Ⅵ. 【2-2】「いつもの木の匂い」
数日が過ぎた。
けれど、時間だけはあの夜から動いていないようだった。
朝になれば起きて、寺子屋へ向かう。授業を受けて、家へ帰る。
やっていることは今までと何も変わらない。
けれど、その全部がひどく遠かった。
寺子屋へ入ると、いつもの木の匂いがする。
窓から吹き込む風が札を揺らし、誰かの髪をさらりと撫でていく。
以前なら、その風に乗って笑い声が飛び交っていた。
誰かが悪ふざけをして、ルルが困ったように笑って、調子に乗って怒られる。
そんな当たり前の光景が、もう随分昔のことみたいに感じる。
「……フィオナちゃん」
小さな声に顔を上げると、近くの席の子が気まずそうに視線を逸らした。
「その……大丈夫?」
「……別に」
短く返す。それ以上、会話は続かなかった。相手も困ったように黙り込み、そのまま離れていく。責められているわけじゃない。避けられているわけでもない。ただ皆、どう接していいかわからないのだろう。
やがて、ゼノスが前へ出た。いつも通りの授業を始める。
「今日は風術式の基礎制御を――」
その声を聞いた瞬間、息が止まった。
風。
あの子を風へ還したはずのその声が、今は酷く冷たく、無機質なものに聞こえた。何事もなかったかのように、その風の扱い方を説いている。耳を塞ぎたかった。
教科書をめくる音が、妙に大きく響く。視界の端で、誰かの札が淡く光り始めた。
目を閉じると浮かび上がってくる。
丘の上で笑っていた顔。花弁の中で細められた目。最後に触れた、あの冷たくなっていく手のひら。
喉の奥が引きつり、吐き気が込み上げていた。俯いたまま、机の上の拳をぎゅっと握り締める。
授業は進む。何事もなかったみたいに。
「……なんで」
気づけば、小さく声が漏れていた。
「え?」
隣の子が振り返る。はっとして口を閉ざした。
誰かに聞かせたかったわけじゃない。ただ、胸の奥の澱が抑えきれなかった。
なんで、皆そんな普通でいられるの。
ルルが死んだのに。あんな風に、突然いなくなったのに。
ゼノスは授業を続けている。子どもたちも、術式を書き写している。
窓の外では風が揺れていた。
空は今日も、なにくわぬ顔で青い。
世界だけが先へ進んでいく。自分だけを、置き去りにしたまま。
帰り道も、以前とは違っていた。
前までは誰かしらが隣を歩いていたのに、最近は少し離れたところで話し声が聞こえるだけになっている。誰かと喋りたいとは思えなかった。けれど完全に一人になると、それはそれで胸の中がひどく空っぽになる。
不意に、風が来た。
思わず隣を見そうになって、足を止めた。
もうそこにルルはいない。
その事実を、日常のあらゆる瞬間が何度も突きつけてくる。
里の通りを歩いていると、井戸端で話していた大人たちの声がふと耳に入った。
「……見張りは増やした方がいい」
「結界も少し不安定になってるらしい」
「また人間が来たら――」
そこで一人がこちらの姿に気づき、ぴたりと口を閉ざした。
「あ……フィオナちゃん」
気まずそうな笑み。
まただ。
皆、自分の前でだけ話を止める。何も言わず、そのまま歩き出した。背後で小さく声が聞こえる。
「まだあの子には……」
「仕方ないだろ」
最後までは聞こえなかった。聞こえなかったのに、耳の奥には嫌に残った。
どうして隠すの。
歩きながら、ぎゅっと拳を握る。人間のこと。あの夜のこと。何かを知っているはずなのに、大人たちは誰もちゃんと話そうとしない。
* * *
その頃からだった。
寺子屋の帰りにまっすぐ家へ戻らなくなったのは。
人気の少ない細道を歩き、里の外れ近くまで行っては、結界の張られている境界を遠くから眺める。迷いの森の奥では、今日も風が木々を揺らしていた。
何も見えない。それでもそこに立ち続ける。
あの夜、人間たちはこの森を越えてきた。何を思って。何を見て、どうしてあんな顔をしていたのか。考えても答えは出ない。けれど、考えずにはいられなかった。
「また来てるのか」
不意に後ろから声がした。振り返ると、見張り役の青年が立っていた。
里の者の中ではまだ若い方で、以前は気さくに話しかけてくれていた人だった。
今はどこか困ったように眉を下げている。
「危ないぞ。あまり境界には近づくなって言われてるだろ」
「……別に越えようとしてないし」
「そういう問題じゃない」
青年は小さく息を吐き、結界の向こうへ視線を向けた。
「最近また外の気配が増えてる。長老たちも警戒してるんだ」
「外の気配って?」
「それは――」
言いかけて、青年は口を閉ざした。その反応を見逃さなかった。
まただ。
皆そうだ。何かを知っているくせに肝心なところだけを濁す、大人はいつもそうだ、教えてくれないくせに心配そうな顔だけはして、それで守ってるつもりでいる。
「……なんで教えてくれないの」
「フィオナ」
「子どもだから?」
自分でも驚くくらい冷たい声が出た。青年は言葉に詰まったように目を伏せる。
「そうじゃない。ただ、お前はまだ――」
「まだ何?」
木々がざわめく。結界の光が淡く揺れ、その向こう側には、知らない世界がどこまでも広がっている。
青年はしばらく黙ったあと、小さく首を振った。
「……帰れ。もう遅い」
結局、それだけだった。何も返さず、その場を離れる。結界の向こうでは、木々だけが変わらず揺れていた。
家へ戻っても、ざわめきは消えなかった。夕食を済ませ、部屋へ引き取っても、身体だけが布団の中にあって、頭はずっとあの森の入口に残っているみたいだった。
目を閉じると出てくる。月明かり。血の匂い。震える呼吸。最後に触れた、冷たい指先。
眠れないまま窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。遠くで見張りの灯りが揺れている。あれ以来、里の警備は目に見えて増えていた。境界には常に誰かが立ち、夜でも巡回の足音が聞こえる。
なのに。
どうして、あいつらを生かしたの。
その疑問だけは、時間が経つほど消えなくなっていた。窓枠へ額を預ける。夜風が髪を揺らした。
「……許さない」
呟いた声は、夜風に溶けてしまいそうなほど微かだった。
やがて疲れが勝って、そっと窓を閉じた。布団へ潜り込んでも、まだ燻っていた。




