心の拠りどころ
「急用かい?」
店の鍵を仕舞った瀬戸川に、横手から声をかける者がいた。
やすらひ堂の守護霊、八萬が通りを向いて突っ立っている。庇で雨宿りでもしていたのか。霊体である彼には雨除けなど不必要の最たるものの一つだが、あながち外れているとも思えないのは八萬が規格外の霊だからだろう。だから、おかしいと思っても瀬戸川は何も言わない。
八萬は存在するだけで力を発するので、雨に打たれていようと風に流されていようと、店を守るだけならばどこで何をしていても支障はない。さすがに何ヶ月も姿を見せないと怒りたくもなるが。
時刻は深夜二時を回ったところ。辺りに街灯はなく店先も真っ暗だが、八萬の姿はぼんやりと青白く浮かんで見える。それでいて光源とはなりえない。光っているのは彼の体だけで、他のものは相変わらず闇の中。雨粒も彼をすり抜けて地面を叩いている。
こんな真夜中に、瀬戸川はどこへ行こうというのか。
八萬の足元を見ながら、呟くように答える。この雨の中では声も満足に通らない。だが、八萬には聞こえると確信していた。
「ええ。四国へ行ってきます」
「四国か。大変だねぇ」
「仕方ありません」
「ま、こればっかりはねぇ。いつまでも喧嘩してちゃダメだよ?」
まるで同情するような口調だが、顔が笑っていたのでは揶揄にしか聞こえない。
「俺は何とも思っていませんよ」
一体、こうなったのは誰のせいだと思っているのだろう。明らかに彼のせいなのだ。とはいえ、八萬に責任の所在を求めても詮無いことだと承知している。瀬戸川も特に不満はない。が、それでも呆れずにはいられないのだ、この男を目の前にすると。
無言で傘を開く瀬戸川に、八萬は重ねて問うた。
「今度は何日くらい?」
「分かりません。対象の症状がいまいち伝わってこないので」
「冴ちゃんはどうするの?」
「今日はもう遅いので、明日メールで連絡しておきます」
「僕が飛脚してあげようか?」
「やめた方がいい」
「信用ないなぁ」
「そういう意味では」
ない、と言い止して、瀬戸川は祖先の顔を見た。
いつものニコニコ笑顔。変わったところは見受けられない。
何か言いたそうなのは気のせいだったのだろうか。
「……では、いってきます」
「うん。いってらっしゃい」
ひらひらと手を振る八萬に見送られ、瀬戸川は旅立った。
丁度その時刻、冴が携帯電話を握り締めて助けを求めているとも知らぬまま。
***
店長に電話しよう。いやでも真夜中もいい時刻だし迷惑だろうから、とそのたびに携帯電話を床に落とした。そして数分後には拾い上げて、同じことの繰り返し。
そうこうしている内に眠くなるだろうと思っていたが、一向に瞼は落ちない。シャワーも浴びていない冷えた体では無理もない。色々あって疲れてはいたけど、それ以上に不安が大きくて動けなかった。
こうしている間にも、春樹は苦しんでいるのかもしれない。なのに、姉である私は何もできない。
命に別状はない、と言われたのがせめてもの救いだ。
春樹は市内の病院へ運ばれて、今は病室のベッドで点滴を受けながら眠っている。私はずっと春樹に付いていたかったが、なぜか怒った叔母によって無理矢理家に帰された。その叔母は、リビングのソファで高鼾をかいている。
(あの子、どうして庭にいたんだろう)
自分が体が弱いと分かっていたはずだ。なのに、あんな夜中に傘も差さずに外に出るなんて。春樹の寝巻きは背中もお腹もびっしょりだった。雨が降った後で外に出たのは間違いないだろう。それに、あのサンダルの散らかり様。ふらつく体で庭に出たとしか思えない。自殺行為ではないか。
考えられるのは小鬼のことだ。
何日か前、春樹は庭の小鬼をじっと見ていた。とても熱心に。弟のそんな姿を見るのは久しぶりだったから、そういった意味もあって執着が強いのだろうと思った。そのときは。
だけど、強いなんてものじゃない。こんな言葉は使いたくないけど、異常だ。何が春樹をそこまで焦らせるのか。
(焦ってる? 春樹が?)
胸がざわざわと不快に色めく。
焦り、不安、怯え、死。
こんな状態では、嫌な想像ばかりが思い浮かぶ。
(やめよう、考えるのは)
考えたって仕方のないことだ。明日になれば、春樹の不調の原因も分かる。そしたら、きっとお医者さんがなんとかしてくれる。
店長にも会える。この不安を吹き飛ばしてくれるに違いない。
家には叔母だっている。普段はちょっと頼りないけど、こういう時は心強い。
そうだ。きっと何もかも上手くいく。
明日になれば――新しい朝になれば。
翌朝、強い風が窓を叩く音で私は目覚めた。咄嗟に思ったのは、どうやら本格的に台風がやってきたらしい、ということだ。外を見ると、隣家のオリーブが可哀想なくらい風に遊ばれている。強風の前に対策も意味を為していないように見える。
台風の朝は心細くなる。一人なら尚更。
春樹はもう目を覚ましているだろうか。食事、ちゃんと摂れているだろうか。昨日の今日だというのに、普段の生活ができているかどうかの心配をしてしまう。幸い今日はバイトは休みだから、思う存分世話が焼ける。
本当は、胃に穴が空きそうなくらい心配だ。今すぐにでも飛んでいきたい。
でも、昨日叔母に怒られたときの言葉が頭の中をぐるぐる回って、逸る心を抑えていた。
――あんたが取り乱したって、事態はなんにも好転しないの。大人しく普段通りの生活をして、英気を養っておきなさい。春樹が目ぇ覚ましたら、きっと忙しくなるわよ。
叔母の言うとおりだろう。昨夜の私は、救急車を呼んだ時点でほとんどの冷静成分を失っていた。
そうだ、叔母さんに病院の面会時間を聞かなきゃ。ああっ、店長にも一応連絡しておかないとっ。いや、その前にシャワー浴びよう。さすがに着の身着のままで気持ちが悪い。しかも、今気付いたけど泥だらけだ。ベッドに入らなくて良かった。けど、午前中は部屋の掃除をすることになりそうだ。掃除、苦手なんだけどなぁ。
いつもは寝ぼけ眼で起き上がる低血圧気味の私も、この時ばかりはてきぱきと動く。一晩経って、気持ちもだいぶ落ち着いていたせいもあるだろう。
着替えを用意しながら、服の汚れ具合を見る。雨の中を傘も差さずに走ったのと、裸足で庭に出たのと、泥だらけの春樹を抱えたせいで汚れていない部分を探すのが難しいくらいだった。なるほど、この有様では叔母が怒るのも無理ない。
自分の格好が分かると、手足や髪の中がむず痒くなってくる。
洗い流したい一心で部屋を出ようとする私の爪先に何かが当たった。
携帯電話だ。ランプが点滅している。
「あれ、着信だ」
いったいいつの間に。昨夜の時点で着信はなかったはずだから、私が寝入った後にかかってきたのだろう。
開けて見ると、メールだった。しかも店長から。
その名前を見たとき、嬉しい反面不安がむくむくとわき出る。
店長からメール。たぶん店絡みだ。
……嫌な予感しかしない。
おそるおそる本文を開いた私は、その内容に、ショックのあまり叫んでしまった。安らかに寝ていた叔母が飛び起きて、何事かと駆けつけてくるほどの大声だった。
でも、今はそんなこと構ってられない。
ああ、店長。よりによって、こんなときに遠出とか。
なんて間の悪い男。
数分後。
「ああもう、いい加減泣き止みなさいよ鬱陶しい!」
「だ、だってー、うっ、えぐっ」
「でーい、泣き止めぃ!」
ばしーんとタオルをぶつけられ、私は涙と悲鳴の入り混じった不細工な声を立てた。が、そのおかげで泣き声は止んだ。気分はまるで陰陽師に退治される悪霊。ただ、それだけ迷惑をかけてたのかなーとも思う。少なくとも、叔母は私が泣き止んだことでほっとしたようだ。
荒療治が功を奏したことに満足した叔母は、リビングのソファに座って偉そうに腕組みなんぞした。
「ったく。彼氏が旅に出たくらいで騒ぐんじゃねーわよ。大体、そんなことしょっちゅうでしょーが」
「だってぇ」
「だっては止め」
ぴしゃりと言いつけられ、ぐうの音も出ない。てか、まるで店長が私の恋人みたいな言い方やめてくれませんかね。だって私、彼氏が消えたくらいじゃ何とも思わないもん。そんなことは中学生の頃に経験済みさ。
でも、店長は別だ。本当に頼れる人と言ったら店長と叔母さんくらいしかいないもの。
あ、店長に会えないと思うとまた涙が出てきそう。
「ヒヨコの刷り込みみたいなものかしらねー」
すぐ涙を溜める私を見て、叔母は何事か呟いた。
「ああ、なんでもないよ。独り言だから」
そう言われるとますます気になる。
だが叔母は繰り返す気はないようで、背凭れに大きく腕を広げて横柄に命令する。
「そんなことより、メシ! 昨日の昼から何も食べてないのよ。冴、なんか作って」
「昨日の昼からって……叔母さん、どういう生活してんの?」
「別に。昨日はたまたま暇んなって、趣味に没頭してただけよ」
ご飯食べるのも忘れる程の趣味って、余程楽しいことなんだろうか。ある意味羨ましいけど、私にはたぶん無理だな。
「でも叔母さん、私シャワーまだなの。悪いけど、勝手に冷蔵庫漁ってて。なんかあるでしょ、冷凍のピザとか」
私としては最大限の誠意を示したつもりなのだが、叔母は不満げに口を尖らせた。
「えーっ。ちゃんとした手料理が食べたーいっ」
「私だってシャワー浴びたいもん。我侭言わないでよねー」
「やだやだっ。冴ちゃん作ってー!」
そう言って叔母は手足をじたばたさせた。
いくつの子供だよ、このヒト?
仕方ないので、シャワーを浴びた後で朝食を作ることを約束して、私は浴室へ向かった。すぐに素直になったところを見ると、空腹を癒すことよりも手料理を食すことの方が重要らしい。普段何を食べているのか、あんまり酷い食生活だと体を壊すんじゃないかと心配になったが、朝起きるなり人のことを叱ったり駄々をこねたりするバイタリティがあるのなら杞憂だろう。
大人なのか子供なのか分からない人だが、私にとっては大事な叔母だ。
有馬秋乃。父の妹で、三十六歳。何人か結婚を前提にお付き合いをしたことはあったようだが、いずれも最終ラインには至っていない。つまり未だに独身。振ったのか振られたのかは定かではない。
おおよそ世間一般の女性とはかけ離れた人で、化粧はしないし服も地味、伸ばしっぱなしの髪は一年に一、二度ばっさりと切られる。が、何年か前――つまり、男性とお付き合いがあった頃は、そりゃあもう眩しいくらいの美人でした。最近小皺が増えてきたとは言え、生来の美貌はあちこちに見受けられる。春樹に似ているな、と気付いたときは羨ましがるよりも先に納得したものだ。
そんな叔母は親戚というよりも友人といった感じで、気兼ねなく接することができる数少ない一人だった。
――すごく、感謝している。
私が大学へ通えているのも、春樹が高校に進学できたのも、そして《やすらひ堂》に出会えたことも、全部叔母のおかげなのだから。昨日だって、彼女がいなければ私は精も根も尽き果てて、どうしたらいいか分からなくなっていただろう。
だから、朝食を振舞うくらい本当は吝かではない。さっきのやり取りは、顔を合わせたときの恒例行事みたいなものである。
私は髪を梳かしながら、この後作る料理のメニューを考えはじめた。
「うん。うん。分かったけどあんた、なるべく早く帰ってきなさいよ? うちの姪っ子苛めたら、ただじゃおかないんだから。いいわね? ――ああ? つべこべ言わないのっ。それじゃあね!」
「……叔母さん、誰かと電話?」
シャワーを浴びて戻ってくると、叔母が携帯電話を切るところだった。って、それ私のケータイなんですが。部屋に置いてたはずなのに、騒ぎのどさくさに紛れて持って降りたのか。抜け目ないなぁ。ま、見られて困るようなことはないからいいけど。
予想通り、叔母は悪びれもせずに、あっけらかんと笑った。
「ああうん、久坊には私から事情伝えといたヨ。それとも、自分で電話して声聞きたかったーん?」
何その媚びるような喋り方。叔母らしくない。
「よく分かんないんだけど、久坊って誰?」
「え? あれ? 言わなかったっけ?」
くるくる変わる叔母の表情に吹き出しそうになりながら、私は対面式のカウンターの奥へ回る。冷蔵庫を開けると、卵が一パックの半分ほど残っていた。それを四つ取り出したのだが、面白がるような叔母の次の言葉に、危うく取り落としそうになった。
「あんたの店長のこと。みちひさ、で久坊」
「!?」
取り落としはしなかった。が、つい手に力が入って卵の殻にヒビが入った。……カンってする手間が省けたね、らっきー。
そういえば、店長ってそんな名前だったっけ。いつも『店長』って呼んでるから、思いつかなかった。なんか子供っぽいし、ちょっと可愛いと思ってしまった。それにしても愛称とは。
「叔母さんって、店長とそんなに親しかったんだ?」
「やだなに、嫉妬? いやーん、冴ちゃんも一端の女になったわねん」
「あーのーねぇ、叔母さん。単に尋ねてるだけでしょ? どこをどう弄くったら、そんな発想になるのよ」
「ハハハ。まーね、うん」
何が「まーね」なんだか。
呆れてものも言えない私に、ソファからカウンターに移動してきた叔母はコップ一杯の水を所望した。
ごきゅごきゅと音を立てて飲む叔母は、どことなく艶っぽい。こんなズボラでも美人は得だよなぁ。
「ぷはーっ。うまいっ」
「水道水だけど」
「十分十分。あ、それとね、卵はオムレツ、中はチーズがいいです」
「はいはい。……チーズ、あったかな」
がさごそと冷蔵庫を漁る私の背中に、叔母の視線が突き刺さる。何を考えているのか知らないけど、楽天家なのは相変わらずだ。だが、今はその能天気さに救われているのも事実。春樹のことも、叔母が笑っている内はきっと大丈夫。
「春樹のこと、心配?」
私はびっくりして叔母を振り返った。
いつもは適当にへらへらしているくせに、幼い子供を労わるような柔らかな視線を向けてくる。時々、的のど真ん中を突いてくるのは何故なんだろう。思わぬ不意打ちに泣きそうになる。私、こんなに泣き虫だったっけ。最近泣いてばっかりだ。
「心配じゃないわけないでしょ。弟だもん」
「弟だもんね」
「うん」
「うん、うん」
「でも、きっと大丈夫だよ」
「そうね。兄さんと義姉さんがついてるもんね」
「……うん」
本当に。
優しいなぁ、この人は。
全部分かってて言ってるんだ。その上で、私たちのことを想ってくれてる。
今、叔母がいてくれて本当に良かった。
私は心の底からそう思った。




