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Ⅶ. 【2-3】「消えゆく笑顔」

――気づけば、あの森の中に立っていた。

 夜だった。湿った土の匂いと、冷たい風。木々の隙間から差し込む月明かりが、白く地面を照らしている。


 どこかで誰かの呼吸が聞こえる。荒く、震えた呼吸。

 息を呑み、ゆっくり振り返った。

 そこにいたのは、ルルだった。

 銀色の髪が風に揺れている。いつものように少し困った顔をしていて、けれどその瞳だけが、ひどく怯えていた。

『フィオナちゃん……』

 その声を聞いた瞬間、息が詰まる。


 行かなきゃ。そう思うのに、身体が動かない。足元が沈んでいる。黒い水みたいな何かが、両脚へ絡みついていた。


『待って……!』

 伸ばした指先は届かない。その向こうで、誰かの影が動いた。月光を反射する刃、赤い飛沫、ルルの身体が揺れる。


 世界から音が消えた。

『あ……』


喉が震える。叫びたいのに声が出ない。



ルルが倒れる。ゆっくりと。まるで時間だけが壊れてしまったみたいに、嫌にゆっくり。銀色の髪が地面へ広がる。赤が滲む。その光景だけが、目に焼き付いて離れない。


『……よかった……無事、だね……』

優しい声だった。いつもみたいに。いつもみたいに笑っていた。


「やめて……」


違う。そんな顔で笑わないで。どうして最後まで、自分のことなんか。

「やめてぇッ!!」


 悲鳴と同時に、勢いよく飛び起きた。

 荒い呼吸が喉を焼く。心臓が痛いくらい脈打っていた。障子の外はまだ暗い。夜だった。けれど身体だけが、悪夢の続きみたいに震えている。


「……はぁ……っ」

 呼吸がうまくできない。指先が冷たく、気づけば寝間着がじっとり汗で張り付いていた。震える手で顔を覆う。瞼の裏にはまだ、あの光景が焼き付いていた。


「いやだ……」

 掠れた声が漏れる。悔しくて、怖くて、苦しくてたまらなかった。でも、それ以上に。何もできなかった自分が、どうしようもなく嫌だった。


 拳を握る。爪が掌へ食い込む。痛みが走った。それくらいでちょうどよかった。

 窓の外では風が吹いている。あの日と同じ夜風。

 膝を抱え込んだまま、じっと夜が明けるのを待った。


 ふと気づくと、廊下の向こうに細い明かりが漏れていた。

 こんな夜更けに。

 いつのまにか身体が動いていた。ただ立ち上がる気力もないまま、廊下を滑るように進んでいく。

 書庫の前まで来ると、引き戸の隙間から、橙色の光が細く差し込んでいた。父の声だった。

「――例の人間たちの処置ですが」

 独り言にしては、はっきりしすぎている。そっと隙間へ目を寄せると、書庫の中には父一人だけが座っていた。


 机の上に置かれた魔晶石が、淡く青白く光っている。その光の中から、声が届いた。どこか遠くから、水の底を通り抜けてくるみたいな響きで。


「ああ。国へ返したあと、定期的な監視も含めて問題は起きていない」

 その声はゼノスだった。


 聞き慣れた声のはずなのに、石を介して届くその響きは、授業や寺子屋のそれとは全く違う。ひどく冷徹で、感情を削ぎ落としたみたいだった。

「記憶の定着も完全だ。あいつらは今も、自分の手で同族の子供を殺したという悪夢に縛られている。一生、あの森へ近付く羽目にはなるまい」

「……そうか」


 引き戸へ額が触れた。


 あいつらは今も。自分の手で。同族の子供を。


 人間たちは、ルルを殺したことを覚えていない。覚えていないどころか、別の誰かを――自分たちの子供を殺したと思い込まされている。

 ルルはあの夜、確かに死んだ。あの血の色も、冷たくなっていく体温も、全部本物だった。なのに殺した側は、別の誰かを殺した夢を見せられて、それだけで終わりなのか。


 喉の奥が、ひりついた。


 泣きたいのか、叫びたいのか、自分でもわからなかった。ただ引き戸一枚の向こうで、何事もなかったみたいに続く声だけが、耳の奥へ貼り付いていく。

「……一つ、聞いてもいいですか」

 父の声だった。

「何だ」

 魔晶石の光が、わずかに揺れる。

「フィオナのことです。最近、里と森の境界線へ足を運んでいるようで」

 少しの間があった。

「知っている」

「止めるべきか、と……」

「止めても無駄だろう」

 石の向こうのゼノスの声は、静かだった。

「あの子の目を見ればわかる。もう、ただ悲しんでいるだけの目じゃない」

「……はい」

「それが良いことかどうかは、まだわからん。だが」

 不意に、強い夜風が引き戸をガタガタと揺らした。続くゼノスの声が、風の音に掻き消される。

「――ただし、全てではない。今のあの子に全てを渡せば、飲み込まれる」

「……わかりました」


 明かりが揺れた。こっちに来る。

 気付いた瞬間、足が動いていた。音を立てないまま部屋へ戻り、布団へ潜り込む。心臓だけが、やけにうるさかった。

 廊下に、静かな足音が近づき、止まる。


 息を止めた。布団の中で、身体が石のように強張る。

 隙間から覗き込まれているような、ひどく長い沈黙。

 やがて、足音が遠ざかっていった。書庫の戸が閉まり、ようやく明かりが消えた。

 闇の中で、天井を見上げる。


 風にかき消された言葉が、頭の端に引っかかっていた。

――全てではない。

 全て、って何だろう。

 答えは出ない。出ないまま、ただ暗闇の中に転がっている。


 そのうちに、別のことに気づいた。

 ルルの笑い方が、思い出せなくなっている。

 眠れたのか、眠れなかったのか、もうわからなかった。


* * *


 薄青く染まり始めた空を、ぼんやりと窓越しに眺める。木々が揺れる音だけが、部屋の中へゆっくり流れ込んできた。


 瞼を閉じれば、また思い出してしまう。あの夜。震える声。冷たくなっていく身体。本当は忘れてしまいたかった。思い出すたび胸が裂けそうになるし、呼吸もうまくできなくなる。


 なのに、忘れたくなかった。


 ぎゅっと服を掴んだ。苦しいのに。怖いのに。それでも、ルルだけは。

「……やだ」

 小さく漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。


 震える息を吐きながら、そっと枕元へ手を伸ばす。そこには、小さな髪飾りが置かれていた。白い花を模した、銀細工の飾り。ルルがよく身につけていたものだった。あの夜、最後に見つかったもの。

 壊れ物を扱うみたいに、それを両手で包み込む。冷たい。でも、確かにここにある。

「……ルル」


 名前を呼ぶ。返事はない。もう二度と返ってこないことくらい、わかっている。それでも呼ばずにはいられなかった。


 脳裏に浮かぶのは、笑っているルルばかりだった。朝、眠そうに目を擦っていた顔。困ったみたいに耳を垂らして笑う癖。

『フィオナちゃんって、ほんと考えすぎ』

 唇を噛み締めた。今はまだ、声が聞こえる。顔も思い出せる。

 でも――いつまで、覚えていられるのだろう。

 その問いが不意に浮かんで、髪飾りを優しく握り締めた。


 風が吹く。その一瞬だけ、隣で誰かが笑った気がした。

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