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「…我らを虐げていた化け物鯨を討伐して頂き、一族を代表いたしまして、海王様に心からの御礼を…」

そこまで言ってから、神殿の床にひれ伏していたイルカは顔を上げた。

「…あの、ちょっと聞いてます?」

思わずそう尋ねてしまう。

王座に座っている男が、物憂げでだらけきった姿だったからだ。

武勇で鳴らしている海王とはとても思えない。

「はぁぁぁ…」

イルカの耳にも溜め息が届く。アンピトリテに手酷く振られてから、ずっと彼はこの調子だった。


あの後、気を取り直してネレウスに正式に娘との結婚の申し入れをし、形も色も素晴らしい粒の揃った真珠の首飾りや、珊瑚の腕輪、また海底では珍しい金細工の装飾具など、王妃を迎えるのに申し分ない数々の贈り物を用意した。この時代、神々の間であっても親の意向は大きく、ネレウスが許可を与えれば、アンピトリテも従わざる得ないだろうと思ったからだ。そしてクロノスの御子である海王の血を一族に入れるのは、ネレウスにとっても悪い話ではあるまい。

しかし、それらの品はあっさりと返却されて来た。「娘が屋敷を飛び出してしまい、居場所が判りません」というのだ。


…正直、そこまで嫌われているのか、と思ってまた落ち込んだ。


あんな女のことなど忘れてしまえ、と思うのに、どうしてもあの眼差しが脳裏を離れない。

アンピトリテ、と姉に呼ばれていた名を舌先で転がすだけで、鼓動が跳ね上がる。

「姉妹が五十人もいるのだぞ…?」

なんであの少女でなければいけないのだろう。挨拶に来たテティスも素晴らしく美しかった。ついその場で寵姫にならないかと持ち掛けてしまったほど。

だが、アンピトリテは最初から愛人にしようとは思わなかった。濃紺の瞳はとても気高くて、そんな境遇に甘んじるとは思えなかった。彼女の目は支配されるものの目ではなかった。まさに、海の女王にこそ相応しい。

そして、自分こそが彼女にその地位を与えられるというのに、歯牙にも掛けられないとは…。

「はぁぁぁ…」

「…何かお悩み事ですか?」

賢そうなつぶらな瞳が瞬く。気が付くと、謁見していた相手のイルカが随分近くに来ていた。

ポセイドンは気だるげな眼差しをやり、ふと自分が周囲にどのように見られているのだろうと思った。

「お前も俺が恐いか?」

「…そりゃ、敵に回せば恐ろしい方でしょう。でも、あの化け物鯨のように、意味なく私達のようなか弱い生き物を害するとは思いません」

青い優美な動物はきっぱりと言う。

「…俺に怯える女がいる。戦を好む男は嫌いなのだそうだ」

「それは恋のお悩みですか?!」

心なしか、イルカの表情がキラキラと輝き始めた。

「……あ、ああ。まぁ、そうなるか」

「それはまず第一印象ですね!何か恐ろしい姿で現れたんじゃないですか?」

「…血塗れだったな」

「口説き文句は?」

「”お前は俺のものだ”」

「それはいけません!”もの”扱いされて喜ぶ御婦人はいらっしゃいませんよ」

「……。そうなのか?」

はぁ…と溜め息を吐かれてしまった。

「…海王様は、その方のことをどう思っていらっしゃるんですか?正直なところ」

そう問われて、ポセイドンは瞳を閉じた。初めて彼女を見た、あの時のことを思い出す。

「踊る姿は優雅で美しく……それでいて、化け物鯨にも立ち向かおうとした勇敢で気高い女だ。俺を殴るほど気が強いのに、こんな小さな傷に泣きそうな顔をして…」

そして、あの瞳の色。

「……海だな」

ポセイドンは小さく呟く。

「彼女は、海そのものだ…」

吐息を零して目を開くと、イルカが心底不思議そうな顔で自分を見ていた。

「………。なんだ」

「いえ、海王様って意外とロマンチストだったんですねぇ…」

「なっ…!」

ばっと赤くなった男を楽しげに一瞥すると、

「恋のことなら僕にお任せ下さい!」

とイルカはひれを叩いた。



「ふぅ……」

アンピトリテは、海底の小さな洞窟で溜め息を吐いていた。

自分の吐いた息が、真珠のような粒になって上へと昇っていく。

それを見つめながら、アンピトリテはポセイドンのことを思った。

”クロノスの御子を殴ってしまった…”

しかも、命を助けて貰った直後だというのに。

”どうしてあんなことをしてしまったのかしら”

思わず、自分の手をじっと見る。


いきなり『俺のものだ』なんて言われて驚いたのもある。

だがそれよりも、彼が自分の身体を粗末に扱っていることに、無性に腹が立ってしまったのだ。


驚くほど美しい男性だった。

細波のような蒼い髪はゆるやかに肩に零れ落ち、銀の瞳は月光のように煌いていた。

しかし、元は上等なものであろう衣は所々破れていて、逞しい肌にも無数の傷跡が付いていた。

もし、彼に恋人がいるなら、どれほど心を痛めることだろうか。

まして、彼は自分一人の身ではない。この海を背負って立つ王であるのに。まるで、海そのものも粗末に扱われているような気さえしたのだ。


「ふぅ……」

再び、吐息が零れる。

”だからって、殴っていいことにはならないわ…。きっと、凄く怒っていらっしゃる…”

父母や姉妹達に咎めが及ばないといいけれど、と俯く。

あまり自分の考えに耽っていたので、ふいに衣の裾を引かれた時は、飛び上がるほど驚いた。

「きゃっ!」

振り向くと宝石のようなブルーの動物がいて、可愛らしい声で自分の名を呼んだ。

「…アンピトリテ様」

「まぁ!お前は口が利けるのね。こんな賢い生き物は見たことがないわ」

「私共はデルピノス(いるか)と申します。今まで、化け物鯨に虐げられてひっそりと暮らしてきましたが、海王(ポセイドン)様が退治して下さったお陰で、こうして外に出てこられるようになりました」

「そう…そうだったの…」

ポセイドンの名を聞いて、アンピトリテは僅かに表情を翳らせた。

「そして、海王様が王妃をお迎えになられると聞いて、こうしてお祝いに来たのです」

「……王妃?」

「はい、あの海王様の妃となられる方にお会いできて、とても光栄でございます」

「…ちょっと待って。誰が、あの方の妻になるのですか?」

アンピトリテは、黒い瞳を瞬かせる。

「勿論貴方です!アンピトリテ様」

「そんな筈はないわ。だって、私、あの方を叩いてしまったのだし…」

父と挨拶に行った姉のテティスも求愛されたと言っていた。

王妃となるなら長女の彼女こそが相応しいし、そもそもポセイドンは姉のデメテルにも言い寄っていると聞く。

そんな偉大な女神を差し置いて、自分が正妃になるなど。

「絶対にありえないわ。何かの間違いでしょう?」

「海王様は、ネレウス様に正式に申し込みをされたそうですよ。貴方を妃に、と」

イルカの言葉にアンピトリテはプルプルと首を振る。

…正直な所、彼女はあの夜から家に帰っていなかったのだ。海王の怒りが、家族に及ぶのを恐れて。

しかし、事態は彼女の思わぬ方向へと向っている様子だった。

「だって…だって、何故私なのですか?私はテティスやガラテイアほど美しくないし、大体お転婆だって言われたし、王妃に相応しい振る舞いなんて何一つ…」

「あの方が言うには」

イルカは、ここぞと姿勢をただし、その耳に囁く。

「”貴方は、海そのもの”だと…」

ぱっとアンピトリテの頬に朱が散る。

「海王様は貴方に嫌われたと思い患い、食事さえ喉を通らぬ御様子。どうぞ、一度話だけでも聞いて差し上げては?」

多少脚色を交えて言い募ると、可憐な少女はその頬を両手で押さえた。



「……なんの用だ?こんな岩場に呼び出して」

ポセイドンはイルカより伝言を受け、ナクソス島にほど近い浅瀬に来ていた。

「ちょっと!ちゃんと盛装して下さいって言ったじゃないですか!!」

「だから、マントも身に着けたし、キトンも破れていないものを選んで来たではないか」

はぁ…とイルカは溜め息を吐く。

「せっかくデートをセッティングして差し上げたのに…」

「あ、あの…」

岩陰から濃い栗色の髪が覗く。

「お似合いだと思いますわ、そのマント…」

「アンピトリテ!!」

思わず駆け寄ろうとする海王に、きゃっと悲鳴を上げて逃げる少女。

「…海王様!まずはお話から…」

イルカが彼の足を止める。

「…あ、ああ…」


青い賢い生き物を挟んで、二人はようやく対峙した。

「…この間は、申し訳ありませんでした。助けて頂いたのにお礼も言わず…」

「……いや、俺も悪かった。後先考えずに、お前を捕まえようとして…」

ガリガリ、とポセイドンは蒼い髪を掻く。

「ポセイドン様は…」

初めて呼ばれた名前は、甘く、新鮮に耳に響いた。

「どうして、私を…その、妻にと?」

「………。よく判らんが…」

ガリガリガリ…と何度も頭皮を引っ掻きながら、言葉を押し出す。

「俺は、海の王になったことが不満だった」

ぽつりぽつりと本音を語らう。

「俺にとって天界は酷く輝いて見えて…何故、こんな海に追いやられなければならないのかと…心底思った」

海の民から見れば、屈辱とも受け取れるその言葉を、アンピトリテは黙って聞いていた。

「しかし、お前を一目見て、もしお前が俺の傍に居てくれるなら、この海を好きになることが出来るかもしれないと…お前は海の化身だから、お前を愛することでこの海も愛することになり、もしお前が俺を愛してくれたら……。

いや、すまん。訳の判らない話になってしまったな」

「…私は…ポセイドン様を殴ってしまいましたのに…」

「ああ、あれはいい平手打ちだったな」

銀色の瞳が初めて微笑む。その笑顔に、アンピトリテの心臓がとくんと弾んだ。

「それもお前を好きになった理由の一つだ。他の者はびくびくと顔色を伺うばかりで、心底俺のことを怒ってくれる者はいなかった。だが、アンピトリテ、お前は違う。俺のことを恐れても、けして媚び諂ったりしない…」

ポセイドンはそっと岩場に跪く。人間がしているように深く頭を垂れて。

「どうか、我が王妃となって共にこの海を統べる力を貸して欲しい」


「…ひとつ、条件があります」

思いがけぬほど、近くで声がした。

見上げると、紺青の瞳がポセイドンを見つめていた。その深い眼差しに映る自分。海の王、たる男。

「もう、あんな無茶な戦い方はなさらないで。私の夫となるならば、自分の身も大切にして下さい」

「お前が、永遠に憩える海として私をその腕に迎えてくれるならば、約束しよう」

「………。はい」


柔らかな笑みを浮かべた少女を見つめ、ポセイドンは初めて自分が海王になったことに感謝した。




●あとがき

はい、ようやく完結しました。海王夫婦の馴れ初め編。

元々、【再婚】の方もイルカ凄い!と思って書いた話だったので、

こちらもイルカさんが大分出張っております。ラブリーv


イルカは、ポセイドンがアンピトリテを口説くために作った生き物、という説もありますが、

今回はおせっかいな臣下のイメージだったので、元々海に住んでいたが、化け物鯨のせいで表に出て来られなかった、ということにしました。

化け物鯨の方は、アンドロメダ神話からの流用です。(ちなみに普通のクジラとはまったく関係ない、鍵爪のある怪物だそうです)

ポセイドンが、自分が送り込んだ化け物鯨が殺された割にペルセウスを怒らなかったなーと思ったので、

元々ポセイドンが退治し、生き残りをこき使っていたのでは?

と勝手に推測致しました(笑)


人物像としては、うちのポセイドン様はかなりくーるびゅーてぃーな外見で、中身は荒くれ男を装ったロマンティストです。(訳判らん)

アンピトリテは、少女時代はちょっとお転婆さんで、本気でポセイドンのことを叱れる方はこの人だけだろうと…

多分、結婚のお披露目の時にゼウスにも口説かれて平手打ちとかしてますね。

そして、ゼウスもポセイドンも「そこがいい!!」というタイプではなかろうかと…いや、Mじゃないですよ!


最後に、このお話を書く切っ掛けをくださったねおばーど様に感謝しつつ…

また次のお話でお会い致しましょう。(ぺこり)

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