらく空の水だけを受けていた。
(試験まで――三日)
雨は容赦なく降り続いた。
(試験を三日後に控えて、俺は――ぎっくり腰をやってしまった)
情けない笑いが、喉の奥で小さく弾けた。
痛みで、すぐに消えた。




