第三章 また明日
飛べ、と言われて素直に飛ぶ男なら、話は早い。
されどこの坊主は、大事なことほど返事の遅い男である。あの日、福は徳の枕元でとうとう一言も答えず、司馬徽もまた、答えを催促しなかった。ただ帰り際、門の前で福と並び、ぽつりとこう言ったのである。
「福どの。わたくしはな、近々、潁川を離れる」
「……え?」
「荊州へ移る。襄陽という、水と学問の豊かな土地でな。志ある士が、続々と集まっておる」
「なんで、また」
「ふむ」司馬徽は、暮れかけた空を見上げた。「——この空の色が、好かんのだ」
福も、つられて空を見た。夕焼けであった。ただの、いつもの夕焼けである。されど言われてみれば——近ごろの夕空は、妙に赤い。西の空、都のある方角が、焼けた鉄のような色をしている。
「福どの。近ごろ、荀家の若君が村々を回っておるのを、ご存じか」
「……噂だけ。潁川一の名門の若様が、"逃げろ"って説いて回ってるって。みんな笑ってた。あんな偉い人が、なんで百姓の村なんかに」
「笑うたか。……して、福どのは、笑うたかな」
福は、答えなかった。答えないのが、答えであった。
潁川は四戦の地——東西南北、どこで戦が起きても、必ず兵の通り道になる。都で変事があれば、真っ先に踏まれるのはこの美しい平野である。荀家の若君が説いて回っているというその理屈を、福は噂に聞いた一度きりで、そっくり組み上げてしまっていた。組み上がってしまったから、この数日、夕焼けがただの夕焼けに見えないのである。
「好、好。……笑わぬ者が、この村に一人おれば十分よ」
司馬徽は、背の荷から一巻の竹簡を取り出し、福の手に押しつけた。
「置き土産だ。読める者に、いつか渡してくれればよい」
そう言って、若い書生は今度こそ、村を去っていった。福は手の中の竹簡を見た。表に、こう記されていた。
「襄陽にて待つ」
——読める者に、渡してくれればよい。
……あの野郎、と福は思った。最初から、全部。
*
それから数日、福は竹簡を懐に入れたまま、誰にも言わずにいた。
されど、この村で福の隠し事が保った例しはない。
夕暮れ、家路をたどる福の前に、小梅が立っていた。夕焼けを背にして、桑籠も持たず、ただ立っていた。待っていたのだ、と分かった。
「福」
「……なんだよ」
「あなた、この村にいちゃ駄目」
出し抜けであった。福は足を止めた。
「司馬徽さまのこと、徳から聞いた。竹簡のことも。——行きなよ、福。あなたには、もっと広いところが」
「待てよ」福は遮った。声が、思ったより尖った。「置いてけって言うのか。母ちゃんを? 徳を? ……この村を?」
「福——」
「俺はな、小梅。広い世界なんか、欲しかったことは一度もねえんだ。母ちゃんがいて、徳がいて、……お前が、いて」
言ってしまってから、福は口をつぐんだ。つぐんだが、遅かった。夕焼けのせいにするには、耳が赤すぎた。
「お前と徳がいてくれたから、俺はここで、母ちゃんと歩いてこれたんだ。今更、世界なんか——俺には」
小梅は、しばらく黙っていた。黙って、それから、ふ、と息をついた。怒ったような、泣くのを堪えるような、不思議な息だった。
「……ねえ、福。あなたの言うこと、ぜんぶ本当だと思う。本当だと思うけど——ぜんぶ、いつもの癖だとも思う」
「……癖?」
「欲しいものができると、あなたは先に理由を作るの。"うちは貧しいから"。"徳は体が弱いから"。"母ちゃんがいるから"。——ぜんぶ誰かのせいにして、ぜんぶ優しさの形をしてて、それでぜんぶ、あなたが諦めるための理由。……私はずっと隣で、それを見てきたんだよ」
福は、殴られたような顔をした。徳に言われた言葉と、寸分違わず同じ場所に、今度は小梅の言葉が刺さっていた。
「広い世界が欲しくないなんて、嘘。だってあなた、司馬徽さまの竹簡、捨てずに懐に入れてるじゃない」
「これ、は……」
「福」小梅は、一歩近づいた。「母さまのことも、徳のことも、心配しなくていいなんて言わない。心配して。心配したまま、行って。……あなたがこの村でわんぱく坊主のまま年を取るのを見るのだけは、私、嫌なの」
「小梅、俺は——さっきの、その」
「聞こえなかった」
小梅は、にっこり笑った。笑って、くるりと背を向けた。
「夕焼けがうるさくて、なーんにも聞こえなかった。……続きは、偉くなってから言いに来て。それまで、預かっといたげる」
夕焼けの中を、小梅は駆けていった。福は、立ち尽くしていた。懐の竹簡が、心の臓の上で、妙に熱かった。
*
その夜、福は眠れなかった。
徳に言われた。小梅に言われた。だから行く——それでは、まるで人に言われて動く軽い男ではないか。そんな男と思われたくない。思われたくないが、では自分一人の考えはどうなのだと問えば、頭の中の算盤は、とうに答えを出している。一人で世を変えるなど、無謀。されど、このまま村にいて、あの赤い空が本物の火になった日、俺は——
囲炉裏の火が、小さく爆ぜた。
「眠れないのかい」
母であった。繕い物を膝に、いつの間にか、向かいに座っていた。
「……母ちゃんこそ。夜なべは駄目だって、先生に言われたろ」
「今夜だけだよ。……なんだか今夜を逃すと、あんたと話せない気がしてね」
母は針を置いた。置いて、囲炉裏の灰を、指でならした。
「福。あんたはいつも、私らのことを一番に考えてくれた。ありがとうね。……でもね、近ごろの世は、どうもおかしいよ。お上に納める分は日に日に上がる。塩の値も上がる。村の若い衆は駆り出される。——天辺の政が、腐ってるんだ。天辺が腐ってるときはね、福。下でどれだけ真面目に耕したって、水は上から濁ってくるんだよ」
「……だからって、俺一人でどうにかなるもんじゃねえよ」
「一人で、とは言ってないさ」母は笑った。「でもね、誰かが一番はじめに立たなきゃ、二番目の人は出てこられないんだ。あんた、二番目なら出来るって顔してるけど——一番が出るのを、いつまで待つ気だい」
「……始めるのは、俺じゃなくてもいいだろ」
「そう言って待ってる利口者が、この国に何万人いると思う。みーんな、あんたと同じことを言って、囲炉裏の前に座ってるんだよ」
福は、言葉に詰まった。詰まって、それでも、最後の理由を握りしめた。
「……俺には、護るもんがある。母ちゃんが」
「福」
母は、灰の上に、指で一字、書いた。
——福。
「あんた、この字、いつから読めてた?」
福の息が、止まった。
「初めて教えた晩から、読めてたろう。読める字を、初めて見るみたいな顔して、ゆっくりゆっくり、なぞってくれてたろう。……母ちゃんはね、ぜんぶ知ってて、知らんぷりしてたんだ。あんたのその優しさが嬉しくてね、甘えてたんだよ、ずっと」
「母ちゃん……」
「賢い子だと言えば、あんたは無理して隠す。学問がしたいかと聞けば、要らないと言う。だから聞かなかった。——それが母ちゃんの、間違いだった」
母は、灰の字を、手のひらでそっと消した。
「小さくおなり、と育てちまった。この家の分に合うように、合うようにと。……もう、やめだ。福。あんたは大きくなっていい子なんだ。男なんだから、大きくお出よ。母ちゃんを理由に居残るのだけは——それだけは、この母への、いちばんの親不孝だと思いな」
*
夜が明けて、福は母に、ただ一言、「行くよ」と言った。
母は、ただ一言、「ああ」と返した。
それで、済んだ。親子というものは、それで済むのである。
*
翌る日の夕暮れ、徳の家に、三人がいた。
出立の荷造りも一段落し、福が顔を出すと、先に小梅が来ていたのである。枕元に膝を揃え、徳と何やら笑っていた。福の顔を見るなり、二人の笑いが、もう一段大きくなった。
「……なんだよ」
「なんでもなーい」
なんでもない顔ではなかった。されど福が問い詰める前に、徳が寝床から身を起こした。
「福。襄陽へ発つと、母さまから聞いた。——やっと飛ぶ気になったか、わんぱく」
「うるせえ。……お前らが寄ってたかって、外堀を埋めるからだろ」
「埋めた埋めた」小梅が笑った。「三人がかりだもの。埋まらないわけないでしょ」
三人、であった。徳と、小梅と、母と。福は口を尖らせ、それから、観念したように胡座をかいた。いつもの位置——徳の枕元の右に福、左に小梅。三人の形が、そこにあった。
「なあ、福」徳が言った。「お前が天に昇るなら、地のことは、僕に任せろ」
「……地?」
「村と、町だ。僕は体では飛べない。だが頭は、まだ地べたで役に立つ。世が荒れたら、村のみんなをどう逃がすか、どこに水を隠すか——僕が考えておく。お前の故郷は、僕が守る。……それから」
徳はちらりと、左を見た。
「小梅も、僕が守る。安心して行け」
「ちょっと、徳」小梅が頬をふくらませた。「私、守られる側なの? 私はあんたの薬の番人でしょ」
「守り守られ、だなあ」
二人が笑い、福は笑えなかった。笑えずに、ただ、二人の顔を順に見た。この景色を置いていくのか、と思った。思った顔が、そのまま出ていたのであろう。小梅が、ふいに言った。
「福。餞別、あげる」
「……なんだよ、藪から棒に」
「私ね」小梅は、まっすぐに福を見た。「あなたのことが、好きだよ」
福の口が、開いたまま止まった。徳が、にやにやと天井を見た。
「あなたのあの日の続きは、預かったまま。あれは、偉くなってから聞くの。でも私のは、今あげる。……道中、寒い夜もあるでしょ。懐に入れて、持ってお行き」
「小梅、お前……徳の前で……」
「徳の前だから、言うんだよ」小梅は笑った。「証人がいれば、あなた、逃げられないもの」
「うむ、確かに聞いた」徳が厳かに頷いた。「天地神明と、この徳が証人である。徐家の福、いま小梅どのの心を預かった。偉くならずに帰ってきた場合は——」
「場合は?」
「僕が小梅を嫁にもらう」
「てめえ徳!」
三人の笑い声が、小さな家に満ちた。夜が更けるまで、三人は語った。襄陽とはどんな町か。学問所とはどんな所か。偉くなるとは、いくらぐらい偉いのか。詮ないことを、いつまでも、いつまでも。
やがて夜も遅く、三人はそれぞれの家へ帰っていった。月のいい晩で、別れ際、誰からともなく「また明日」と言うた。
——また、明日。
なんの変哲もないその四文字を、私は今でも、うまく語れぬ。
世に数多の別れの言葉があるが、いちばん残酷なのは、別れと知らずに交わす「また明日」である。




