晴れの兆し
小止みなく降り続いていた雨が、今朝になってようやく止んだ。
「ありがとうございます、春樹のために戻ってきてくれて。すっごい急いだんじゃないですか?」
店長の家で話すのはなんだか気恥ずかしい気がして、病院の白い廊下を並んで歩きながら小声で囁く。ここに来るまでに数人の入院患者や看護師とすれ違ったけれど、春樹のいるフロアではまだ一人も見かけていない。しんと静まり返っていて、妙に急かされているようで落ち着かない。
「ああ。適当に済ませるわけにも行かないから、苦労した。だがまあ、初めてではないからな、四国は。向こうも段取りを分かっているおかげで、余計な手間は省くことができた」
「余計な手間?」
急ぎ足の店長に歩調を合わせるため、半ば跳ぶように一歩を踏み出しながら聞き返す。
「まず、対象を落ち着かせなくてはならない。《災い》に取り付かれた人の多くは、肉体よりもまず先に精神に変調を来たすんだ。春樹くんのように直に生命を削られるというのも考え物だが、その点だけで言えば今回は楽な方だよ」
「そんなに大変なんですか。その、どうやって落ち着かせるんでしょう……?」
店長は表情を変えずに短く答えた。
「殴る」
「な、なぐる」
「その後、中途半端に意識を取り戻したりしないように薬を嗅がせる」
それって犯罪すれすれじゃないですかっ。
叫びそうになるのを抑える一方で、神様に心から感謝を捧げた。春樹がそんな目に遭わなくて良かった!
聞くところによると、《災い》の治療は一晩でも終わらないことが多いらしい。たった一日で店長が戻ることができたのは、私たち姉弟にとって大変幸運だったといえる。時々店を空けるのは、そういう理由があったのだ。
心配なのは、二日続けての勤めとなると疲労もかなりのものだろうという点だ。可能ならば、私に手伝えることは何でもしよう。そう決意をした直後、『有馬春樹』と書かれたネームプレートが目に飛び込んできた。
「あ、ここですよ。春樹の病室」
私は、前に来た時よりも明るくなっていた。あのときは一人で暗い気持ちを抱えていたけれど、今は信頼する店長がいる。これほど心強い味方はいない。
だが、店長は扉の前で立ち止まったままだ。私は少し訝しんだ後、代わりに開けろということかと誤った解釈をして取っ手に手を伸ばす。
「……弟君だけのためじゃない」
低い呟きに、ひょいっと後ろを振り返る。
「キミが悲しむところを見たくない」
少し顔を横に向けて放たれた一言に、頬がどんどん熱くなっていくのが分かった。
しばし、待つ。落ち着くための時間をください。
どうにかして気持ちを鎮めると、極力平静を装って扉を開けた。
白い壁の向こうに春樹が横たわり、その向こうでだらしなく椅子の背凭れにもたれかかった叔母が軽く手を挙げた。
「よ、久しぶり」
「叔母さん……」
私は咄嗟に呟くことしかできなかった。彼女がいること、予想しなかったわけじゃない。けれど、こんなにも憔悴しきった顔を見ることになるとは思わなかった。それでも笑顔を見せる彼女の精神力は感嘆に値する。
顔を合わせたら昨日の続きで叱られるかと思ったけれど、叔母は昨日のことを蒸し返そうとはしなかった。私のことを慮ってくれたのだろうか。
叔母は店長に眼差しを向け、
「あんたが来たってことは、そうなんだね」
「八萬さんの話によれば」
「ケッ。あいつかい。まいいさ。見る目は確かだろうからね」
やはり、叔母は八萬さんのことを知っているらしい。それどころか思ったよりも親しい感じだ。詳しい話を聞きたいところだけど、今は春樹が先だ。
叔母は店長に手を差し出した。何のことかと見守っていると、彼が鞄から取り出した茶色の小瓶を大事そうに手渡す。
キュッとコルクを捻りサイドテーブルに用意してあったお茶に一滴だけ中身を混ぜ、小瓶は店長に返した。
「霊薬だ。一滴飲めばたちまち体力が元に戻る」
「二滴垂らせば即死人の仲間入りね」
私のために説明した店長の言葉を叔母が継ぎ、思わず叔母の手元を凝視した。
「だーいじょうぶだよっ。春樹を死なせるようなヘマはしないから。ねっ、久坊?」
店長はいつの間にか枕元に移動し、叔母の声も聞こえないといった様子で春樹の額に掌を翳した。
「店長?」
私は不安になって声をかけた。見慣れたはずの背中なのに、彼がそこに居ないような気がしたのだ。少し待ってみたけど、反応はなかった。私は小さく溜息をつく。分かっていたことだけど、ここで私にできることは何もない。
叔母はコーヒーをかき混ぜる要領でスプーンをぐるぐると廻している。
手持ち無沙汰の私は半日ぶりに見る春樹の顔を見つめた。顔色は昨日よりも悪くなっている。もはや息をしているのかも分からないくらい胸の動きは微かなものだ。
本当に大丈夫なのだろうか。店長の落ち着きっぷりを見るに心配はなさそうだが、つい不安になってしまう。
落ち着いているといえば叔母も同じだ。昨日は取り乱す一歩手前くらいだったのに。完全に取り乱していた私が言えることでもないけれど。彼女は《やすらひ堂》の役割について私よりも詳しいみたいだ。いったい店とどんな関係なのだろうと、頭の中であれこれと思いを廻らせている間に、店長は翳した右手を戻して腕を組み、何やら考え始めた。
「冴、春樹起こすの手伝って」
「あ、うん」
春樹の枕元に回り込み、叔母と二人掛かりで春樹の上半身を起こした。意識のない彼の体は思ったよりも重くて、少しほっとする。
「ほら春樹、すぐに元気になるよ」
優しく声を掛けながら湯飲みを口に運ぶその中身を見て、ぎょっとする。何の変哲もない煎茶が黄金色に変わっているではないか。透き通った蜂蜜のようにも見える。
不思議なのは、その液体から強い力を感じることだ。アリシアさんのオーラを目にしたとき、肌がぴりぴりするような刺激を感じた。あれはたぶん危険信号だったのだと思う。けれど、この霊薬から感じるのはそういった危ないものの類ではない。昨日のお風呂みたいな、冷たくなった体を温かいたもので潤してくれるような安堵感。
黄金色の液体が春樹の口へ流れ込んでいく。少しずつ、少しずつ。そのたびに蒼白の頬が赤みを帯びていった。
湯飲みの半分ほどを飲ませると、店長がもういいと言って止めさせた。
「今はこれくらいが限度だろう。あまり急激な変化は体に良くない」
それほど強い薬なのだ。血色の戻った春樹の顔を見たら、湯飲みの中身を全部飲み干せばもっと体調は良くなるはずだと分かる。だけど、それは却って毒だという。二滴垂らせば即死の霊薬。その半分の半分くらいが丁度良いのだろう。ということは、健康な人が服用するとどうなるのだろうか。あまり知りたくはないが、おそらく想像通りだろう。
「あんたの見立てはどうなの、久坊」
店長は僅かに眉をひそめた。しかし、それはどうやら春樹の症状とは関係なさそうだ。
「最も新しい傷には、強い力を浴び続けた痕が見られます。悪意のある鬼神ではなさそうですが」
「でも店長、この子、夏休みに入ってからほとんど外に出てませんよ」
散歩に出かけることも友達と遊びに行くこともしない弟の日常を思い出しながら言う。
「なら、キミの家に巣食っている鬼神がいるんだろうな。どちらにしろ、祓い退治は俺の仕事じゃない。悪いモノでなければ尚更だ」
「あはっ」
と、叔母は可笑しそうに笑った。私には意味が分からないが、笑えるポイントでもあったのだろうか。
首を傾げる姪っ子の頭を、叔母はぽんぽんと叩いた。……私にも関係のあることかな? 勘だけど。
むむむ、と考えこんでいると、にゅっと目の前に霊薬の小瓶が突き出された。
「ふわっ!?」
ど、毒ー!
「キミが持っていろ」
「なんですと!?」
無茶苦茶な命令に目を丸くする。
「き、貴重なものなんじゃないですか!? 私が持っててもいいものでしょうか!」
「あまり良くない」
なんじゃそりゃ!
抗議の視線を投げかける私を無視して、店長はマイペースに続ける。
「一日に一回、さっきのようにお茶に混ぜて弟君に飲ませるんだ」
「で、でもっ。一歩間違えたら春樹死んじゃうんじゃ」
「だからこそだ。キミが誰よりも大切に思っている春樹君で、適切な分量を覚えてもらう。知識として頭に入れるより覚えやすいだろう?」
「かもしれませんけどっ」
更に抗議しようとして、はたと気付く。
これは試験なのだ、と。
私が紳士然としたおじいさんに偶然出会わなかったら、店長はいつ店の本当の姿を教えてくれるつもりだったのだろう。あるいは、私が店をやめるまでずっと黙っているつもりだったのかもしれない。それが急に態度を百八十度変えて、私に色々教えてくれるようになったのは、私が知りたいと願ったからなのだ。
やすらひ堂のお仕事は、私が思っているよりもずっと危険なのかもしれない。蔵に眠る神器もそうだし、一見便利な霊薬の扱いだってそうだ。他にももっと危ないことがあるのかも。
一度やると決めたからとか、逃げるのは嫌だからとか、そういうことよりも。尻込みしてるところを店長に見られたくないって思った。結構不純な動機かもしれない。けれど、私は小瓶を受け取った。少し震えた指先は、武者震いということにする。店長が無表情に、かすかに頷くのが見えた。
「三日も服用すれば、とりあえず体調は恢復するだろう。が、それで終わりということではない。春樹君の体は、目には見えないが傷だらけだ。時間が癒す傷にも限界があってな、今回のように命を危険に晒すほど酷くなった理由の一つには、古傷の重さに春樹君の体が耐えられなくなったことがあるのだと思う」
その目には見えない傷を見るのが、店長の力というか瀬戸川の技らしい。医者の診察のようなものだ。そして、その診断を元に薬を調合する。もちろん普通の薬ではなく、春樹に飲ませた霊薬に近いものらしい。
「じゃあ、春樹は完全には治らないんですか?」
店長は難しそうな顔で首を横に振った。
「治らないこともない。だが、そのためには長い時間が必要だ。一月か、一年か」
「い、いちねんんん!?」
「うわ、びっくりした。冴、いきなり大きな声を出すんじゃないよ」
忘れてました、ここは病院。偶然病室の前を通りかかった看護師さんが何事かと入ってきたら、店長の説明は頓挫してしまう。
私は反省したのだという風に、口を噤んで下を見た。顔は見えないけど、店長たぶん呆れてる。いつものように。
「……ともかく、キミも春樹君もそんなに長い期間、病院の世話にはなりたくないだろう。費用もかかるし、こちらとしても治療がしにくい。そこで、春樹君には早いところ退院してもらう。そのための霊薬だ」
「あの。霊薬で体力が恢復したら、春樹が死んじゃうなんて危険性はなくなるんでしょうか」
「ゼロになるわけではないが、俺の家に移ればとりあえずは安心だ」
その言葉で、私はようやくほっとした。
春樹は助かる。ほんとに助かるんだ。
安心しきって涙腺が緩んでしまわないように、気をしっかりと保って。春樹の命綱である霊薬をぎゅっと握り締めた。
「あ、でも八萬さんはどうするんですか? 彼、自分のせいで春樹が酷い目にあったって言ってましたよ」
強い力は春樹に毒だと、他でもない彼がそう言ったのだ。春樹を傷つけることを恐れている八萬さんの傍に置くのは、ちょっと酷じゃないだろうか。
だが、店長は事も無げに言い放った。
「あの人には、当分どこかに行ってもらおう」
「あー、それいいわ。あたし、毎日お見舞いに行っちゃう。お酒持って」
「……最低限の分別をつけていただければ」
「了解了解っ」
……そう来たか。これはちょっと同情してしまうな、うん。あの人ってやすらひ堂の守護霊か何かじゃなかったっけ? こんなぞんざいな扱いでいいのだろうか。「~か何か」なんて言っちゃうあたり、私も店長や叔母さんと似たような扱いしてるのかもしれないけど。
そうかー。春樹、店長ん家に引っ越しちゃうのかー。いや、引っ越すって決まったわけじゃないけど。でも、寂しいな。家に私一人きりなんて。
……はれ!?
「あのー、店長。今更気になったことがあるんですが」
「なんだ」
私は内心冷や冷やしながら、
「《災い》って、誰にでも起こり得るんですよね」
「ああ。だが、心身に影響を及ぼすほどの鬼神に接する機会など、まずないだろうな」
まずない、は関係ない。私の場合。
「じゃあじゃあ、私はどうなっちゃうんです? 春樹が意識失うくらい強い鬼神が家に巣を作っちゃって……私もぶっ倒れちゃうかもしれないじゃないですかっ。二十一歳で孤独死なんて嫌ですよ!」
「大丈夫だろ」
んな無責任な! ちょっと叔母さん、けらけら笑ってる場合じゃないよっ。うう、私を心配してくれる人はいないわけ!?
「もう一度言うが、大丈夫だ。キミのことは心配するだけ無駄。そんな暇があったら勉強した方がいい」
地味に酷い言い草だ。よくよく考えてみれば少し前の店長の言動に戻っただけなのだが、最近やけに親切だった分、容赦のない言葉が卵の殻のように胸に刺さる。
ふんだ、私って店長にとってその程度の存在だったんだ。さっきちょっとだけ期待した私が馬鹿だった。ふんだふんだ。
「こらこら、久坊。あんまりあたしの姪っ子苛めないでって言ったでしょ。理久クンは可愛い子を見ると苛めたくなる小学生気質なんですって言い触らすわよ? うちの親戚中に」
店長は物凄く嫌そうな顔をした。特に最後の一語に。
なんなら私が代わりに言い触らしましょうか。
と言い掛けた私は、店長の蛇のような睨みに遭って再び縮こまった。まさか私の心を読んだとは思わないけど、まさかのまさかということも有り得る。
それから少しばかり言葉の応酬が続き、力関係がはっきりしたところで店長は帰っていった。残ったのは私と叔母、茶色の小瓶。
なんだかすごく疲れた。気が緩んだ、というのだろうか。ずっと張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れてしまったようだ。
気が抜けて椅子にへたり込む私に、叔母は優しい声をくれる。
「昨日はごめんね、冴」
「ううん、私の方が悪かった。ごめん、叔母さん」
「悪いと思うなら、おばさんじゃなくて秋乃さんって呼んでくれると嬉しいかなーって」
「ごめん、それは無理」
「あらやだ、この子ったら。さては恥ずかしがってるな?」
冗談めかして笑い合った後、二人揃って何となく沈黙した。
春樹のベッドを挟んで向かい合って座っているため、お互いの顔がよく分かる。二人ともすっかり安心していた。叔母の目の下には隈ができていたけれど、表情は明るい。たぶん、私と春樹のために昨夜は眠れなかったのだろう。
落ち着いてみると、昨日あんなに取り乱したのが恥ずかしくなってくる。叔母さんの言い分が正しかったことはハッキリしていて、自分が子供みたいに駄々をこねていただけなのだ。
でも、そんな風に過去を振り返ることができるってのは、なんだかいいなって思った。睡眠不足の叔母には悪いけれど。
「家に帰ったら、母さんと父さんに今日の分のお線香をあげること」
「はい」
「そんでもって、春樹は元気になりますって報告すること」
「はい」
私は頷きながら笑う。喋りながら、叔母がうつらうつらと舟を漕ぎはじめたからだ。余程疲れていたとみえる。
迷惑掛けてごめんなさい、と言ったら彼女は怒るだろうか。他人行儀なこと言うなって叱られるかもしれない。まぁ、全部片付いたらもう一度謝ろう。それと、ご飯作ってあげよう。思いっきり凝ったやつ。
まどろみから本格的に眠りにつきつつある叔母の背後に目をやる。
どんよりとした、灰色の空。一日以上降り続いた雨は止み、代わりにいつもより強い風が窓を叩いていた。




