第二章 三顧の門番
ある晴れた日のことである。村に、見慣れぬ一行が訪れた。
十人ばかりの、書生風の男たち。聞けば、学問を修めながら諸国を巡り歩く遊学の士だという。乱世に珍しく血の匂いのせぬ客に、村人たちは畑の手を止めて集まった。一行は請われるまま、木陰で講義めいた話をして聞かせた——国を潤すはまず大地なり、大地肥えれば田畑に力実り、田畑実れば民が立ち、民立ちて初めて国が立つ。難しい書物の話ではない。百姓たちの膝が思わず前に出る、土の匂いのする学問であった。
さて、その一行の中に、一人だけ妙な男がいた。
講義の輪には加わらず、少し離れたところで、村人たちの顔ばかりを眺めている。歳の頃は二十歳を幾つか出たほどか。誰と目が合ってもにこにこと頷き、「好、好」と繰り返すばかり。何が良いのかは、誰にも分からぬ。
やがて講義が果てた頃、その男がふらりと進み出て、村人たちに尋ねた。
「つかぬことを伺うが——この村に、賢き者がおると聞いてな。ぜひ教えを請いたい。どなたか、知恵者をご存じないか」
村人たちは顔を見合わせ、それから口々に言った。
「知恵者なら、おりますとも。天から授かったような頭の子でしてな。名を、徳と申します」
「五つで千字文をそらんじた子でございますよ」
「ほう、それは、それは」男は目を細めた。「さすれば、その徳どのを、これへ連れて来てはもらえぬか」
「それが……」村人の一人が言い淀んだ。「難しゅうございます。徳は生まれつき体が弱く、日頃、外へは出て参りませんので」
「なんと。……好、好」
男は頷いた。頷いて、それから、こともなげに言った。
「ならば、こちらから参ろう。寝ておる知恵者を、起こすには及ばぬ」
——男は、名を司馬徽といった。潁川の生まれ。のちに水鏡先生と呼ばれ、臥龍鳳雛を世に送り出すことになる、あの司馬徽である。この時はまだ、号もなく、名もさして知られておらず、ただ人の顔を見るのがやたらと好きな、若い書生に過ぎなかった。
その若い書生が、これから病間に寝る知恵者を訪ね——そして、その枕元にいる評判にも上らぬ坊主を見つけることになるのだが。
それはもう少し先の話。まずは、徳の家の戸が叩かれるところから、語るとしよう。
*
徳の家の前には、一人の少年が立っていた。戸を背にして、まるで門番のように。
「もし、坊。ここは徳どののお住まいかな」
「……そうだけど」少年は答えて、それから思い直したように付け足した。「そうで、ございますが。何か、ご用ですか」
「徳どのはご聡明と伺うてな。ひとつお知恵に与りたく、はるばる参った次第。お会いできようか」
少年は、すぐには答えなかった。
代わりに、司馬徽の頭のてっぺんから足元までを、すっと一度だけ見た。埃の乗った履、日に焼けた首、背の荷の軽さ、腰に提げた竹簡の擦れ具合——見たのは一瞬である。一瞬で終えて、少年は何も見なかったような顔に戻った。
「……今日は、駄目です。徳は朝から具合を悪くしてて。すみません」
「おお、それはいかん。病人を騒がせては本末転倒。なに、急ぐ旅でもなし——では、日を改めて出直すと致そう。好、好」
司馬徽はあっさり踵を返した。返して、二、三歩ゆき、それから思い出したように振り向いた。
「時に、坊。名は何と申す」
「……福、ですけど」
「福、か。好い名だ」
にこにこと頷いて、今度こそ司馬徽は去っていった。
——後年、当人から聞いた話である。あの時、戸口の坊主の一瞥に、肌が粟立ったのだそうだ。あれは物見の目ではない。値踏みの目だ。旅の埃の量で道程を、荷の軽さで懐具合を、竹簡の擦れで学問の年季を、一瞬で算盤した目だ。しかもそれを、慌てて仕舞いおった。……あの村の知恵者は、寝床の子ではない。戸口に立っておるわ——と。
されど司馬徽は、何食わぬ顔で村を出た。獲物を見つけた猟師ほど、静かに歩くものである。
*
また、晴れた日であった。司馬徽は再び、徳の家の門前に立った。
「やあ。そこな坊は——福どの、と申されたか。今日は、徳どのにお会いできるかな」
「あ……あの日の」
福は一瞬言葉に詰まり、それから、目を伏せて言った。
「……すみません。徳は、今日も具合が悪くて。申し訳ないですが、また、後日にしてもらえますか」
「ほう。今日も、か」
司馬徽は福の顔をしばし眺め、それから例のごとく、にこにこと頷いた。
「好、好。病は客を選ばぬでな。では後日、また邪魔をするといたそう」
「……伝えて、おきます」
「うむ。——ああ、それと福どの」去り際、司馬徽はひょいと振り向いた。「徳どのに、よしなに。早う良うなられよ、とな」
司馬徽は去った。その後ろ姿が小さくなるのを、福は門の前で、じっと見送っていた。
——と、その背中に、声がかかった。
「ねえ、福」
小梅であった。桑籠を提げて、首を傾げている。
「徳、さっき窓のとこでご飯おかわりしてたけど? 元気そうだったけど?」
「…………いいんだ」
「よくないでしょ。なんで嘘ついたの」
福は答えず、地面の小石を蹴った。それから、吐き捨てるように言った。
「……ああいう奴は、徳を連れてくんだ。賢い子供を見つけて、都だの学問所だのに連れてって——それきりだ。徳は体が弱いんだぞ。連れ回されたら、死んじまう」
「あの人、すごく頭が良さそうだったよ。悪い人には、見えなかったけど」
「本当に怖い奴は、見た目じゃわからない」
言ってから、福は自分の言葉に、自分で少し驚いたような顔をした。小梅は籠を持ち直し、福の横顔をじっと見て——それ以上、何も言わなかった。言わなかったが、この娘のことである。見抜いていた。福が恐れているのは、徳が死ぬことではない。徳が行ってしまうことだ。
頭を隠す。想いを隠す。そして今度は、友を隠す。この子の隠し事は、いつも同じ形をしている——大事なものを、失う前に、仕舞い込むのだ。
されど福よ。仕舞い込んだ宝は、いつか必ず、蔵の中で腐るか——蔵ごと、破られる。
そして破りに来る男は、もう気づいておった。二度訪ねて、二度とも「具合が悪い」。されど門前の坊主の目は、二度とも泳いでおった。嘘の下手な、正直者の目であった。三度目の訪いに、あの男が手ぶらで来るはずがないのである。
*
またある晴れた日——三度目である。司馬徽は今度は連れも伴わず、ただ一人、徳の家の門前に立った。供を置いてきたのは、遠慮ではない。本気の証である。
「福どの。徳どのの、お加減はいかがかな」
福は、戸の前から動かなかった。動かず、低い声で言った。
「……なんで、三度も来るんですか」
「ん?」
「賢い子を探してるんでしょう。よそを当たってください。徳は——」福は、拳を握った。握って、言ってしまった。「徳は、あんたが思ってるほどの奴じゃ、ありませんよ」
言った瞬間、自分の心の臓が嫌な音を立てたのが、分かった。
司馬徽は、怒らなかった。にこにこもしなかった。ただ静かに、福の目を見た。嘘を責める目ではない。嘘の理由を探す目であった。この男に睨まれるより、この男に黙って見られるほうが、よほど恐ろしい——福が後ずさりかけた、その時である。
「——福」
戸の内から、声がした。
「福。今のは、聞き捨てならないなあ」
戸が、内から開いた。徳であった。寝間着のまま、壁に手をついて、細い体で立っていた。息は浅い。されど目だけは、いつもの、あの熱に浮いても笑う目であった。
「僕は君が思ってるほどの奴じゃない、って言うならまだしも。あんたが思ってるほどの奴じゃない、はないだろう。会ったこともないお客に、僕の値段を先に決めるな」
「徳、お前、寝てろ……!」
「三度だぞ、福」徳は笑った。笑って、咳き込んで、それでも続けた。「三度も足を運んでくれるお客を、僕は寝て待ってたのか。……知らなかったなあ。ひどい門番を置いたものだ」
福は、何も言えなかった。
徳は戸口の柱にすがったまま、司馬徽に向き直り、精一杯に頭を下げた。
「お客人。友の無礼を、お詫びします。——私が、徳です。こんな体ですが、私でよければ、お会いします」
司馬徽はしばし、戸口の二人を眺めていた。立てぬ体で立った知恵者と、その前で立ち尽くす門番と。それから、ふ、と息を吐いて、深々と礼を返した。
「好、好。……いや、実に好い。徳どの、お目にかかれて光栄。されどまずは、お休みなされ。話は枕元で伺えばよろしい。——それと」
司馬徽は、福を見た。
「好い門番をお持ちだ。三度嘘をついて、三度とも下手であった。世にこれほど信のおける門番は、なかなかおらぬよ」
*
枕元に招じ入れられた司馬徽は、居住まいを正して名乗った。
「改めて。わたくし、司馬徽と申す者。潁川陽翟の生まれにて、しがない書生にござる。世に埋もれた知者を探し出し、然るべき学びの場に繋ぐ——世が知者に溢れれば、世は少しは平らかになろうと、まあ、そのような酔狂を役目としており申す」
「そのようなお方が、私ごときに何のご用でしょう」徳は寝床の上で、できる限り背を伸ばした。「三度もご足労いただき、頭が上がりません」
「なに、この村に、眠れる雛がおると聞き及んでな。……時に徳どの、一つ、伺うてもよろしいか」
「私に答えられることでしたら」
司馬徽は、ふと窓の外の畑に目をやった。
「先だって、村の衆に説いて回ったのだがな。国を潤すは、まず大地。大地肥えて、田畑実り、民が立つ、と。——徳どのなら、この説に何と答えられる」
徳はしばらく目を閉じた。それから、静かに言った。
「半分は、まことと思います。されど先生。肥えた田は、奪われます。この乱世、実った穀は兵を呼びます。荷車は徴発され、男手は駆り出され、残るのは踏み荒らされた畝ばかり。……大地を肥やす前に、要るものがあります。実りを守る力と、奪わずに済む世の仕組み。それがなければ、民を富ませる教えは、そのまま民を狙わせる教えになりましょう」
「…………好」
司馬徽の声が、一段低くなった。にこにこが、消えていた。
「好い答えだ。書生を十年やった者でも、そこまでは言えぬ。……徳どの。その体さえ許せば、わたくしはあなたを都の学舎にでも荊州の名士の元にでも——」
「先生」
徳は、遮った。遮って、笑った。
「過分なお言葉です。ですが、私の天命は——ご覧の通り、あまり長くはありません。学びの場まで、この体はもちますまい。……それに」
「それに?」
「今の答えは、私のものではないのです」
部屋の隅で、壁を背に小さくなっていた福の肩が、跳ねた。
「いつだったか、畑の水争いを見ながら、あいつがぽつりと言ったのです。"実るから、獲られるんだ。守る算段のねえ豊作は、ただの餌だ"と。——私はそれを、今、書生の言葉に着替えさせて申し上げただけ。種を蒔いたのは、私ではありません」
司馬徽は、ゆっくりと首を巡らせた。
部屋の隅の、門番へと。
「……ほう」
「先生がお探しの眠れる雛は」徳は、まっすぐに言った。「寝床には、おりませんよ。三度、あなたに嘘をついた男の中に、おります」
「徳、てめえ……!」
「福」徳は、大志の夜と同じ目をしていた。「隠すな。——僕の分まで、飛べ」
*
——世人は後年、劉玄徳の「三顧の礼」を語る。草廬を三たび訪ね、臥龍を起こした美談として、千年語り継ぐことになる。
されどその十余年前。潁川の名もなき小村で、一人の若い書生が、三度、同じ門を叩いていたことは——どの書物にも、載っておらぬ。
三度目の門の内で見つかったのは、寝床の知恵者ではなく、嘘の下手な門番であった。そしてその門番こそが、のちに玄徳どのへ「三度、訪ねなされ」と教える男になるのだから、世の巡りとは面白い。
三顧は、草廬より先に、あの寒村で始まっていたのである。
(第二章 了)




