晴耕雨読
試験の日。
夜明けの光は鈍く、風は湿っていた。
腰が――まるで自分の一部ではないように、重たかった。
立つ。歩く。息を吸う。それだけで痛みが走る。
それでも俺は、腰を押さえて試験会場へ向かった。
「次、リーザス!」
試験官の声が鋭く響く。
俺は前に出た。岩の前に立ち、剣を構える。
(動け……頼むから)
腰の奥がきしむ。力を込めようとするたびに、筋が拒絶する。
歯を食いしばり、剣を振り下ろした。――が、刃は岩に届かない。
膝が折れ、腰が悲鳴を上げた。
岩は傷ひとつつかない。
試験官の声が無慈悲に降りた。
「不合格。次」
俺は剣を引き、うなだれて列を外れた。
視界の端が滲む。足取りが重い。
外に出た瞬間、空が鳴った。雷鳴。
次の瞬間、雨。
冷たく、容赦なく。
王都の石畳を濡らす音が、心臓の鼓動と同じリズムで響く。
誰も俺を見ない。誰も俺を呼ばない。
(終わった)
自宅に着くころには、服も靴も、心までぐしゃぐしゃに濡れていた。
床に座り込み、顔を両手で覆う。
(夢も、仲間も、愛する人も――全部、俺の手から滑り落ちた)
静寂の中、爪の音がした。
振り向くと、ジョンが立っていた。
毛は白くなり、動きも少し鈍くなっていた。
「はは……お前も、歳とったな」
ジョンを抱きしめる。
「ごめんな。俺にはもう、お前しかいない」
そう呟いた声が、あまりにも現実的で、寒かった。
◇
――それでも、時間は止まってはくれない。
腰が完全に治るまでの間、俺は門番の仕事を始めた。
剣ではなく、槍を持つ仕事。
戦う必要はない。立っていればいい。
王都の門は、建国以来一度も破られたことがない。
ただ立つ。
見張るふりをする。
それだけで、日銭は入る。
(これが……生きる、ってことか)
空気が冷たい。
風に晒されるたび、骨の隙間に年齢が染み込んでいくようだった。
やがて、腰が少しずつ良くなった頃。
俺は訓練場の隅に小さな菜園を作った。
鍬を振るい、土をいじる。
剣よりも軽いその感触に、なぜか安堵を覚えた。
狩り、釣り、読書。
雨の日は横になり、昔の剣の本を開く。
――晴耕雨読。
そんな日々が、静かに流れていった。
(悪くない。悪くない、けど……)
夜になると、胸の奥がざわついた。
「このままでもいい」という安らぎの中に、「もう戻れない」という恐怖が、少しずつ、確実に巣を作っていった。
目を閉じると、剣を握る夢を見た。だが、夢の中の剣はいつも錆びていた。
◇
そんなある日。
城下に緊急の知らせが走った。
「ゾラが、砦を落とした!」
兵士の声が広場に響く。
魔道国家ゾラ――あの国は、世界四大魔術師のひとり、アズドール・メルノックスが興した国。
彼らが作る魔道具は、世界中に魔素を撒き散らし、今や魔物の数を倍増させていた。
そしてその魔物を、彼らは兵として使っている。
セイラム王国の砦が、ひとつ陥落した。
それは「小競り合い」ではなく、明確な侵略だった。
王国全土に緊急事態宣言が出され、戦が始まった。
騎士たちは前線へ送られ、残された雑兵と門番たちは――。
「いいか、憲兵の諸君! 王都も安全ではない! 君たちもここで戦うのだ!」
上官の声が響く中、俺は直立して聞いていた。
胸の中では、違う声が鳴っていた。
(戦う……? 俺が?)
いや、違う。
俺の戦いは――険しい顔をして、立っていること。
周囲を見渡す“ふり”をすること。
剣を握らずに、一日を終えること。
案山子でもできる戦いだ。
でも、それが俺の現実だった。
季節は巡り、空気が冷たくなった。
夜の門の外は静まり返り、遠くで狼の声が聞こえる。
ふと、自分の手を見る。
昔は固かった掌が、いつの間にか柔らかくなっている。
皮膚の内側から、何かが静かに抜け落ちていく感覚。
(……俺は、もう“若くない”)
誰にも言われなくても分かる。
鏡を見れば、答えはそこにある。
戦えない恐怖ではない。
もう“始め直せない”恐怖だ。
――その日、俺は三十五歳になった。
夜明け前の空の色が、どこまでも薄かった。
(……静かだな)
その静けさが、なぜか、剣を突き立てた時の音よりも怖かった。
人生は有限です。




