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Ⅴ. 【2-1】「残された風」

 血で染まった手を、誰かが拭いていた。

 冷たい布の感触だけが、妙にはっきりしていた。周囲の声は遠く、足元の感覚もない。誰に抱えられているのかもわからないまま、ただ運ばれていく。


 気付けば、障子越しの朝日が畳へ淡く滲んでいた。

 頭が重い。身体もだるい。昨夜のことが夢だったみたいに、意識がうまく現実へ追いついてこない。

「……ルル」

 掠れた声が、無意識に零れる。

「朝だよ」


 そこでようやく、隣へ伸ばしかけた手が止まる。視線だけをゆっくり横へ向けた。

 布団がある。昨夜、確かにルルが眠っていた場所。けれど今は、綺麗に畳まれているだけだった。

「あ……」


 喉が引きつり、血の匂いが蘇る。

 抱きかかえた身体は、信じられないほど軽かった。なのに少しずつ熱だけが消えていって、冷たくなった指先が、まだ掌へ残っている気がした。


『……よかった……無事、だね……』


「……っ」

 勢いよく布団を掴み、そのまま顔を押し付ける。まだ少しだけ、匂いが残っている気がした。

 息を吸おうとしても、うまく入ってこない。声を押し殺したはずなのに、布団へ落ちた雫だけが止まらなかった。


* * *


 居間へ下りると、母が朝食を並べているところだった。


「……起きたのね」

 いつも通りの声だった。けれど、笑おうとしているのに、うまく笑えていない。父もそこにいたが、湯呑みへ視線を落としたまま、ほとんど何も喋らなかった。

 味噌汁の湯気だけが、やけにゆっくり揺れて見える。

 席へ座ったものの、食欲なんてまるでなかった。ぼんやり汁椀を見つめていると、母が口を開く。

「……無理に食べなくてもいいからね」


 その言い方が、余計に苦しかった。

「ルルの、おばさんは……?」


 空気が止まる。父の指先がぴくりと動いた。母は少しだけ言葉を探すように視線を落とし、それから答える。

「……今は、家族だけで過ごさせてあげてるの」

「そっか……」


 それ以上、何も聞けなかった。父は最後までほとんど口を開かなかった。その沈黙が、今は妙に冷たく感じた。


* * *


 昼前には家を出ていた。じっとしていられなかった。

 風が吹き、花弁が舞っている。昨日と何も変わらない景色なのに、世界だけが妙によそよそしく見えた。

 気付けば足は、ルルの家へ向かっていた。

 見慣れた木造の家。何度も遊びに来た場所。昨日だって、一緒に笑っていたのに。


 玄関の前まで来たところで、足が止まる。中から、小さく泣き声が聞こえた。

 帰った方がいい気がした。そう思うのに、足が動かない。

 しばらく立ち尽くしていると、引き戸が開いた。

 出てきたのは、目元の赤いルルのおばさんだった。


 こちらを見ると、無理に優しい微笑みを作ろうとしてくれた。

「あら……フィオナちゃん、来てくれたのね」

「……っ」


 何か言おうとして、声が出なかった。

「大丈夫よ」


 その優しさが、ひどく痛かった。


「昨日、最後まで一緒にいてくれたんでしょう?」

 違う。違う、違う。守れなかった。一緒に行かなければよかった。自分が外へ行こうなんて言わなければ。後悔ばかりが胸の中をぐるぐる回る。俯いたまま、ぎゅっと拳を握り締めた。

 すう、と開いた引き戸の隙間を、冷たい風が吹き抜けていく。


 家の奥から、チリン……と聞き慣れた小さな鈴の音が鳴った。


 ルルがいつも髪につけていた飾りだった。

 唇を噛んだ。何かを堪えるみたいに、ぎゅっと。


* * *


 別れの儀は、その日の夕暮れに行われた。

 風花ノ郷の外れ――白い花が一面に咲く、小さな丘の上。


 空は茜色に染まり始めていて、風が吹くたび、舞い上がった花弁が空の向こうへゆっくり流れていく。

 丘の中央には、水を張った浅い石台が置かれていて、その上でルルは横たわっていた。


 綺麗に整えられた銀色の髪。胸元へ重ねられた手。頬へ落ちた花弁が、一枚。


 まるで少し疲れて眠っているだけみたいで、昨日まで隣で笑っていた少女が、もう二度と目を開けないなんて、どうしても信じられなかった。


 里の者たちは誰も声を上げない。ただ風の音だけが、ゆっくりと丘を撫でていく。


 やがてゼノスが前へ出た。

 老いた手が、水面へそっと触れる。

 淡い光が広がり、水面が静かに揺れた。舞い散る周囲の花弁が、ふわりと宙へ浮かび上がっていく。

「命は風へ還り、水へ還る」

 穏やかな声が、風の音に溶けていく。光がルルを包み込み、その横顔は、まるで痛みなんて最初からなかったみたいに穏やかだった。

 またくだらない話をして、一緒に丘へ来て――隣で笑っているはずだったのに。

「……どうして」


 小さく漏れた声は、誰にも届かなかった。

 光は次第に薄れていき、最後には花弁だけが空へ舞い上がる。


 全部、終わってしまった。


* * *


 儀式が終わったあとも、しばらく丘に残っていた。

 里の者たちが帰っていく気配が、少しずつ遠のいていく。やがて背後から、ゆっくりとした足音が近づいてきた。

「フィオナ」


 父だった。数歩後ろで立ち止まる気配がする。振り返らないまま、小さく口を開く。

「あいつらは……人間たちは、どうなったの」

 少しの沈黙。

「……処置は済んだ」

「処置?」

「記憶を書き換えた。ここで起きたことは、もう覚えていない」


 風が吹き、丘の草が波のように揺れた。

 ゆっくりと振り返る。


 数歩の距離に立つ父の顔が、夕暮れの光の中で妙に老けて見えた。


「……それだけ?」

 父は黙っている。

「ルルが死んだんだよ……なのに、生かしたの?」

「殺せば終わる話ではない」

父の声は低く、抑えられていた。

「調査隊が戻らなければ、人間の国は必ず異変に気づく。そうなれば、更に多くの者がこの里へ来ることになる。里を守るためには――」

「里のためなら、許せって言うの!?」

「違う」

「違わない!」

 声が激しく震える。涙がまた、視界を滲ませていく。

「ルルは殺されたんだよ……!?なんでそんなに冷静でいられるの……! お父さんだって、ルルのこと可愛がってたじゃない!」


 父は、何も言わなかった。

 ただ――その手が、脇で静かに握り締められていくのが見えた。指の先が白くなるほど、きつく。


「……もういい」

 引きちぎれそうなほど唇を噛み締めた。


「大人なんか、嫌い」


 そう言い残し、激しく踵を返す。父は引き止めなかった。


* * *


 それから少しずつ、フィオナは変わっていった。


 笑わなくなった。あの丘へも、二度と行かなくなった。

 人間という言葉を耳にするだけで、胸の奥を焼けるような痛みが走る。


 夜になると、決まって同じ夢を見る。

 赤。銀色の髪。届かなかったあの瞬間の、自分の震える手。


 風は今日も、変わらず里を吹き抜けていた。

 その冷たい風の中で、ただ、どこか遠くを見つめていた。

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