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《災い》

 時計の針は〇時五分を指していた。昨日はとうとう帰らなかったな、なんて思いながらお湯を掬う。

 お茶が出せないというのは嘘。幽霊だけど物には触れる。じゃないと肩揉みなんて出来っこないしお風呂も沸かせない。


 綾音、という人の服を貸す――八萬さんはそう言ったけど、すぐに考えを変更して私に温かい飲み物を用意してくれた。そしてその間に自分はお風呂を用意しに行ったのだ。身体の冷え切った私のために。

 正直、あの人がここまでしてくれるなんて思わなかったから、私は断る言葉も思いつかずに厚意に甘えた。


「服はちゃんと用意しておくからね」


 にこにこと笑いながら去っていく八萬は昨日と同じく半透明で。だけど、裸に近い上半身を見られた羞恥心は本物だ。うう、落ち込む。僕全然気にしてないよ? って顔がなおさら私の傷を抉る。たぶん顔が語っている通りで、気にしてるのは私だけというオチだろう。それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 いや、もう忘れる! 二度と思い出さない! だからやめろっつの!

 熱いくらいのお湯に口元まで浸かり、さっきの光景から目を逸らすように堅く瞼を閉じた。

 すると地面を打ち付ける雨の音が強く響いてきて、心がしんと静まり返る。見えない悪魔が襲いくるイメージが闇に浮かび、私は間髪いれずぱしゃりと水面を打った。

 ……ここはさ、西洋的な悪魔じゃなくて、鬼とか天狗とかを想像するべきだと思うんだ。日本家屋らしく。

 そういえば子供の頃、家族と行った旅行で「この辺りは化け狸が出るんだぞ」と父に脅されたことがあった。勿論そんなものは出なかったが、その話を聞いた後は弟の手をぎゅっと握って離さなかった。子供心に怖かったのだろう。私にも可愛い時代もあったのだ。

 そんな私に春樹は笑って――あの頃から春樹は見えてたんだなぁと思い返す。

 父も母もそして私も、春樹が《見える》ことに何ら疑問を抱かなかった。普通なら子供の戯言だと笑い飛ばしてもおかしくないのに。私の場合は、春樹がする小鬼の話を両親が温かい眼差しで聞いていたから、自然と受け入れていた気がする。本当のところはどうだったんだろう。二人とも、心の中では信じてなんかいなかったのかな。

 いや、そんなことはないと固く思い直す。あのときの両親の目は、理解のできないことを聞いている目ではなかった。春樹の話を信じていたから、どんなに忙しい日だって否定したり諭したりすることもなかったのだ。

 過去のことを思い出してばかりいる自分に気づき、お湯の中で苦笑する。

 人が昔を思い出すのはどんなときだろう。今に満足できないとき。未来に希望が持てないとき。高校時代の友達に会ったとき。故郷に戻ってきたとき。運動会の空砲を聞いたとき。古傷に触れたとき。ちょっとした単語の切れ端。

 連想ゲームのように頭の中で繰り広げていると、時間の感覚が分からなくなってきた。五分、いや十分は目を瞑っていたかもしれない。ここが他人の家のお風呂だということも忘れていた。

 ――もう出ようか。

 病院の面会時間はとうに終了しているし、家には誰もいないから門限を気にすることもない。唯一頭を掠めたのは喧嘩をした叔母のことだったが、自宅に帰るにしろ明日会うにしろ、やることはもう決めていた。

 春樹のこと。両親のこと。八萬のこと。叔母のこと。色々あっても、一度に考えられるのはひとつだけ。

 明日叔母に会ったら、いちばんに謝ろう。それで許してくれなかったら、もっと謝ろう。それでちゃんと話を聞こう。

 もう二度と、差し伸べられた手を引っ叩くようなことはしまい。




「は、八萬さん、どうかな。ちゃんと着れてる?」


 ふすまの陰からおずおずと現れた私を下から上まで眺めて、八萬さんはにっこりとオーケーサインを出してくれた。


「大丈夫、大丈夫」

「よかった」


 ほっと安堵の息をつく。

 浴衣を着たのは、十歳にも満たない子供の頃に一度だけ。隣町の縁日に母にせがんで着せてもらった。でも翌年にはすっかり忘れてて、それ以来袖を通すことはなかった。今になって勿体無かったかなと思う。たぶん、あのときの浴衣は箪笥の奥に仕舞ったままだと思う。

 綾音さん(店長のお母さんのことらしい)のものだという浴衣は、最近のお祭りでよく見かけるようなカラフルで可愛い柄物ではなく、紺地の綿に水仙を染めた古風なデザインだった。

 髪を上品に結い上げた女性が、縁側でうちわ片手に涼んでいる様子を想像する。……果たして私に似合っているのか、不安になってきた。

 でもまあ、外見なんてさしたる問題ではない。なんてことを考えちゃうのは、叔母の性格が伝染しているようで不吉だが。

 お湯を使わせてもらったことと着替えを貸してもらったことの礼を述べると、八萬さんは懐かしそうに言った。


「思い出すなぁ。綾音ちゃんが二十歳の頃のこと。ここに嫁いできたばっかの頃だよ」

「え。二十歳でですか?」


 私は二十一。結婚なんて考えたこともない。大学の同期には、実は一人いる。私の数少ない友人の一人で、成人すると同時に両親の反対を押し切って式を挙げたつわものだ。式には彼女の両親も呼ばれ、特にお父さんは披露宴の間ずっと涙をボロボロと零していた。結婚には反対だったらしいけれど、娘の晴れ姿はちゃんと見届けたんだ。いくら結婚に反対でも孫が生まれれば変わるっていうけど、彼女のご両親はまさにそうなるだろうなって思う。


 顔が曇ってしまわないように、私は努めて明るい振りをする。


「きっと、すごい美人さんなんでしょうね。だって店長のお母さんだもん」

「うん、まあまあ似てるよ。死んじゃったときの綾音ちゃんに」


 私は笑顔のまま固まった。こういうとき、何て言えばいいんだろう。分からない。死は、今の私には重すぎて。


「無理しなくていいよ。さっき、春樹くんが大変だって言ってたじゃない」


 心なしか以前より柔らかい口調の八萬さんの言葉に、頬から力がなくなっていくのを感じた。優しい。絶対泣かない。


「さ、座って。話を聞かせて? もしかしたら、力になってあげられるかもしれないよ」


 それは無理かも。

 嬉しいのと、切ないのと。希望が絶望に変わる瞬間を恐れて、八萬さんの言葉を素直に受け入れられないことが申し訳ない。

 だけど、喋ることで恐怖が薄れるかもしれない。八萬さんはたぶんそういう理由で促したのだと思う。だからというわけではないけど、気付いたら昨夜から今までのことを全て彼に話していた。

 全部聞き終えた後、八萬さんは難しい顔をすることなく、言った。


「……ごめんね」


 なんで?

 疑問は顔に出ていた。八萬さんの反応を見るまでもなく分かる。

 何秒ほどそうしていただろうか。湿った髪から雫が零れ落ちるようなくすぐったさを首に感じて、身動ぎする。手拭いは膝の上。私はそれを握り締める。自然と声にも力が入った。


「なんで、八萬さんが謝るんですか?」

「うん。なんて説明したらいいのか」

「詳細かつ簡潔にお願いします」


 どこかで聞いたことのある台詞。苦笑する八萬さん。じっと見つめる私。

 またしても十数秒の沈黙。

 やがて、彼はらしくもなく大仰に首を振った。


「ああもう。なんで理久くん説明しといてくれなかったかなぁ」

「むっ。店長は悪くないです。私がバカだから、一つずつ教えてくれようと」

「はいはい、そうですね。あれ、ということは悪いのは冴ちゃん? てか冴ちゃんの頭?」

「あのですね!」

「分かってます。冗談です」


 冗談には聞こえなかったのだが、まあいい。誰が悪いかなんて、興味ないのだ。私の頭が悪いことは、ぐぬぬ……まぁ否定はしない。

 八萬さんは昨日と同じ座布団に正座をして、腕を組んだ。どうやら考えるときのポーズらしい。分かりやすくていいと思う。


「そうだねぇ。冴ちゃん、鬼神が何なのかは知ってるよね」

「もちろん。妖怪や霊みたいなのを全部ひっくるめて《鬼神》と呼ぶ、と店長は言ってましたよ」

「冴ちゃんは彼らに何を感じた?」

「え」

「難しく考えなくてもいいんだよ。キミは直感の人みたいだからね」


 それは悪口か? まあいいとして。

 《鬼神》のことは《小鬼》という呼び名で知っていた私だが、実際に意識したのは神器を手にした大正紳士が初めてだ。あの人が人間じゃないなんて、最初は思いもしなかった。おじいさんは「荷物を取りにきた」と言った。私はそれを信じたし、事実その通りだった。人間であることを疑う要素なんて一つもなかったはずだ。

 おじいさんが取りに来たのは一振りの杖。霊力を込めて木の実を成すという、私には使い道がよく分からない機能付き。

 その話を聞いた時点でおかしいなとは思った。普通は思う。信じない人の方が多いだろう。何言ってるんだこの人、と。私自身、おじいさんの話を最初から信じたのか信じなかったのか、今でもよく思い出せない。

 ただ、褒めてくれたから。店長に感謝していると言ったから、嬉しかった。そしたら、あの夕焼け空を見ていた。

 私にとって、《鬼神》は唐突。でも、ずっと前から見えなくても身近にいた存在。


「どう? 冴ちゃん。たとえば僕を前にして、キミは何を思う?」


 鬼神に霊が含まれるなら、八萬さんは紛れもなく鬼神だ。店長のご先祖様で、やすらひ堂を創った人。改めて言われると不思議な感じだけど、考えてみるとそうでもない。そんな風に受け入れている自分の方が不思議だ。


「んー……。八萬さんが鬼神で……」

「で?」


 八萬さんはじっと私を見つめてくる。

 いつもおちゃらけた態度を取っているだけに、真面目な顔は似合わない。からかいたくなる。


「私、ブラコンなんです」


 八萬さんはぽかんと口をあけた。いかにも「はぁ?」って言いたそうだ。文脈が繋がっていないものね。当然だろう。

 彼の反応があまりに予想通りで、思わず噴き出す。


「私にとって、鬼神は救世主なんです。だって、いつも春樹を笑顔にしてくれたから。春樹が鬼神のことを語るときはふぅんって聞くだけだったのに、私にも見えて、なおかつ喋ってたんだって知ったときは軽く感動しちゃいました」


 春樹の見ていた世界に触れる。これを感動と言わずして何と言おう。なんでもっと早く教えてくれなかったのかと思う。


「八萬さんはどうでした?」

「え、僕? 僕は――」


 遠い昔に思いを馳せるような、懐かしい目をする。事実、彼が生きていたのは、その命を散らしたのは、遠い遠い昔のことなのだ。

 でも、返ってきたのは良い思い出とは正反対を思わせる答えだった。


「キライだったよ。鬼神は悪いものだって教えられてたからね」

「そうなんですか?」

「捉え方にもよるけど、そうなんだよね。この僕も含めて、ね」


 そう言って、八萬さんは悲しそうな目をした。


「キミは、僕が人畜無害の守護霊だって思ってるでしょ? 見るからにひ弱だし、大人しいし、掃除好きだし」

「何を言うか。私は忘れませんよ、あの肩の痛」

「でもねぇ、こう見えて僕、結構強いんだよねぇ。前に来たアリシアちゃん、あんなの僕から見たら小物だよ。嘴の黄色いひよっこだねー」


 うわ、正直すぎて笑顔が黒い。

 でも、言っていることは本当なのだろう。アリシアさんの攻撃を意図も簡単に防いじゃったし。力の上下とか分からないけど、彼が只者じゃないことは確かだ。


「それだけにね、耐性のない人間にとっては、僕という存在自体が害悪なんだよ」

「春樹がああなったのは、八萬さんのせいだって言うんですか?」


 言葉に裏はない。ピンと来たことを言っただけなのだが、半透明の鬼神は驚いたように目を瞠った。


「あの、違ってたらごめんなさい」

「いや、違わないよ。名前の通りだ。冴えてるね。今日は」

「一言余計かと」

「褒めてるんだってば。ふふ、さすが秋ちゃんが連れてきた子だねぇ」


 今度は私が驚く番だった。春樹だけじゃなく、叔母のことも知っているなんて。


「秋ちゃんは滅多にここに来ないからねぇ。冴ちゃんが知らなくても無理はないかな。その辺は本人から事情を聞くといいよ。僕は所詮他人だしね」


 もちろんそのつもりだ。私は大きく頷いた。

 考えてみたら当然かもしれない。私にやすらひ堂を紹介してくれたのは秋乃叔母さんなのだ。それほど親しいからには、店の本当の姿を知っていてもおかしくない。

 だが、それだと疑問が一つ生じる。なぜ叔母はそのことを黙っていたのだろう。あまりに非現実的だから言い出せなかったのかもしれないけど、叔母の性格を考えると、包み隠さず全て私に話す方が自然ではないだろうか。

 知られたくなかったのか。でもそれならば最初から、やすらひ堂で店番を探してるなんて教えなければいい。

 家族のような存在だと思っていた、単純で大雑把な叔母のことが分からなくなってくる。


「話を戻すよ。僕を含めて鬼神というのはね、人に害をもたらす存在なんだ。だから本当は、あまり近付きすぎてはいけない」

「でも、私は八萬さんやアリシアさんを悪いものだと思ったことはありませんよ」


 攻撃されたときは怖かったけれど。


「それは意思のある存在としての僕たちだから。それとは別に、意思だけではどうにもならない《鬼神》としての問題がある」


 意思を持つ八萬さんの、意思が及ばないこと。それは、ただそこにいるだけで人間に《災い》をもたらしてしまうことだという。

 個人差が大きくあまり具体的な話ではなかったので、春樹の場合を考えてみる。

 春樹は普段から体が弱く、病気がちだった。私たち家族はそれを先天的な体質だと思い込んでいたが、八萬さんによるとそれだけではない。

 子供の頃から鬼神を追いかけていた春樹は、少しずつ生命力を削られていたのだ。大好きな鬼神に接するたび、春樹は自分を苦しめていたと考えると、少し複雑な気分だ。それでも春樹にとって彼らが救いだった事実は変わらないのだから。

 鬼神のもたらす《災い》は、時間の経過と共に薄れていく。だから、春樹の体調も時が経てば良くなっていった。病気ではないのだから、医者の処方する薬が効かないはずだ。まったくの無意味ではなかっただろうが、衰弱した春樹に必要だったのは削られた生命力を取り戻す休息だった。

 だが、度が過ぎた《災い》には時間も万能ではない。今の春樹のように、意識を失い命の危険に晒されるもありうる。

 しかも春樹の場合、《災い》に対する抵抗力が極端に低いのだという。さほど力のない鬼神にも、簡単に影響を受けてしまう。

 春樹らしいと思った。あの子なら、どんなに悪どい鬼神にだって心を許してしまう。


「八萬さんは、春樹が《災い》を受け入れやすい体質だって知ってたんですか?」


 どこかに否定してほしい気持ちがあった。なのに八萬さんが頷くと、妙な安心感がある。これは一体どうしたことだろう。


「春樹くんが小学生の頃だったよ。まだちっちゃくて、栄養が足りてないんじゃないかって思うくらい細かった。僕もそうだったから、気になったんだね。毎日、学校の帰り道に店の前を通るんだ。僕は軒先に立って春樹くんを見送ってた」


 誰も入らない、目にも留めないやすらひ堂の前に一人ぽつんと立つ八萬さん。その奥にいるのは店長のお父さんだろうか。


「そうだったんですね……ん?」


 ちょっと待ってよ、と心の中でストップをかける。やすらひ堂と私たちの家は、学校を挟んで反対方向だ。帰り道というのはおかしくないか。


「僕もね、気付いたんだよ。春樹くん、帰りは店の前を通るけど、朝はいくら探してもいないんだ。だから、どこかに寄り道してるのかなって思って、ある日後をつけてみることにした」

「どうしてそこまで?」

「深く考えたわけじゃないよ。気になったし、暇だったから。守護霊っていっても僕の力が必要になるようなことって滅多にないしね」


 その力を必要とする状況を作り出してしまった私としては耳が痛い。

 ともあれ、八萬さんは春樹を尾行することにした。

 春樹に姿を見られてたなんてことは、当時の幽霊には思いもしなかったに違いない。事実、春樹の異能を知ったときは心底驚いたらしい。


「信号待ちのときにね、ぱっと振り向いたわけだよ。僕は気付かれてない、気付くはずがないと思っていたから、友達の声にでも反応したのかと思った。ところが、春樹くんは真っ直ぐ僕の顔を捉えて言う。『おじさん、そんなに近くにいられると歩きにくいよ』ってね。もう驚いたのなんのって」


 私は声を出して笑った。想像すると可笑しかった。話の中では、八萬さんは今よりずっと若く聞こえる。


「しかもね、こんな姿にも拘わらず春樹くんは僕のことを生きた人間だと思ってるようだった。たぶん、彼が見てきた鬼神はいずれも人の形をしてなかったんじゃないかな」

「確かに。あの子は人形をした鬼神の話なんて一度もしたことないですね。私が知らないだけかもしれないけど」


 それで、春樹の寄り道とは何だったのだろう。


「僕はとりあえず経緯を話して、春樹くんと友達になった。それからはほぼ毎日学校帰りにお喋りしたよ。あの子、いつも一人だったしね」


 何日かして、八萬さんは秘密の場所に案内された。そこは公園の一画が森になったところで、あまり人が入り込まない場所だった。


「大きな杉の木に、手作りの鳥の巣が括りつけられていた。痛み具合から見て、どうやらずっと前からあったものらしい。そこにね、一匹の鬼神が怪我をして動けなくなっていたのさ。春樹くんはその鬼神の様子を毎日見に来ていたんだね」


 八萬さんには一目で分かった。その鬼神の怪我は、別の鬼神に傷つけられたものだと。

 動物の世界でよくあることが鬼神の世界でも起こるらしい。力の弱いものが、より強いものに食べられてしまうことが。そうやって力を蓄えて、どんどん強くなっていく。

 春樹がみつけた鬼神は、獲物にされかけたけれど奇跡的に助かった。

 人の言葉を喋らない、弱い生き物。春樹にしてみたら、罠にかかった狐か野兎を助けるような感覚だったかもしれない。


「僕が春樹くんのもう一つの体質に気付いたのは、その後だ。十日くらい経った頃かな。彼の体調が目に見えて悪くなってきた。鬼神の気に当てられ続けたせいだと直感したよ。怪我をした弱々しい鬼神一匹ならともかく、彼にはいつも僕がついてた。鬼神の力が強ければ強いほど、影響力も大きくなるわけだからね。懸念していたことではあったけれど、その日がこんなにも早く訪れるなんて思いも寄らなかった」

「だから……八萬さんは、姿を消した」


 以来、一度も春樹の前に姿を現したことはない。それが春樹の《小鬼》に対する執着に繋がっているんじゃないかと、そのとき私は直感した。


「でも、だったらどうして八萬さんが悔いる必要があるんですか? 今回春樹が倒れたことと八萬さんの過去、関係ないじゃないですか」

「直接的にはね。でも、彼が《災い》に対して極端に抵抗値が低いこと、僕は知ってたんだ。たぶんキミの周りの人たちを含めて僕だけだったと思うよ、気付いていたのは。やっぱり、責任感じちゃうよ」

「けど」


 八萬さんは笑顔で私の抵抗を遮った。


「ありがと、冴ちゃん。キミは優しいね」

「事実を主張しているだけです、優しくなんかありません」


 直接的な関連が必要ないのであれば、私だって責任を負わなければならないはずだ。春樹と一つ屋根の下で暮らしていたのだから。


「私、どうしたらいいんでしょう。春樹はもう助からないの? 信じられないんです。今こうしている間にも、あの子の命の灯火が消えかかっていることが」


 春樹だけじゃない、苦しい状況でもがいている子供は世界中にいる。それなのに春樹だけを特別扱いしている自分が、なんだか汚いもののように思える。


「あるよ」


 八萬さんの優しい声が、萎んで消えてしまいそうだった私の耳朶を打つ。その一言が養分のように身体の隅々まで染み入ると、唐突に理解が花開いて顔をあげた。

 八萬さんはにこにこと笑っている。まるで希望はここにあるんだと言わんばかりに。


「春樹くんを助ける方法。だから諦めないで、冴ちゃん。まだ間に合う。瀬戸川の力の継承を舐めちゃダメだよ?」


 ――嘘じゃない。これは現実(ほんとう)だ。

 そう言われている気がして、泣くまいと必死に堪えていた目尻から涙が一筋伝い落ちた。


「そういうわけだから。頼むよ、理久くん」

「え?」


 振り返ると、長身を雨に濡らした店長が僅かに肩を上下させていた。目にはいつもの気迫というか鋭さがない。その代わりに、驚愕と焦燥の入り混じった光が微かに見て取れる。私がいることに驚いたようだ。でも、その点では私の方が遥かにびっくりしたと思う。


「て、店長、どうして? 四国に行ってたんじゃ」


 旅立ったのは一昨日の夜で、実質丸一日しか経っていない。


「秋乃さんから連絡を受けて、即行で用事を終わらせて戻ってきた」


 事も無げに言うけれど、実際はそんなに簡単でないことは、四国までの距離と時間を考えれば分かる。本当は今日帰る予定なんてなかったはずだ、どんなに早く仕事が終わったとしても。それでも店長は帰ってきてくれたのだ――春樹のために。

 嬉しいような申し訳ないような、そんな気持ち。でもやっぱり嬉しくて、自然と笑みが零れる。

 滲んだ視界の真ん中で、店長が一瞬だけ微笑んだ気がした。

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