表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/17

Ⅵ. 【2-2】「いつもの木の匂い」

 数日が過ぎた。

 けれど、時間だけはあの夜から動いていないようだった。


 朝になれば起きて、寺子屋へ向かう。授業を受けて、家へ帰る。


 やっていることは今までと何も変わらない。

 けれど、その全部がひどく遠かった。


 寺子屋へ入ると、いつもの木の匂いがする。

 窓から吹き込む風が札を揺らし、誰かの髪をさらりと撫でていく。


 以前なら、その風に乗って笑い声が飛び交っていた。

 誰かが悪ふざけをして、ルルが困ったように笑って、調子に乗って怒られる。


 そんな当たり前の光景が、もう随分昔のことみたいに感じる。


「……フィオナちゃん」

 小さな声に顔を上げると、近くの席の子が気まずそうに視線を逸らした。

「その……大丈夫?」

「……別に」


 短く返す。それ以上、会話は続かなかった。相手も困ったように黙り込み、そのまま離れていく。責められているわけじゃない。避けられているわけでもない。ただ皆、どう接していいかわからないのだろう。


 やがて、ゼノスが前へ出た。いつも通りの授業を始める。

「今日は風術式の基礎制御を――」


 その声を聞いた瞬間、息が止まった。

 風。


 あの子を風へ還したはずのその声が、今は酷く冷たく、無機質なものに聞こえた。何事もなかったかのように、その風の扱い方を説いている。耳を塞ぎたかった。

 教科書をめくる音が、妙に大きく響く。視界の端で、誰かの札が淡く光り始めた。


 目を閉じると浮かび上がってくる。

 丘の上で笑っていた顔。花弁の中で細められた目。最後に触れた、あの冷たくなっていく手のひら。


 喉の奥が引きつり、吐き気が込み上げていた。俯いたまま、机の上の拳をぎゅっと握り締める。

 授業は進む。何事もなかったみたいに。

「……なんで」

 気づけば、小さく声が漏れていた。

「え?」

 隣の子が振り返る。はっとして口を閉ざした。

 誰かに聞かせたかったわけじゃない。ただ、胸の奥の澱が抑えきれなかった。

 なんで、皆そんな普通でいられるの。


 ルルが死んだのに。あんな風に、突然いなくなったのに。

 ゼノスは授業を続けている。子どもたちも、術式を書き写している。

 窓の外では風が揺れていた。

 空は今日も、なにくわぬ顔で青い。


 世界だけが先へ進んでいく。自分だけを、置き去りにしたまま。




 帰り道も、以前とは違っていた。

 前までは誰かしらが隣を歩いていたのに、最近は少し離れたところで話し声が聞こえるだけになっている。誰かと喋りたいとは思えなかった。けれど完全に一人になると、それはそれで胸の中がひどく空っぽになる。


 不意に、風が来た。


 思わず隣を見そうになって、足を止めた。

 もうそこにルルはいない。

 その事実を、日常のあらゆる瞬間が何度も突きつけてくる。


 里の通りを歩いていると、井戸端で話していた大人たちの声がふと耳に入った。

「……見張りは増やした方がいい」

「結界も少し不安定になってるらしい」

「また人間が来たら――」

 そこで一人がこちらの姿に気づき、ぴたりと口を閉ざした。

「あ……フィオナちゃん」

 気まずそうな笑み。


 まただ。


 皆、自分の前でだけ話を止める。何も言わず、そのまま歩き出した。背後で小さく声が聞こえる。

「まだあの子には……」

「仕方ないだろ」

 最後までは聞こえなかった。聞こえなかったのに、耳の奥には嫌に残った。


 どうして隠すの。


 歩きながら、ぎゅっと拳を握る。人間のこと。あの夜のこと。何かを知っているはずなのに、大人たちは誰もちゃんと話そうとしない。


* * *


 その頃からだった。

 寺子屋の帰りにまっすぐ家へ戻らなくなったのは。


 人気の少ない細道を歩き、里の外れ近くまで行っては、結界の張られている境界を遠くから眺める。迷いの森の奥では、今日も風が木々を揺らしていた。


 何も見えない。それでもそこに立ち続ける。


 あの夜、人間たちはこの森を越えてきた。何を思って。何を見て、どうしてあんな顔をしていたのか。考えても答えは出ない。けれど、考えずにはいられなかった。


「また来てるのか」


 不意に後ろから声がした。振り返ると、見張り役の青年が立っていた。

 里の者の中ではまだ若い方で、以前は気さくに話しかけてくれていた人だった。

 今はどこか困ったように眉を下げている。


「危ないぞ。あまり境界には近づくなって言われてるだろ」

「……別に越えようとしてないし」

「そういう問題じゃない」


 青年は小さく息を吐き、結界の向こうへ視線を向けた。

「最近また外の気配が増えてる。長老たちも警戒してるんだ」

「外の気配って?」

「それは――」


 言いかけて、青年は口を閉ざした。その反応を見逃さなかった。


 まただ。


 皆そうだ。何かを知っているくせに肝心なところだけを濁す、大人はいつもそうだ、教えてくれないくせに心配そうな顔だけはして、それで守ってるつもりでいる。


「……なんで教えてくれないの」

「フィオナ」

「子どもだから?」

 自分でも驚くくらい冷たい声が出た。青年は言葉に詰まったように目を伏せる。

「そうじゃない。ただ、お前はまだ――」

「まだ何?」


 木々がざわめく。結界の光が淡く揺れ、その向こう側には、知らない世界がどこまでも広がっている。

 青年はしばらく黙ったあと、小さく首を振った。

「……帰れ。もう遅い」


 結局、それだけだった。何も返さず、その場を離れる。結界の向こうでは、木々だけが変わらず揺れていた。

 家へ戻っても、ざわめきは消えなかった。夕食を済ませ、部屋へ引き取っても、身体だけが布団の中にあって、頭はずっとあの森の入口に残っているみたいだった。

 目を閉じると出てくる。月明かり。血の匂い。震える呼吸。最後に触れた、冷たい指先。


 眠れないまま窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。遠くで見張りの灯りが揺れている。あれ以来、里の警備は目に見えて増えていた。境界には常に誰かが立ち、夜でも巡回の足音が聞こえる。


 なのに。


 どうして、あいつらを生かしたの。


 その疑問だけは、時間が経つほど消えなくなっていた。窓枠へ額を預ける。夜風が髪を揺らした。

「……許さない」


 呟いた声は、夜風に溶けてしまいそうなほど微かだった。

 やがて疲れが勝って、そっと窓を閉じた。布団へ潜り込んでも、まだ燻っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ