第一章 単家の坊や
今は昔、中華の大地に、後漢という大きな大きな国があった。
その旗は長きにわたり、大地の隅々までを覆っていた。されどその旗の下、政はいつしか私利私欲に濁り、民は顧みられず、国は乱れ、大地からは民を支える力が徐々に失われていった。
そのような世に、潁川の片隅、権勢もなき徐という家に、一人の男の子が生まれた。世に言う単家——名門にあらず、豪族にあらず、ただの民の家である。
子は福と名づけられた。ささやかな名である。この乱れた世で、親が子に願えるものなど、それくらいしかなかったのだ。
やがてその子が十ばかりに育った頃、大地に黄色の旗が翻った。天は死し、黄天まさに立つべし——救いを求める民草が黄巾を頭に巻き、怒濤のごとく国を席巻していった。飢えた者が飢えた者を打つ、出口のない乱世の幕開けであった。
のちにこの子は名を庶と改め、字を元直と称する。天がこの乱世を救わんとして遣わした使いであった——などと言えば、あの坊やは苦い顔で笑うであろう。違うのだ。これは天の話ではない。地を這い、剣を握り、母の飯を食うて育った、ただの人の子の話である。
だからこそ、語るに値する。
*
福の育ちは早かった。幼き頃より体は同じ年頃の子らより頭一つ大きく、村では名の知れたわんぱく坊主として育った。喧嘩をすれば負け知らず、悪戯をすれば逃げ足いちばん。されど不思議と、この子を本気で憎む者はいなかった。福の喧嘩はいつも、誰かの喧嘩の肩代わりだったからである。
だが、時代は平民にこそ多くの代償を求めた。日々の飯にも事欠く暮らし。それでも両親は考えた——この乱れた世で、この子に何を残してやれるか。学問は銭がかかる。門地なき単家の子を受け入れる塾も、この辺りにはない。ならば、せめて。
「己の身と、守りたい者を守れる子に」
両親は苦心して銭を工面し、村一番の剣術者のもとへ福を通わせた。福は水を得た魚であった。生まれ持った体格と、喧嘩で鍛えた度胸。師は舌を巻き、そしてぽつりと言ったという。
「この子の剣は強うなる。だが心配なのはそこではない。この子は——自分のためには、剣を抜かん子じゃ」
福もまた、両親の温かさを子供心に知っていた。稽古のない日は家の仕事を手伝い、母と桑を摘み、父と田を耕した。貧しくとも、忙しくとも、明るき日々であった。
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ところで——これは、当の両親すら知らなかったことである。
福は、頭が回った。それも、尋常ではなく回った。
村の知恵者の家の前を通れば、窓越しに聞こえる素読が一度で耳に残った。米屋が算木を並べて唸っていれば、答えが先に頭に浮かんで、口に出しそうになるのを慌てて呑み込んだ。田の水の引き方も、桑の葉の付き方も、市の銭の流れも、見ていれば勝手に理屈が組み上がってしまう。誰に教わったわけでもない。ただ、そういう頭に生まれついていた。
されど福は、それをひた隠しにした。
理由は単純である。剣術の束脩ひとつに、父がどれだけ夜なべをしているか、母が自分の椀の粥をどれだけ薄くしているか、この子は知っていたのだ。もしも「学問がしたい」などと口にすれば、この父と母は、きっとまた無理をする。ならば知らぬ顔がいちばんいい。福は聞き覚えた文句をわざと間違えて口ずさみ、算えられる銭をわざと指折り数え、村ではただの剣好きのわんぱく坊主で通した。
夜、母が囲炉裏の灰に指で文字を書いて教えてくれる。福はとうに読める字を、初めて見るような顔をして、ゆっくりなぞった。母が嬉しそうに笑うからである。
——賢しらを隠すもまた知恵。後年、天下にその名を知られる軍師の、これが最初の「はかりごと」であったかもしれぬ。
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さて、福には、想い人がいた。
隣の家の娘である。名は、小さき梅と書いて小梅といった——と、これは後に人づてに聞いた話だから、まことの字は知らぬ。生まれは福のすぐ翌年。物心つく前から共にいて、転べば福が起こしてやり、福が喧嘩で泥だらけになれば小梅が呆れて泥を払ってやる、そういう間柄であった。
妹のようなものだ、と福は思うことにしていた。
されどその実、福はこの娘を、誰よりも大切に想うていた。想うていたが——例によって、この子である。剣の才は見せても、頭の良さは隠す。頭の良さを隠すこの子が、胸の内なぞ見せるはずもない。小梅の前ではことさらに乱暴に振る舞い、からかい、素っ気なくし、村の誰一人、当の両親にすら、この想いを悟らせなかった。
ただ一人——小梅を除いては。
そう、隠し事の名人であったこの子の隠し事を、母は半分、小梅はすべて、見抜いておった。女子というものは、そういうものである。小梅は福の素っ気なさを咎めもせず、暴かれもせず、ただ知らぬ顔で隣にいた。知らぬ顔の福と、知らぬ顔の小梅。似た者同士というのは、こういう二人のことを言うのであろう。
——のちの徐元直、千の兵の動きは読めても、隣の娘一人には終生かなわなかった。これは笑い話ではない。惚気でもない。ただの、まことの話である。
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そしてもう一人。福には、歴史のどの書物にも名を残さなかった友がいた。
名を、徳という。
聡明な子であった。生まれつきの知恵者で、五つで千字文をそらんじ、七つで村の大人の諍いの筋道を解いてみせた。されど天は二物を与えなかった——生まれは難産で、母親の命と引き換えるようにしてこの世に出てきた子である。体は細く、季節の変わり目ごとに熱を出し、外を駆けることもままならなかった。
その徳のもとへ、村一番のわんぱくが日参するようになった。きっかけは福らしいものである。徳が年嵩の悪童どもに書物を取り上げられて泣いていたのを、通りがかりの福が拳ひとつで取り返してやった。それだけのことだ。だが寝床の徳の枕元で、福が例のごとく聞き覚えの文句をわざと間違えて口ずさんでみせたとき——徳は熱に浮いた目で、ふふ、と笑ったのである。
「福、お前……今の、わざとだろう」
母ですら半分しか見抜けぬこの子の芝居を、この病弱な知恵者は、初日で見抜いた。
以来、二人であった。福は言った。「お前の体はオレがかばう。そのかわり、オレの頭はお前が磨け」。徳は答えた。「損な取引だなあ。僕の体は重いよ」。福は笑った。「オレの頭のほうが重い」。
親が引き合わせたのでもない。誰に頼まれたのでもない。福は徳を負ぶって野山を駆け、徳は福に書を読んで聞かせた。救ってやっているのはどちらなのか、当人たちにも分からぬような、血の繋がらぬ兄弟であった。
かくして——駆ける福、隣を歩く小梅、背中の徳。三人の日々は、貧しくとも、あの村の道幅いっぱいに大きかった。
*
月日は流れ、福は十三になった。世は黄巾の乱の後もなお定まらず、村に届く噂は物騒なものばかりが増えていった。
ある夕暮れ、寝床の徳がふいに言った。
「福。お前、小梅のことが好きなんだろう」
福は薪をくべる手を止めなかった。止めなかったが、耳が赤いのは火のせいではなかった。
「……徳には、隠し事ができないな」
「で、お前のことだ。どうせ"このままでいい"と思っているんだろう」
「うちは貧しい。母ちゃんの苦労を見てみろ。あんな暮らしに小梅を引き込むのか。……小梅は、いい家に嫁いだほうがいい」
言い切って、福は薪を強く折った。徳は熱の残る目で、じっと友を見た。
「お前、いつからそんなつまらない男になった」
「なんだと」
「言い直そうか。お前はいつも、そうだ。頭の良さも隠す。小梅への想いも隠す。——お前の隠し事はな、福、ぜんぶ同じ形をしているんだ。手に入らないと先に決めて、欲しがる前に諦める。それを優しさの顔で隠す。恥ずかしくないのか」
福は今度こそ手を止めた。しばらく、火の爆ぜる音だけがした。
「……喧嘩なら、力でなんとかなる。だがな徳、世の中は、俺一人じゃ変えられねえんだよ」
「一人では、な」徳は身を起こした。細い体のどこにその声があるのかという声だった。「なら、力を貸してくれる誰かを探せばいい」
「そんな奴、いるかよ。……いや」福は口ごもった。「徳が、いるか」
「三人だろう」徳は笑った。「お前と、僕と、小梅と。三人で世の中を変えられたら——僕は本気で、そう思っているよ」
「病人が言うことか」
「病人だから言うのさ。僕は体で世を渡れない。だから余計に分かる。お前のその体と、その頭、両方持って生まれた奴が、諦め癖なんぞ飼っているのが、どれほどの無駄遣いか」
徳は福の胸を、細い指でとん、と突いた。
「大志を抱け、福。小梅一人守れない男に、世は救えない。世を救うつもりの男だけが、惚れた女を守れるんだ」
福は答えなかった。答えなかったが——この夜の火の色を、この男は生涯忘れなかったという。
*
天というものは、よくよく人が悪い。大志を抱いたばかりの少年を、さっそく試しにかかったのである。
その試しは、福の家の、いちばん柔らかいところに来た。
このところ、福の母の様子がおかしかった。日に日に痩せ、頬がそげ、目の下が窪んでいく。それでも母は「なんでもないよ」と笑って、薄い粥を福の椀にばかりよそるのである。夜なべの針を持つ手が、時折止まっていることに、福は気づいていた。気づいていて、どうすることもできなかった。
拳では、病は殴れない。
ちょうどその頃である。一人の妙な男が、村に流れてきたのは。
東の方より諸国を巡り歩いてきたという、旅の医者である。歳の頃は分からぬ。どんな病もたちどころに治すと評判で、しかも貧しい者からは薬礼を取らぬという。村人たちは仏でも来たかとありがたがり、男が仮住まいに借りた庵の前には、夜明け前から病人の列ができた。
男は、名を華佗と名乗った。
——そう。ほかならぬ、この私である。あの村に流れ着いたのが運の尽き、いや、運の始まりであったこと、この時はまだ知る由もない。
福は、夜明け前の暗いうちから庵の前に立った。列の一番先頭である。やがて戸が開き、私は声をかけた。
「次の方、入られよ」
「先生……!」少年は土間に膝をついた。頭が地面につくかというほど下げた。「お願いします。うちの母ちゃんを、観てやってください。銭は——銭は、いま持ってるだけしかねえけど、足りない分は俺が働いて、何年かかっても必ず」
「顔を上げなさい」
上がった顔を、私はしばし、じっと見た。喧嘩に明け暮れたガキ大将の面構え。その奥で、燃えるような目が、まっすぐこちらを見返してくる。諦めを知らぬ目——いや、諦めまいと、決めたばかりの目だ。
……ほう、と思ったのを、覚えている。
「銭の話は後でよい。案内せい、坊主。病人を待たせるものではない」
「——はいっ!」
*
土間に入るなり、私は病人よりも先に、家の中を見た。医者の癖である。竈の灰は少ない。米櫃は、見るまでもない。壁の繕い、継ぎの当たった着物、隅に立てかけられた木剣——この家の暮らしが、ひと目で診立てられた。父親は野良に出ているという。休めば、その日の飯が減る家なのだ。
母親は寝床で身を起こし、済まなそうに笑った。倅とよく似た笑い方であった。
「手を」
脈は細いが、乱れてはいない。手のひらは針だこと、あかぎれ。爪の色が薄い。
「上を向かれよ」
目の下に、墨で縁取りを描いたような黒い隈がある。まるで化粧でもしたかのようだ——が、これは夜、眠っておらぬ者の顔である。
「口を開けて。……うむ、よし」
私は薬箱を閉じた。母親と、戸口で身を固くしている倅に、努めてなんでもないように言った。
「悪い病はない。案ずるな。薬を置いてゆくが、それより飯だ。粥を一段濃くして、卵なり魚なり、精のつくものを日に一度。それから夜なべは当分やめなされ。針は日のあるうちに」
「まあ……お恥ずかしい。たいしたことも、ございませんのに」
「たいしたことになる前に来たのが、この倅の手柄よ」
母親は笑い、倅は俯いた。私は薬を煎じる手順を教え——ここで、おや、と思った。この坊主、一度しか言うておらぬ薬草の名と分量を、復唱もせずに頷いておる。目の動きで分かる。頭の中に、そっくりそのまま書き取りおったな。
庵へ帰る道すがら、送ると言ってついてきた福に、私は歩きながら告げた。
「坊主。母御の病はな、病ではない。貧しさだ」
福の足が止まった。
「体が細り、夜も眠れぬのは、食う分をお前によそり、寝る間を針に売っておるからだ。薬は効く。だが暮らしが変わらねば、また元に戻る。……いいか、これは殴って勝てる相手ではないぞ」
福は、拳を握って、しばらく地面を睨んでいた。それから顔を上げて言った。
「——先生。その薬草、山で採れるやつはどれですか。俺が採ってきます。全部、覚えてますから」
……ほう。やはり隠しておったな、と私は思った。所作、目の配り、この年頃にない静かな計算。能ある鷹は爪を隠すというが、この鷹は雛のうちから隠しておる。だが責められまい。この時代、才を見せた寒門の子から、世はまず搾り取ることを考える。見せぬこともまた、生き抜く知恵。……そのはずなのだが。
母のためとなれば、爪は勝手に出るらしい。
面白い雛だ、と思った。
この雛が、後に。——いや、先を急ぐまい。語りには順というものがある。まずは薬草採りの日々から、話すとしよう。




