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引き続き雨はふる

 白い壁に掛けられた時計の秒針を、私はぼんやりと見るともなく見つめていた。

 もう、何周、いや何十周しただろう。

 担当医との話が長引いているのか、いくら待っても叔母はやってこない。最初の十五分くらいは私もそこにいた。けれど、何度聞かされてもわけの分からない説明に次第に頭がぼうっとなっていき、ついには叔母に言われて私だけ先に春樹の病室へ入ったのだ。

 何度か看護師が様子を見に来たけれど、私はろくに返事もできなかった。相手も、無理に話をさせようとはしなかった。その優しさが、気遣いが、もうどうしようもないのだという現実を私に突きつける。

 チューブに繋がれた春樹の腕は白くて細い。これが育ち盛りの少年の腕なのかと疑いたくなるほど華奢で、この手を引っ張って歩いた子供の頃を思い出す。すると寝台に横になって目を瞑っている春樹があの頃とまるで変わらない姿に見えてきて、それが視界を滲ませる涙のせいだと気付いたとき、クッと喉の奥で声が詰まった。

 ――泣きたい。でも、どうやって泣けばいいのか分からない。

 思いっきり声を上げて泣き叫べばいいのか? 逆に押し殺せばいいのか。春樹を包むシーツに顔を押し付けて?

 そうすれば、この悲しみは癒されるのか?

 もしそうなら、体中の水分が無くなるまで泣こう。でも、現実はそうじゃない。泣いたって何も変わらない。春樹は目を覚まさない。



「衰弱しきっている、としか言いようがない」


 気まずそうな医者の一言に、私は最初首を傾げた。

 春樹は雨の中倒れていたのだ。衰弱しているのは当たり前じゃん?

 でも、医者の言葉はそんなに単純に割り切れるものではなかった。

 医師は「今のところ」と前置きをして話を始めたが、要するに倒れた原因が見つからないのだ。その話を聞いたとき、私は正直またかと思った。

 小さい頃から体が弱かった春樹は、幾度となく医者に掛かった。けれど、いずれも根本的な治療には至らなかった。痛み止めの薬を飲んで頭痛が治まったかと思えば、数日後には腹痛で病院に運ばれたこともあった。

 原因は特定せず、色々な可能性を並べ立てて、とりあえずこの薬を飲んでと言われるのが常だった。毎回同じ台詞を聞かされる春樹の気持ちはどんなだったろう。弟の胸中を正しく理解してあげることは、私には――いや、他の誰にもできなかっただろう。でも、今よりはマシだったに違いない。今の春樹は、周囲のどんな言葉さえ耳に入らないのだから。

 春樹の苦痛を癒したのはいつも薬ではなく時間だった。彼はじっと痛みを堪えて、台風のように過ぎ去るのを待つしかなかったのだ。

 今回も、時間が経てば良くなるのかな。


「だといいな。ねぇ、春樹?」


 私は精一杯笑みを作って、春樹に呼びかけた。答えがないのは分かりきっていたことだ。けれど、実際に返事がないと胸が軋む。ぎゅうっと締め付けられるみたいに苦しくて、息が詰まりそうになる。

 それでも、なぜだろう、泣くことは許されないように思えてならなかった。

 救急車を呼ぶときや店長の不在を知ったときは、思いっきり涙を流したのに。今だって泣きたくないわけではないのに。

 そういえば、春樹は昔からあまり泣かない子だった。辛いことや苦しいことは人並み以上にあったはずなのに、声を上げて泣くのはいつも極限まで追い詰められたときだった。そんな春樹が可愛くて、放っておけなくて、時にはいつも後ろを付いてくるのが面倒に感じることもあったけれど、何かと比べてどちらを優先するかといったら迷わず春樹と答えることができた。

 そうだ。本当は、本当に泣きたいのは春樹なのだ。私ではない。だから泣いてなんていられない。

 春樹の幼い寝顔は、とても穏やかだった。弱りきった身体を本人だけが知らないみたいに。こうして呼吸器をつけられたまま目覚めないのが嘘みたいに。

 叔母と担当医の話はまだ続いているようだ。話が終わり次第、すぐ病室に行くと言っていたから。納得のいかないことはとことん問い詰める叔母のことだから、きっと今頃は先生に食って掛かっているのだろう。

 私は、そんなことよりも早く春樹を治す方法を探してほしい。原因が分からないからって、助からないとは限らないはずだ。今まで時が春樹を癒してくれたのなら、もっとたくさんの時間をかけたら再び目を開けてくれるかもしれない。その可能性だけが唯一の希望だ。

 急に、窓を打ちつけていた風雨の勢いが弱まった。そのことで逆に台風の存在を思い出すくらい唐突だった。

 と同時に、がらっと白い扉が振動して、暗い顔をした叔母が現れる。


「叔母さん……」


 驚くあまり、私は自分が立ち上がったことにも気が付かなかった。

 話、どうだった? と聞こうとして、声を発する前に口を噤んだ。叔母の表情の影にあるものを読み取ったからだ。

 無意識に手に力が入る。眼球が乾いているのに、瞬きすることも忘れている。

 叔母の唇が開くのを、私の目はスローモーションのように映し出した。実際は、何と言うべきか迷った一瞬の動きだったのかもしれない。

 お願いだ。どうか、何も言わないでほしい。口にしたら本当になってしまう。


「冴。いい? ちゃんと聞くのよ」

「いやだ!」


 私は叫ぶと、逃げ出そうとした。しかし予測していた叔母の手に腕を絡めとられ、体が傾く。転びそうになった私の反対の腕も叔母に掴まれ、私は無理矢理押し戻された。すぐ目の前に叔母の顔があった。


「聞きなさいっ。大事なことなのよ!」

「いやだっ。いやだ!」

「春樹はね、このままじゃ危険なのっ。何か手を打たないと死んじゃうのよ!」


 叔母は叔母で怒っていたのだろう。何もできない自分に。どうにもならないこの状況に。

 それは私も同じ。でも、私は反抗せずにはいられなかった。認めたくない、その一心で叔母を睨む。


「何かってなに!? 私たちに何ができるの!? 何もできないからそんなこと言うんでしょ!? 助かる方法があるなら、そんな顔しないでしょ!」


 叔母の顔が一瞬で蒼褪め、手を振りかざした。

 ――叩かれる。

 けれど、呼吸は遅れた。

 片手が自由になったのを良いことに残り片方の手も振り解くと、私はもう振り返らずに病室を飛び出した。

 背後で叔母がどんな顔をしていたのか、知らない。たぶん私と同じような顔だっただろう。

 ――何か手を打たないと死んじゃうのよ!

 叔母の言葉が何度も何度も耳に木霊し、逃げ出した私を苛むように離れない。

 叩かれるべきだったのかもしれない。でも私は叩かれなかった。本当は、どっちでも同じ。春樹が助かる道を開けないのなら、どっちでも同じ。どこにいたって同じ。春樹が助からないのなら。




 振り上げた手を力なく落とし、秋乃はそのままその場に崩れ落ちた。

 冴が座っていた椅子は立ち上がった拍子に倒れ、リノリウムの床に転がっている。その脚に手で触れ、自分がまだ冷たさを感じることに驚いた。医師の話を聞いてからずっと、全身が麻痺したみたいに感覚を忘れていたのだ。冴の取り乱し方を見て、人間らしさが戻ったのかもしれない。

 だが、すぐに思い直す。掌に感じたのはステンレスの冷たさなどではなく、自身の冷えかもしれないと。

 現実は春樹や冴だけではなく、秋乃のことも傷つけていた。

 彼女にとって有馬姉弟は大切な家族だ。兄夫婦が亡くなったとき、この子達を守るのは自分しかいないと思ったし、またそれは事実だった。駆け落ち同然で家を飛び出した兄夫婦に、他の親戚連中の態度は冷ややかだったからだ。実の祖父母ですら、冴や春樹に対しても無関心を貫いた。

 勘当されたとは言え、兄の両親は秋乃にとっても親だから、ある程度の考えは読める。彼らは決して孫たちを厭ってなどいなかった。けれど、身内への愛情よりも体面を保つ道を選んだのだ。その時点で、両親が有馬姉弟に干渉するなど言語道断だった。そして、葬儀の際、死んだ者の陰口をたたく親戚らを見て、秋乃は正しい決断をしたと確信した。

 あれからまもなく三年が経つ。自分のフォローが完璧だったとは言い難い。春樹が倒れたとき傍にいてやれなかったことすら、秋乃にとっては失態だ。勿論それだけで自分を責めようとまで思い上がっていないが、感情としては自分を許すことができない。

 春樹が病気がちなのは分かっていたこと。なのに二人を引き取らなかったのは、親と過ごした家から二人を引き離したくなかったから。たったそれだけ。だから提案すらしなかった。だが、結局それは秋乃の身勝手だったのではないかと、今更ながらに後悔する。

 結果、冴は春樹をも失うかもしれない破目に陥ってしまった。冴を叩けるはずがない。


「でも、それじゃあどうすれば良かったのよ!」


 一緒になって取り乱せとでも言うのか。しかしそれは秋乃の理性が許さない。自分を見失ってしまったら、あるかもしれない道を見つけられなくなってしまう。感情のまま動くことは、秋乃が最も嫌う行為の一つだ。

 だから冴には冷静でいて欲しかったのに――。

 皮肉なことに、今まさに取り乱そうとしている自分がいる。そのことに気付いて、唇を噛み締める。

 求めるのは簡単だけど、掴み取るのは難しい。

 雨は一度勢いを落としたものの、小止みなく降り続いていた。



 ***



「ふんふんふーん。ふんふふーん」


 ぱたぱたと古めかしいハタキを振り回しながら、八萬が雨戸を立てた縁側を歩いて奥の間に入ってきた。暇だったので、蔵の掃除をしてきたところである。ついでに、昔制作した懐かしい神器のあれやこれを堪能してきた。

 どちらも屋敷に理久がいる間はできない所業だ。彼は八萬が神器の宝庫である蔵に立ち入ることを快く思っていない。理由は単純。創造主の八萬は、どんな神器でも百パーセントの力を引き出すことができる――つまり、無用の騒ぎを引き起こす可能性が高いのだ。害のない馬鹿騒ぎならともかくとして、万が一神器を損傷させたら怒られるどころじゃ済まない。ましてや自分勝手な八萬の性格を考えれば、彼が瀬戸川家、とりわけ理久に降りかかる災難など慮るはずがないことは容易に想像できる。

 ただ、完全に無視するわけにもいかない。もし事がばれたら罰として線香一週間抜きとかされちゃうかもしれないのだ。それくらいの覚悟は必要ということ。

 神器の修復は神経を使うので、ちょっとでも欠けると大いに苦労するらしい。神経質の理久くんにはぴったりの仕事だと八萬は思うのだが、本人はあまり好きじゃないらしい。


「ま、仕方ないよね? 本来のお仕事はもっと大変なんだから」


 昨日だって、電話一本で四国くんだりまで飛ばされて。しかも感謝されるとも限らないのに。あんな星の下に生まれるなんて、彼も運がないよねぇ。

 ――なんてことを笑いながら呟いて、店の引き戸をがららっと開ける。今日のお仕事終わり。さて散歩にでも出ようかと上機嫌に鼻歌を再開しようとしたときだった。


「うわあお?」


 店のカウンターに、いるはずのない冴がぐったりと突っ伏していた。しかもびしょ濡れで。

 外は台風で、戸がガタガタと鳴っている。自分は霊体だから嵐だろうが竜巻だろうが平気だが、人間である彼女はここに来るのも大変だっただろう。いったい何のために、身体をずぶ濡れにしてまでやって来たのか。営業日だと勘違いしたのか。とてもそのようには見えないが。


「あのー、冴ちゃん? 何してるの、そこで? 今日、このお店は僕のものなんだけど」


 理久に留守を頼まれただけであって、八萬のものになったわけではない。しかも、つい今しがた留守番など放り出して散歩に行こうとしていたところのだが、そんなことは億尾にも出さないで彼は言った。

 が、冴はぴくりとも反応しない。

 八萬はちっちっと舌を鳴らしながら指を振り、


「いけませんなぁ、冴ちゃん。不法な居座りは強制退去だよ? それに今日はお休みです。お仕事熱心なのはいいけれど。ねぇ、なんとか言ってよ。あ、もしかして違うのまさか? お仕事じゃないの? じゃあ遊びに来たの? でも僕幽霊だからお茶も出せないし。肩揉みならできるけど。あ、それとも自分で淹れる? いいお茶があるよ。百年ほど前に手に入れた秘蔵っ子でもいいなら――聞いてる、冴ちゃん?」

「…………」


 暗い。反応なし。

 幽霊なのにどんよりした雰囲気が大の苦手な八萬は、これは困ったと腕を組んだ。

 いつもなら放っておいて、もとい、そっとしてあげておいて自分の楽しみを優先させるところだが、今日に限ってその判断は危険な気がする。


(なんて言ったっけ……そうそう、えすおーえす)


 遭難した人が助けを求める合図。詳しくは知らないけど、そんな感じ。今の冴は全身でSOSを発しているように見える。それでいてうんともすんとも言わないので、扱いにくいことこの上ない。


「何があったんだろうねぇ?」


 不運なことに、八萬は冴のことは殆ど知らない。彼女の弟のことならともかく、冴自身に関することは理久の方がずっと詳しい。詳しいというより、理解している。なんたって雇い主だし。それ以前に彼女のことを気に入っているみたいだし。

 だが、その理久は今は四国だ。彼が店を発ったのは本格的に嵐が来る前だったから、たぶん問題の家にはとうに着いているだろうが、帰るのはいつになることやら。一日二日で済めばいいが、最悪一週間かかる場合もある。それに、この台風だ。幸運が味方して一日で仕事を終えたとしても、店に戻ってくるのは明後日か明々後日になるだろう。もっと頑張れば分からないけれど。


「どうしよっか。僕じゃ分からないし。春樹くんに聞いてみよっか。ううん、でもなぁ。もう迷惑は掛けたくないし」


 八萬の呟きに、冴はびくりと顔を上げた。唐突な動きに、八萬も釣られてびくりと震える。


「あっ。冴ちゃん、風邪引くよ?」

「八萬さん。春樹のこと、知ってるんですか?」


 振り返った顔は気の毒なほど青い。雨に打たれたせいだけではないなと直感した八萬は、顔を顰めた。


「それより、着替えよっか。綾音ちゃんの古いのがあるから、それ着て。風邪引いちゃうよ」

「私のことなんて、どうでもいいんです。春樹が、春樹が大変なんです」


 雫を飛ばしながら詰め寄る冴に、八萬は苦笑い。


「うーん。幽霊とは言えこれは目の毒純な僕。あのね、冴ちゃん。非常に言いにくいんだけど」


 ちょい、と人差し指で冴の胸元を指差した。


「下着、透けてるよ?」


 冴はぽけっとした顔で自分の体を見下ろし――青かった顔に朱をさして、可愛らしい悲鳴をあげた。

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