三十四歳、最後の1年
酒場はいつも通りうるさかった。
油の匂いと笑い声、ジョッキのぶつかる音。俺とマルコはテーブルに向かい合って座り、黙って酒を見つめていた。どちらのジョッキも、泡はもう消えている。
「……三十三歳でまた落ちたか」
マルコがぽつりとつぶやく。
「ああ。俺たち、いつまでこんなこと続けるんだろうな」
周りの客は楽しそうに笑っている。
(せっかく王都に戻ってきたのに……俺の人生、どうしてこうなんだ)
苦笑いを作ってみても、胸の奥の重さは動かなかった。
「ほら、今日は残念会でしょ? 飲んで元気出してよ!」
サーシャがジョッキを二つ、どんと置く。
「ありがとう、サーシャ。でも、元気なんて出ないよ」
軽口を返す俺の横で、マルコは何か考え込んでいた。
そこへ、客のひとりが肩越しに声をかけてくる。
「おい、リーザス、来年は何歳だっけ? もう夢は諦めたほうがいいんじゃないか?」
笑いが起きる。別の男が指を折って見せた。
「賭けが続いてるぞ! こいつらが何歳まで落ち続けるか!」
「俺は三十五までに一銀貨!」
乾いた笑いに、カウンターの向こうでオーナー(サーシャの父)が目だけで「やめとけよ」と合図を送る。
俺はため息を飲み込みかけたが、向かいのマルコがジョッキを持ち直した。
「リーザス。……あと一年、頑張ろうや」
「!?」
「今年、俺たちは斬岩剣はできた。つまり、例年なら受かってた。問題は魔力耐性だけだ。今から一年、じっくり取り組めば――間違いなく正騎士になれる」
「……なるほど」
言われてみれば、理屈はまっすぐだ。俺はうなずく。
「確かに!」
マルコは立ち上がり、店中に向かって叫んだ。
「じゃあ、もうしんきくさい顔はやめ! 来年の合格を記念して飲もうぜ!」
おおおお、と客席に波のような歓声。
肩を組まれて、俺は笑った。
(マルコがいてくれて良かった。一人だったら耐えられなかったかも)
(――でも、マルコ。俺、知ってるんだ)
笑顔のまま、背中のどこかがすうっと暗くなる。
◇
(マルコの実家は王都の酒の卸問屋だ)
(商いは順調で、親兄弟とも仲がいい。ちょいちょい手伝いにも帰っている)
つまり、彼には“帰る場所”がある。
(だが俺は、もう今さらスイトー村には戻れない)
「リーザス」
ぼんやりと飲んでいると、カウンター越しにオーナーが声をかけてきた。
「オーナー……」
サーシャの父で、この店の主。元は雑兵だったそうで、俺たちのような貧乏騎士見習いに安く飲ませてくれる、恩人だ。
オーナーは周囲に聞こえない小声で言った。
「お前に、ちょっと提案がある」
「提案?」
肩に手を置かれる。
「騎士を諦めて、うちのサーシャと結婚して、この店を継がないか?」
「えっ……!」
言葉が胸で止まる。
「サーシャも、お前のことを嫌いじゃないみたいだ。俺が話をつけてやる」
振り向けば、サーシャが向こうで客に笑顔を向けている。その笑顔がこちらに向く瞬間、胸が痛んだ。
「どうだ? いい話だろ?」
「…………」
ほんの少しだけ迷いが顔に出たのかもしれない。
けれど、すぐに首を振った。
「俺なんかにもったいないお話です。でも――」
言葉を継ぐ。
「俺に、一年間の猶予をください。もう一度、試験を受けたい」
オーナーは眉をひそめた。
「おいおい、お前ももう若くないんだぞ」
「分かってます。でも、今ここでやめたら、両親や妹の家族、そして――キリクに顔向けできない」
(たとえサーシャが俺を思ってくれていても、今の俺は正騎士じゃない。釣り合わない。――あと一年、頑張るんだ)
オーナーは短く息を吐き、ぽんと俺の肩を叩いた。
「一年だ。約束は守れ」
「……ありがとうございます」
◇
翌日から、俺はまた石の前に座った。
例の黒い石。皮膚の内側を逆撫でする魔力の圧。
額の汗がぽたぽたと落ちる。指先がしびれ、古傷が疼く。
「……最近、疲れが取れない」
独り言のように漏らし、すぐに打ち消す。(でも、やるしかない)
広場の端では、同じ雑兵仲間が俺を見てひそひそやっている。
「もうおっさんだろ? まだ騎士になれないのかよ」
「いい加減、諦めればいいのに」
聞こえている。けれど、耳に入れない。
石から離れても、斬岩剣の稽古。
剣を振るたび、肩甲骨の奥で鈍い音がする。
夜は、マルコとサーシャと三人で酒を飲んだ。
笑いながら、俺はサーシャの横顔を盗み見る。
(サーシャ。俺はどうしても正騎士になって、君に――)
喉の奥で言葉が形になり、また溶けた。
日が巡る。
「試験が迫る中、俺は三十四になっていた」
訓練所の壁に掛かるカレンダー。赤い丸は多すぎて、もはや塗りつぶしに近い。
(やることはやった。――もう後戻りはできない)
その日、訓練場の隅で、久しぶりにマルコの姿を見かけた。
(マルコ……?)
「マルコ、調子はどうだ」
「よ、よう、リーザス」
「最近、訓練場で見かけないが。秘密特訓でもしてるのか?」
「いや……」
間があった。
いつも豪快な彼の声が、妙に小さい。
「……俺、今年は試験を受けないことにしたんだ」
「は? 何言ってるんだよ。なんでだ?」
思わず前のめりになる。
マルコは視線を泳がせ、拳を握り、そして言った。
「――好きな子ができた。その子と、結婚することになった」
「結婚? 誰だよ?」
「お前も知ってるさ。……サーシャだ」
音が消えた。
剣の素振りの音も、広場のざわめきも、鳥の羽音も。
胸の真ん中に、冷たい穴が開く。
握っていたタオルが、床に落ちた。
――――――
夜明け前が一番暗いと言うじゃないですか。




