第四章 災い転じて
出立は、明後日と決まった。
母は旅の衣を繕い、福は世話になった家々を回って頭を下げた。徳の枕元では、いつもの軽口さえ出た。「偉くなって帰ってきたら、まず何をする」「決まってる。お前の薬代を、耳を揃えて払う」——そんな、いつも通りの朝であった。
いつも通りの朝に、それは来た。
村道を、隣の婆さまが転がるように駆けてきた。息が言葉にならぬまま、婆さまは福の袖を掴んだ。
「こ、小梅が——役人に、連れて行かれた」
朝方、町から数人の役人が来たのだという。触れによれば、帝への献上の采女を選ぶ、と。名指しで小梅を呼び出し、親の泣くのも聞かず、町外れの空き家へ連れて行った、と。
——献上。
福の頭の中で、算盤が弾かれた。弾いてくれるなと願っても、この頭は勝手に弾いてしまうのである。都は今、董卓の兵馬に踏まれて焼けている。帝は長安へ引き立てられたと聞く。献上の采女など、届く先がない。つまりあれは、触れだけの話。連れて行かれた娘がどうなるかなど、答えの出る算盤を、福は生まれて初めて、心の底から憎んだ。
福は、駆けた。
村道を、畦を、あの三人で歩いた道幅の大きな道を、一人で駆けた。町外れの空き家が見えた。戸が、半端に開いていた。
——その先のことを、私は細かには語らぬ。
語れぬのではない。語らぬのだ。私は医者として五十年、あまたの骸を見てきた。それでも、語りたくない骸というものが、この世にはある。
ただ、これだけは言うておく。福が駆け込んだ時、小梅はもう、冷たくなっていた。争った跡があったとも言うし、身を汚される前に自ら喉を——とも言う。役人どもは口々に「勝手に死んだ」と喚いた。まことのところは、誰にも分からぬ。分からぬままであることが、この後の福を、生涯にわたって苛むことになる。
分かっていたのは、一つだけ。
夕焼けの中で「偉くなってから言いに来て」と笑った娘は、もう二度と、笑わぬということだけであった。
——それからのことも、手短に語る。
空き家には役人が五人いた。福が出てきた時、立っている者は、一人もいなかった。村一番の剣術者に習い、生まれてこのかた、誰かの喧嘩の肩代わりにしか使わなかったその腕を、福はこの日、初めて、己の中の何かのために振るった。剣は抜かなかったという。抜かずに、五人であった。
福は逃げなかった。
逃げるという考えが、頭になかったのであろう。あれほど回る頭が、あの日だけは、何も弾かなかった。福は空き家の前に座り込み、膝に小梅の頭を乗せ、髪についた土を、いつまでも、いつまでも払っていた。
日が暮れて、町から捕り方が来た。二十人からの捕り方は、しかし、すぐには少年に手を出せなかった。土壁の漆喰で真っ白になった顔、振り乱れた髪、暮れ方の薄闇に座るその姿は、人というより、物の怪のように見えたという。
「名を、名乗れ」
福は、答えなかった。
「どこの村の者か。親は誰か。名乗らねば、ためにならぬぞ」
福は、答えなかった。縄を打たれる間も、引き立てられる間も、ただの一言も。
——後に世人は、こう伝える。彼の者、捕らわれて名を問われるも、終始語らず、と。書物はそれを、仲間を庇う侠気と記した。間違いではない。名乗れば母に累が及ぶ。村に、徳に、累が及ぶ。それくらいの算盤は、壊れた頭の隅で、それでも回っていたのであろう。
されど、私は思うのだ。
あの子はあの晩、名乗らなかったのではない。名乗る名が、なかったのだ。
福——ささやかな幸い。その名の、いちばんささやかで、いちばん大きな幸いを守れなかった男に、名乗れる「福」など、もうどこにもなかったのである。
牢は、町役所の裏手にあった。
土間に転がされた福は、目を開けたまま、何も見ていなかった。腹も減らぬ。夜も来ぬ。小梅の髪についた土の感触だけが、指先に残って消えなかった。
——その頃、村では。
徳が、寝床の上に身を起こしていた。枕元には、村の若い衆が七人。剣術者の弟子筋が三人、残りは、かつて福に喧嘩の肩代わりをしてもらった連中である。皆、拳を握って唸っていた。牢を破ろうにも、役所には捕り方が詰めている。力ずくで行けば、村ごと咎めを受ける——
「——力ずくでは、行かない」
徳の声は、静かであった。静かなまま、燃えていた。
「いいか。奴らは、帝の名を騙った。献上などという嘘の触れで、小梅を攫った。……なら、こちらも騙ろう。嘘には、嘘だ」
徳は、震える手で、一枚の布を掲げた。
黄色い布であった。
「黄巾を、名乗る。潁川に黄巾の残党が出るのは、誰もが知っている。賊が役所を襲うたとて、誰も村を疑わぬ。囚われの罪人が消えたとて、賊が破ったで終わる。——そして役所が燃えれば」
徳は、咳き込み、それでも笑った。
「調べ書きも、燃える。名無しの罪人は、火の中で死んだことになる。……福は、死ぬんだ。今夜、書き付けの上で死んで、それで、自由になる」
若い衆は、息を呑んだ。呑んでから、一人が言った。「徳よ、お前……その体で、いつの間にそこまで」。徳は答えなかった。答えず、絵図を広げた。役所の見取り、火を掛ける蔵の位置、風向き、捕り方の詰所、牢の錠の破り方、逃げ道、集合の沢——病間から一歩も出たことのない男が描いたとは思えぬ、精緻な絵図であった。
「火は、書庫と空き蔵だけ。人のいる棟には掛けるな。役人どもは打ち据えて、縛って、表に転がせ。殺すな。殺したら、こちらが賊になる。……それから、これを」
徳は、木札の束を渡した。一枚一枚に、こう書かれていた。
帝ノ名ヲ借リル悪業ノ徒、天ニ代ワリテ之ヲ懲ラス——黄巾
「縛った役人の首に、掛けてやれ。……朝になれば、町中がこれを読む。奴らが小梅に何をしたか、町の者は皆知っていて、皆黙っていた。この札が、皆の口を開かせる。奴らは咎めを免れても、二度とあの町では生きられん」
その夜。
町役所から、火の手が上がった。黄色い布を頭に巻いた影が七つ、夜陰を駆けた。半刻ののち、役所の書庫は灰となり、役人どもは縛られて表に転がされ、首から木札を提げていた。牢の錠は破られ——中は、空であった。
——ここから先は、沢の隠れ家での話である。後に、その場にいた者から聞いた。
福は、事の次第を聞くなり、立ち上がったという。
「……駄目だ。駄目だ、徳。俺が、行く。役所に戻って、俺がやったと——全部、俺一人がやったと言う。お前らまで巻き込めるか。火付けだぞ。見つかりゃ、村ごと——」
「座れ、福」
徳の一喝であった。あの細い体の、どこから出た声か。七人の若い衆が、思わず背を伸ばしたほどの声であった。
「巻き込んだんじゃない。俺たちが、勝手にやったんだ。お前が寝てる間にな。……いいか、福。よく聞け」
徳は、友の前に膝でにじり寄った。熱で潤んだ目が、まっすぐに福を見た。
「この騒動はな、お前が被らんでいい。俺が、ぜんぶ被る。策を描いたのは俺だ。布を配ったのも、札を書いたのも俺だ。役所が調べたところで、辿り着く先は病間で寝たきりの、どうせ長くもない男が一人——それで、仕舞いだ」
「徳、お前——」
「小梅の墓は、俺が守る。花の絶える日は、一日たりとも作らん。母さまのことも、村のことも、地のことは、ぜんぶ俺に任せろ。……あの夜、言ったろう。お前が天に昇るなら、地は僕に任せろ、と。あれは、こういう意味だったんだよ、最初から」
福の目から、堰が切れた。捕らわれてから一度も出なかった涙が、後から後から落ちた。
「なんで……なんで、お前らはそこまで……俺なんかの、ために……」
「俺なんか、と言うな」
徳は、福の胸ぐらを、細い手で掴んだ。
「その"俺なんか"に、ここの七人は喧嘩の借りがある。その"俺なんか"に、俺は命の張り合いがある。その"俺なんか"を——小梅は、好いたんだ。……なあ、福。もう分かるだろう。お前一人の命じゃ、ないんだよ。今夜からお前の背中には、小梅の分が乗ってる。俺の分も乗せる。重いぞお。その重さで、飛ぶんだ」
徳は、胸ぐらを離し、そして、深々と頭を下げた。
「頼む、福。上から、国を変えてくれ。小梅みたいな娘が、二度と空き家に連れて行かれない国を。……下のことは、地のことは、俺が守る。だから——」
顔を上げた徳は、笑っていた。あの、熱に浮いても笑う、いつもの目で。
「行け」
賊どもは本堂の前に住職を引き据え、喚いていた。金を出せ、と。布施の銭、蔵の米、酒があるなら酒も、あるだけ全部だ、と。それから——賊の頭目は、堂の陰に隠れた寺男の娘を指して、嗤った。あれも寄越せ、と。
その夜のうちに、福は村を出た。母との別れは、短かった。「生きて、また会う」——それだけを誓い、母もまた「ああ」とだけ返した。あの親子は、いつもそれで済むのである。
南へ二日目の夜。福は、街道はずれの古寺の軒先を借りて、眠っていた。
騒がしさに目を開けば、松明の火が幾つも揺れていた。境内に、十あまりの人影。頭に巻いた布が、火に照って黄色く光った。
——黄巾。本物の、である。
賊どもは本堂の前に住職を引き据え、喚いていた。鐘を寄越せ、と。鐘楼の銅は溶かせば銭になり、矛にもなる。それから——賊の頭目は、堂の陰に隠れた寺男の娘を指して、嗤った。あれも寄越せ、と。
娘、の一言が聞こえた刹那。
福の体は、考えるより先に、軒先を蹴っていた。
——その先は、手短に語る。十と幾人かの賊のうち、立って逃げた者は三人。残りは境内に転がって呻いていた。福は今度も、得物を取らなかった。取らずに、それだけであった。ただ、前と一つ違ったのは——打ち据えた賊の頭目の襟首を掴み、福が低く、はっきりと言うたことである。
「鐘は、朝を報せるものだ。娘は、物じゃねえ。……二度と、間違えるな」
賊が這って消えたあと、住職が震えながら進み出て、命の恩人に名を尋ねた。
福は、口を開きかけ——閉じた。
福、という名が、喉の奥で出てこなかった。あの名は、燃えた役所の書き付けと一緒に、潁川で死んだのだ。ささやかな幸いを守れなかった名。守れなかったくせに、皆に生かされた名。
代わりに、胸の内から浮かんできたのは、一つの字であった。母が灰に書いてくれた数多の字の、その中の一つ。——庶。もろもろ、の意。もろもろの民。小梅のような、あの寺男の娘のような、名も残らぬ、数え切れぬ人々。
「……徐、と申します。名は——庶」
「ジョショ、どのか。よい名じゃ」住職は合掌した。「庶民の庶。衆生の庶。……あなたさまは、その名の通りに生きられるお方じゃろう」
徐庶は、何も答えず、ただ深く頭を下げて、夜明け前の街道へ出た。
——それから幾日。漢水の流れが見え、白帆の行き交う渡し場の向こうに、大きな城郭が横たわった。水と学問の町、襄陽。懐には、擦り切れた竹簡が一巻——「襄陽にて待つ」。
禍転じて、福は荊州へ。
いや——福は、もういない。潁川の火の中で死んだ。荊州の土を初めて踏んだのは、徐庶、字はのちに元直と称する、一人の若者である。世の諺は、ときに人の名で遊ぶものだ。禍転じて福となす、と人は言う。されどあの子においては、逆であった。
福が転じて、禍を越えたのである。




