Ⅸ. 【2-5】「板戸の向こう側」
それから数日後の夕暮れだった。
家の中は妙に落ち着いていた。母は近所の集まりへ出ていて、父も長老たちとの話し合いがあると言って、まだ戻ってきていない。風だけが、縁側の向こうで木々を揺らしている。
自室でじっと膝を抱えたまま、ぼんやり障子を見つめていた。
何度も考えてしまう。水記のことを。記憶へ触れるというあの力を。もし本当にそんなものがあるのなら、自分は何を知れるのだろう。何を、見てしまうのだろう。
怖かった。
けれど、それ以上に。知らないままでいることの方が、今は耐え難かった。
気づけば立ち上がっていた。裸足のまま廊下へ出ると、古い木の床が小さく軋んだ。
父の書庫は家の奥にある。普段は滅多に入ることのない場所だった。小さい頃、一度だけ覗き込もうとして怒られた記憶がある。
『ここは遊び場じゃない』
静かな声だった。怒鳴られたわけでもないのに、なぜだか妙に怖くて、それ以来ほとんど近づかなくなった。
けれど今は、その引き戸の前で立ち止まっている。胸が少しだけ速く脈打っていた。
そっと引き戸へ手をかける。薄く開いた隙間から、ひんやりした空気が流れてきた。
部屋の中は薄暗い。棚が壁際いっぱいに並び、古びた巻物や冊子、水晶板のような記録媒体が整然と収められている。ほのかに紙と墨、それから湿った水の匂いが混ざっていた。
「……すご」
思わず小さく呟く。こんな場所が家の中にあったなんて、ちゃんと意識したこともなかった。
恐る恐る中へ足を踏み入れる。窓際には浅い水盆がいくつも並べられていた。その水面は風もないのに微かに揺れていて、夕日の光を淡く反射している。まるで部屋そのものが息をしているみたいだった。
棚へ近づき、一冊の古い本へ手を伸ばす。革表紙には見慣れない文字が刻まれていた。
『外界魔術体系分類』
ぱらりとページをめくる。そこには、見当もつかない魔法陣や術式がびっしり描かれていた。
「こんなの……見たことない」
風花ノ郷で教わる術式とは全然違う。もっと複雑で、もっと鋭い。まるで戦うために作られたみたいな魔法だった。
息を呑みながら、次々と本を手に取っていく。外界の地図。けもみみ族の移住記録。古い争いについての断片的な記述。どれも、これまでの自分の世界にはなかったものばかりだった。
すると、一冊の薄い冊子が、棚の隙間から滑り落ちた。ぱさり、と乾いた音が響く。
慌てて拾い上げると、表紙には銀色の紋章が刻まれていた。見たことのない紋章だった。けれど、不思議と目を離せなかった。
そっと開く。
そこに書かれていた文字を見た瞬間、小さく目を見開いた。
『リュミエール高等学院』
その名前だけが、妙に胸へ引っかかる。
大きな校舎の絵と、さまざまな種族の生徒たちが並ぶ姿が描かれていた。けもみみ族。翼を持つ者。角を持つ者。これまで会ったこともない人々。
息を忘れたみたいに、そのページを見つめる。
「何を見ている」
背後から、声が響いた。肩がびくりと跳ねた。反射的に冊子を胸へ抱え込み、ぎゅっと目を閉じる。
しまった。怒られる。勝手に入るなって言われる。
そう思ったのに――。
「ついにここへ来たか」
聞こえてきた声は、思っていたよりずっと静かだった。
そろそろと目を開ける。書庫の入口に父が立っていた。長羽織を肩へ掛けたまま、腕を組み、こちらを見ている。その表情に怒りはない。ただどこか、少しだけ疲れたような目をしていた。
「ごめんなさい」
思わずそう零れる。けれど父はすぐに叱ることもなく、部屋へ入ってきた。床板が軋む。
「怒らないの」
「怒ってほしかったか?」
「……そういうわけじゃ」
小さく息を吐き、抱えている冊子へ視線を向ける。
「それを見つけたか」
「……なに、これ」
尋ねる声は、自分でもわかるくらい掠れていた。しばらく黙っていたが、やがて近くの棚へ手を添え、口を開く。
「外界に存在する教育機関だ。けもみみ族を含め、様々な種族の若者が魔術や知識を学ぶ場所でもある」
「外に……こんなのがあるの?」
「ああ」
思わず冊子へ視線を落とした。描かれている景色は、自分の知っている世界とあまりにも違う。大きな建物。広い街。笑い合う見知らぬ人々。まるで別世界だった。
「……でも、外って危ないんじゃないの」
ぽつりと漏れた言葉に、目が少しだけ伏せられる。
「危険はある。人間との争いも、過去には何度もあった」
その声はどこか重かった。
「だが、外界すべてが敵というわけではない」
小さく眉を寄せた。理解できない。
あの夜、ルルは死んだ。外界の人間に殺されたんだ。全部が敵ではないなんて、そんな生ぬるい言葉で納得できるはずがなかった。
けれど――思い出すのは、刃を握っていた男の、あの奇妙な震えだ。
顔は青ざめ、『こんなつもりじゃ』と呟いていた。あれは演技だったのか。それとも本当に、自分たちと同じように恐怖していたのか。
答えは出ない。ただ、胸の中で何かがほんの少しだけ動いたのだけは確かだった。
棚から一冊の本が抜き取られ、差し出された。見慣れない魔法陣が描かれている。
「風魔術ひとつ取ってもそうだ」
「え?」
「里では風を飛ばす術として学ぶだろう。だが外では、風で音を運ぶ者も、空へ応用する者も、気流で大規模な結界を維持する者もいる」
目を瞬かせた。
――空へ、応用する。
かつて自分が風を集めて空を飛ぼうとした時、周りの大人は鼻で笑った。
ルルだって、困ったように耳を垂らしながら『もう、フィオナちゃん無茶しちゃダメだよ!』って、必死に服の裾を引っ張って止めていたっけ。
あれは、ただの馬鹿げた無茶なんかじゃなかった。扱い方さえ知れば、外の世界には確かに存在する『方法』だったのだ。
答え合わせをしてくれるルルはもういないのに、妙に冷めた納得だけが、静かに胸へ落ちていく。
窓際の水盆へ視線が向く。
「水記も同じだ」
声が、書庫の空気へ溶けていく。
「記憶を書き換えるためだけの業ではない。感情を読み取る者もいれば、過去の残滓を辿る者もいる。水は流れ、巡り、様々なものを映し続けるからな」
無意識に息を呑んでいた。知らなかった。何も。自分が知っていた魔法なんて、本当にほんの一部だったのだ。
「……それで」
低い声だった。
「お前は何を知りたい」
その問いに、すぐ答えられなかった。ルルを忘れたくない。あの夜の真実を知りたい。強くなりたい。それらが全部、言葉にならないまま喉の奥で詰まっていた。
しばらく黙ったあと、小さく唇を噛み締める。
「……私は」
声が震える。それでも、目だけは逸らさなかった。
「もう、何も知らないままでいたくない」




