第四話 Ⅲ
「籠目、昼飯の時間だ」
耳元で呟かれた深い声に、籠目の意識は現実に戻った。ゆっくりと息を吐きながら瞼を持ち上げる。彼女の目に一番に映ったのは形の良い唇だった。厚めの唇は肌が白い為に紅を引いたように赤い。
唇だけでも色っぽいってどうなんだろう、籠目はそんなことを思いながら上半身を起こした。下半身はダークに抱えらえたままなので降りることは出来ない。
食事の時ぐらいは一人で座りたいと思った籠目が身じろぎをすると、ダークは「籠目」と再び名前を呼んだ。少しかすれた哀れっぽい声を態と出し、彼女の気を変えようとしている。
その声に籠目は小さく呻いた。けれどもそれは声に中てられたのではない。近いものを上げるならば、子どもに可愛い駄々をこねられた時の母親だろうか。
籠目は体を捻ると、両手でダークの髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でまわした。柔らかい猫毛の髪は絡まることなく彼女の手から零れ落ちてゆく。その行動に彼は怒るどころか、彼女の手の下で幸せそうに笑った。お返しとばかりに彼は彼女の首筋に顔を埋めてキスをする。
籠目は性的なものを一切感じさせないそれに、身じろぎをして笑った。――と以前ならなったのだが、今回を含め、ここ最近は違った。キスと共に走った小さな痛みに、彼女は両手を突っ張って体を離す。声を上げたりはしなかったものの、大きく反り返った上半身がその驚きを表していた。
貧弱ではないが、特別筋肉質でもないダークの膝は自由に動けるほど広くはない。そんな場所でバランスを崩した為に、当然ながら籠目は転げ落ちそうになった。
だが、それをただ見ているダークではない。籠目はよろける前に彼によって引き戻され、細身だが実用的な筋肉が付いたそれに優しく包み込まれた。頬を僅かにだが赤く染め、胸を鳴らしている彼女を安心させるように彼は背中をポンポンと叩く。
籠目の前ではどちらかと言うと子供っぽい行動が多いダークだが、実際は遥かに年上である。途中から数えることを止めてしまった為に定かではないが、最低でもコンクエストヴェールンスが創造される前から生きている。その上、コンクエストヴェールンスでも非常に顔が良い分類に入る彼が、女性関係において経験が豊富でないはずが無かった。第一、魔王と言う立場上、側室というものが存在しており、その人数は二十四人いる。
通常ではありえない年の差があるものの、籠目とダークの関係の中には幼馴染と言われるものも含まれる。彼女の記憶上、ここ十年は彼が女性と性的なことをしている記録はない。逆を言えば、その前はそれらの記録があるのだ。
良くも悪くも他人を気にしないダークが、子供の時代の籠目へ対してそれらの事に対する対処をすることは残念ながら無かった。とは言え、彼の周囲にいた魔族の貴族達が気を使ってくれていたお蔭で本番――キスや前戯れは入らない――を見ることは無くすんだ。相手の女性が魔族的性質から、彼女に気を使っていたことも大きな要因だろう。
魔族は基本的に魔力がより強い者に服従する傾向がある。籠目はダークを半身に持っているだけあって、彼と殆ど変わらない上質の魔力を保持していた。そんな彼女を蔑に出来る者は、魔王領には存在しないのだ。
それでも、ダークが女性の扱いが上手いことを籠目に知らしめるのは十分だ。彼女は彼が自分よりもずっと経験豊富で女性慣れしていることを周囲の人々以上に承知していた。
しかし、それらの技が自らに来ることは今まで無かったし、将来的にも来ることは無いと思っていたのだ。その上、この年までひたすら観測者の仕事に打ち込んでいた籠目は普通の同い年の女性に比べると、自らの恋愛に関しては遅れていると言えた。
まぁ、普通の女の子はダークに見られただけで真っ赤になるんだから、ある意味では経験豊富と言えるのかな。そんなことを頭の冷静な部分で考える。
籠目はダークの肩に顎を乗せると首に両腕を回し、安心したように息を吐いた。落ちそうになった原因を忘れた訳ではない。ただ、彼女は彼に対して長く緊張感や警戒心を持つことが出来ないのだ。
籠目は自他共に認める事実として、ダークを愛している。恋愛感情とは言えない深いそれは、彼の行動の大半――自分に対する事なら全て――を許す免罪符の様だった。だから先ほどの行動も驚いたが怒ってはいない。白い肌に付いた赤い模様は非常に目立つものだが、メルティアならば誰しもが持っている『不老不死』の体の為にそれは既に消えていた。
「…食事が冷めるぞ」
ランドルフが気まずそうに小声で告げた。その言葉に籠目は顔を上げる。向かいのソファーに座っているランドルフはあからさまに目を逸らし、顔は青ざめている様に見えた。
「ああ、ごめんね。食べようか」
籠目は先ほどまでの事など無かったかのように、普段通りの笑顔を浮かべながらそう言う。ランドルフはその言葉に安心を含んだ溜息を吐いた。その眼が一瞬だが横に動く。そちらに目を向けると、そこには微笑を湛えたクラッドが居た。目の奥が笑っていないので機嫌は芳しくない様だ。
“食べさせられてあげるから降ろして”
念話でダークに告げる。一拍の間を開けて彼は籠目を自らの隣に下ろした。彼女の前にクラッドが料理を置く。今日の食事も初めて見る物だ。この旅行の間は地元の料理をクラッドが作って持ってくるので、どれも初めて見る物ばかりだった。一見して中華料理の様なそれは大皿に盛られ、其々が好きなように取る仕様になっている。
「美味しそうだね。クラッド、ありがとう」
機嫌を直す意味も込めて、クラッドの手を手袋の上から握りお礼を言う。彼は当然ながらその言葉にご機嫌取りの意味が含まれていることに気付いている。それでも嬉しそうに顔を綻ばせ「ありがとうございます」と言い、手を握り返した。