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Ⅷ. 【2-4】「燻る熱」

 一週間ほど経った頃、ふと気づいた。

 夢を見なくなっていた。

 いや、正確には違う。毎晩あの森に立っていたはずなのに、気づけばその輪郭が霧をかぶったみたいに薄れていた。血の匂いも、月明かりも、どこか遠くなっていく。


 最初は少し、ほっとした。


 でも次の瞬間、全身がすっと冷えた。

「……あれ」

 小さく漏れた声が、部屋へ落ちる。

 ルルの笑い方が、思い出せなかった。

 笑っていたことは覚えている。困ったように目を細める癖も覚えている。でも、その細かな表情だけが、指の隙間から零れ落ちる水みたいに掴めない。

「ルル」

 名前を呼び、目を閉じ、必死に思い出そうとする。

 丘の上で笑っていた顔。お風呂で恥ずかしそうに耳を隠していた姿。布団の中でこっそり話した夜のこと。


 声はまだ聞こえる。なのに、少しずつ遠くなっていく。


 髪飾りを強く抱き締めた。

 忘れたくない。苦しくてもいい。痛くてもいい。あの夜を思い出すたび泣きそうになっても、それでも。ルルだけは、失くしたくなかった。

 もし声も笑い方も、いつか消えてしまったら――それはきっと、本当に一人になってしまうということだった。

 風が吹き、障子がかすかに揺れる。俯いたまま、震える息を吐いた。


 ふと、父の声が脳裏をよぎった。


『記憶を書き換えた』


 あの日、丘の上で聞いた言葉。あまりにも現実離れしていて、その時は怒りしか残らなかった。けれど今になって、その言葉だけが妙に引っかかる。

 記憶を書き換える。そんなことが、本当にできるのだろうか。


 顔を上げた。もし本当に、記憶へ触れることができるのなら。消えていくものを、繋ぎ止められるのだろうか。ルルの声、笑顔。そして、あの時間を。


 熱が、どこか深いところで灯る。怒りとも悲しみとも少し違う。もっと静かで、けれど確かなものだった。

 そっと髪飾りを握り締める。冷たい銀細工は、何も答えてくれない。それでも今は、それだけが確かにルルと繋がっている気がした。


* * *


 その日から、水記(すいき)のことを調べ始めた。

 水記。家系に代々伝わる力。小さい頃、父が一度だけ話してくれたことがあった。

『水はな、流れて消えるだけじゃない。見たものも、触れた感情も、静かに抱え込んでいくんだ』

 当時は難しくて、途中から飽きてしまった記憶がある。けれど今なら、少しだけわかる気がした。

 水は残る。記憶を映す。だからこそ、水記は"人の心へ触れる(わざ)"なのだと。


 部屋の隅の小さな水盆へ視線を向けた。透き通った水面には、障子越しの朝日が淡く滲んでいる。しばらく見つめていると、不思議なくらい静かだった。まるで何かを待っているみたいに。

 そっと近づき、指先を水へ浸した。冷たい。微かな波紋が広がる。それだけだった――当然だ、急に何か起きるわけがない。

 けれど指先から伝わる冷たさを感じているうちに、何かが息づいた。

 もし本当に、記憶へ触れられるなら。消えかけたものを留められるなら。ルルを、忘れずに済むのだろうか。


 その瞬間、水面へぽたりと雫が落ちた。自分でも気づかないうちに、涙が零れていた。

 広がった波紋が、揺れる景色を歪めていく。水底に沈むきらめきのように、銀色の髪が脳裏をよぎる。優しく笑う声。温かな手。それらを失いたくないという感情だけが、喉を締めつけた。


「……知りたい」

 ルルを忘れたくない。どうしてあんなことになったのか知りたい――そして何より、知らされていないものの全てを、知りたかった。

 里の大人たちは、何かを隠している。あの日からずっと、そう感じていた。人間を恐れる理由、外界を拒む理由、水記という力の本当の意味。誰も話してくれない。

 けれど知らないままでは、前へ進める気がしなかった。


 拳を握る。指先から水滴が零れ落ち、畳へ小さな染みを作った。

 守れなかった。何もできなかった。その事実は今も胸を焼いている。でも、だからこそ。もう二度と、何も知らないままではいたくなかった。

 風が吹き、水面が揺れる。その淡い波紋を見つめながら、目を細めた。


 燻っていた火は、いつの間にか、消えない熱へ変わり始めていた。

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