【外伝】ゼファルドの毒
――ゼファルド視点――
――第六騎士団・任地にて――
俺の最初の記憶は、苦味だ。
三歳。杯を渡された。
飲め、と言われた。飲んだ。喉が焼けた。三日、寝込んだ。
四歳。同じ杯。量が増えた。二日で起きた。
五歳。一日。
六歳。半日。
——それが、俺の一族の育て方だ。
毒に耐える体は、生まれつきでは手に入らない。
少しずつ入れて、殺されない量で殺されかけて、体に覚えさせる。
覚えた体は、もう死なない。
俺は、七つの毒を飲めるようになった十二の年に、初めて父に頭を撫でられた。
嬉しかったかどうかは、覚えていない。
覚える必要が、なかったからだ。
◇
一族の教えは、単純だ。
誰も信じるな。
毒は、笑顔で差し出される。
毒は、味方の手から渡される。
毒は、必ず、信じた者の口に入る。
だから、信じるな。
それだけを叩き込まれて、俺は十八年生きた。
実際、それは正しかった。
——グレートロックマウンテンで、証明された。
◇
ルーカ・ミルヴァン。
俺は、最初から違和感を持っていた。
聖騎士志望の男が、竜騎士試験に来る必要はない。
仲間への労い、と本人は言った。
そんなものは、理由にならない。
人間は、理由もなく命の危険を冒さない。
あの男には、別の目的があった。
だから、俺は疑った。
誰も疑わなかった。
リーザスも、クレオも、アブラナも、あの男を信じていた。
結果は、知っての通りだ。
竜が半分死に、受験生の大半が死に、俺たちは毒の中で死にかけた。
……俺の疑いは、正しかった。
正しかったのに、俺は、何も救えなかった。
疑っていただけで、誰にも言わなかったからだ。
◇
俺は、あの毒の中でも動けた。
一族の育て方のおかげだ。
三歳から飲まされ続けた苦味が、あの日、初めて役に立った。
俺は、死体兵を殲滅した。
ルーカを追い詰めた。首に刃を当てた。
止めを刺そうとした。
その時、リーザスが躊躇していた。
同じ部屋で寝起きした男を、斬れなかった。
——俺には、理解できなかった。
いや、正確には、こうだ。
理解できないふりを、した。
◇
俺には、同室者がいたことがない。
一族の館では、子供は一人で寝る。
誰かと同じ部屋で眠るのは、毒を盛られる隙を作ることだからだ。
だから、俺は知らない。
同じ部屋で、朝、誰かの「おはようございます」で目を覚ますのが、どういうことか。
その相手が敵だったと知ったとき、
手が止まるほどの何かが、体の中に残るということが。
……知らない、はずだった。
◇
卒業の夜。
俺は、第六騎士団からの緊急召集を受けた。
新人に召集がかかるのは異例だ。それだけ、ルーカの件が深刻だということだ。
俺は、荷物をまとめて、出た。
別れの言葉は、言わなかった。
言う理由が、なかったからだ。
振り返らず、片手だけ上げた。
それで十分だと思った。
……その直前。
リーザスが、俺に頼み事をした。
「『ビアンカ』という女が、ゾラにいる。生きてるか、死んでるか。それだけでいい。調べてくれ」
俺は、無言で頷いた。
◇
なぜ引き受けたのか。
理由を、いくつか考えた。
一、貸しを作るため。
将来、あの男の力が必要になる場面があるかもしれない。合理的だ。
二、情報収集の一環。
ゾラの捕虜記録を洗うのは、第六騎士団の任務と重なる。ついでだ。
三、断る理由がなかった。
——どれも、嘘だ。
俺は、あの男の目を見て、頷いた。
あの男の目は、俺が今まで見たどんな目とも違った。
怖がっていた。
真実を知るのを、はっきりと、怖がっていた。
なのに、頼んだ。
知りたくないのに、知ろうとする人間を、俺は初めて見た。
◇
第六騎士団の任務は、影を歩くことだ。
俺は、閲覧禁止の書庫に入った。
入ってはいけない棚に手を伸ばし、開いてはいけない箱を開けた。
これは、規律違反だ。
露見すれば、除隊では済まない。
俺は、それを承知でやった。
……なぜかは、まだ、うまく説明できない。
◇
記録は、存在した。
「ビアンカ」の名は、ゾラ関連の捕虜移送記録の中に、確かにあった。
だが、その先が読めなかった。
閲覧権限が、大元帥府級に設定されていた。
俺は、書庫を出た。
そして、手紙を書いた。
『例の件、記録は存在する。ただし閲覧は大元帥府級の最高機密。時間をくれ』
それだけ。
名前も、挨拶も、書かなかった。
……書けなかった、というのが正しい。
俺は、他人に手紙を書いたことがない。
どう書けばいいのか、わからなかった。
◇
伝令鳥を飛ばしたあと、俺は、しばらく空を見ていた。
あの手紙は、あの男を苦しめるだろう。
「記録がある」というのは、希望だ。
「読めない」というのは、絶望だ。
俺は、その両方を、あの男に送りつけた。
残酷だと思う。
黙っていれば、あの男は諦められたかもしれない。
だが、俺は、送った。
——なぜなら、あの男は、知りたがっていたからだ。
怖がりながら、知りたがっていた。
その矛盾を、俺は、否定したくなかった。
◇
一族の教えは、単純だ。
誰も信じるな。
俺は、その教えを破っていない。
俺は、リーザス・モートンを信じていない。
……ただ、あの男は、俺を裏切らないだろうと思っている。
これは、信じているのとは違う。
観察の結果だ。
あの男は、十八年、自分を裏切らなかった。
自分を裏切らない人間は、他人も裏切らない。
俺の判断は、常に事実に基づく。
これは、感傷ではない。
◇
毒に、耐性はつく。
三歳から飲まされ続ければ、体は覚える。
どんな猛毒も、少しずつ入れれば、いつか効かなくなる。
だが。
一つだけ、耐性がつかないものがある。
それは、少しずつ入ってくるからだ。
毎日、少しずつ。
同じ隊で戦って。
背中を預けられて。
「調べてくれ」と、頼まれて。
気がついたら、体の中に、溜まっている。
俺は、それを吐き出す方法を知らない。
一族は、その毒の飲み方を、教えてくれなかった。
◇
次の報告を、いつ送るか。
権限を突破する方法は、まだない。
時間がかかる。あるいは、一生かかるかもしれない。
それでも、俺は、探し続けるだろう。
理由は、いくつか考えた。
貸しを作るため。任務の一環。断る理由がない。
——どれも、嘘だ。
本当は、こうだ。
俺は、あの男が、真実を知る場面を、見てみたい。
怖がりながら、それでも進む男が、その先で何を見るのか。
それを、見届けたい。
……これを、なんと呼ぶのか。
俺は、まだ、知らない。
一族の館には、その言葉が、なかったからだ。




