Ⅳ. 【1-4】「紅く散る花」
胸の奥が、ずっとざわついている。外で鳴く虫の声が、妙に鼓膜を刺す。
結局、フィオナは吸い寄せられるように布団を抜け出し、廊下へと出た。縁側へ腰を下ろせば、冷たい夜気が肌を撫でる。
庭の向こう、木々の隙間に、ふっと異質な影が動いた。
「え?」
月明かりの奥、そこには確かに人影のようなものが立っていた。それは音もなく、深い暗がりへと溶けるように消えていく。
怖いというより、胸を焼くのは好奇心だった。あれが、人間なのか。昼間から頭の中を埋め尽くしていた疑問が、また熱を帯び始める。
「ちょっとだけ。見るだけだから」
誰に言い訳するでもなく、足音を忍ばせて庭へ降りた。
ふっと鼻先で風の向きが変わった。白い花弁が月光の中をゆっくりと流れていく。それを目で追うようにして、人影の消えた方へと駆け出した。
* * *
「……フィオナちゃん?」
掠れた声が、静まり返った寝室に落ちる。微かな衣擦れの音さえ聞こえない静寂の中で、ルルは無意識に隣へ手を伸ばし――そこが空いていることに気づく。
「あれ」
ガバッと身体を起こす。ついさっきまでそこにいたはずの温もりは、まだ微かに残っている。けれど、その温もりこそが、彼女が今しがた「ここではないどこか」へ行ってしまった事実を突きつけていた。
障子の向こうで、ヒュゥと風が鳴いた。
(嫌だ。嫌な予感がする)
腹の底が、氷を飲み込んだようにひゅっと冷える。
ルルは震える足で布団を蹴り出し、障子を乱暴に引き開けた。縁側の先には、夜気に冷えた庭が広がっている。
青白い月光に照らされた庭の端を、ふわりと跳ねるように駆けていく後ろ姿が見えた。
「っ、フィオナちゃん……!」
小さく息を呑む。頭の中で、寝る前の会話が蘇った。
『外、行かないでね』
『大丈夫だって』
(全然、大丈夫じゃない……!)
ルルは夜着のまま、半ば転びそうになりながら庭先へと身を躍らせた。不揃いな飛び石に足を取られそうになりながらも、なりふり構わず地を蹴る。素足を刺す夜露の冷たさも、今は構っていられなかった。ただ心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳の奥で響いていた。
* * *
森の奥は、夜になると昼間とは別の場所みたいだった。風が木々を揺らし、枝葉の隙間から月明かりがまだらに落ちている。木の陰へ身を隠しながら、そっと前方を覗き込んだ。
いた。
数人の人影。里の外れ近く、結界のそばに集まっている。声はほとんど聞こえない。ただぼそぼそとした低いやりとりが、夜気の中へ溶けるように漏れてくるだけだった。小さな灯りの下で、一人が筆を走らせ、もう一人が周囲を確かめながら指差している。
――本当に、人間だ。
もっと恐ろしくて、凶暴な存在だと思っていた。けれど目の前にいるのは、まるで職人のように黙々と作業をこなしている人たちだった。怒っているわけでも、暴れているわけでもない。
でも。目が慣れてくると、彼らの腰に下がった短剣が月明かりに鈍く光っているのが見えた。抜いてはいない。ただそこにある、という様子だった。それでも、足の先がわずかに固まった。
前方の人影から目が離せない。息を殺したまま、木の陰に張り付くようにして身を縮める。
背後の草が、かすかに揺れた。
足音はない。ただ、夜露を踏む微かな重みだけが、少しずつ近づいてくる。
「……フィオナちゃん」
すぐ後ろから、小さな声が響いた。
「ひゃっ!?」
飛び上がりそうになりながら振り返る。そこには息を切らしたルルが立っていた。
「ル、ルル!? なんで来たの!」
「それこっちの台詞だよぉ……!」
ルルは肩で息をしながら、涙目でこちらを睨む。急いで走ってきたのか、銀色の髪が少し乱れている。
「急にいなくなるんだもん……!」
「しーっ!」
慌てて口元へ指を立てると、ルルはびくりと肩を震わせ、小さく口を閉じた。前方の人影はまだ気づいていない。胸の内でほっとしながら、ルルの腕を引いて木の陰へ引き寄せた。
「見て」と囁く。「悪い人たちじゃないと思う。ただ調べてるだけで――」
ぱきり。
乾いた枝の折れる音が、夜の森へ響いた。一瞬、全ての音が消えた。
前方の人影が、ぴたりと動きを止める。それから一斉に、こちらへ振り向いた。
「――誰だ!」
鋭い声。
無意識だったのかもしれない。声を上げた男の手が、腰の短剣へ滑っていた。ゆっくりではなく、反射のように。その動きは訓練された体の記憶で、抜くつもりがあったかどうかも分からないくらい、ただ速かった。
月光の下で、刃が銀色に光る。ルルは、その光を見た。
ルルの身体が、びくりと震えた。
「っ……!」
それだけだった。守らなきゃ、という純粋な想いだけが、ルルの華奢な身体を弾かれたように動かした。
ぶわり、と魔力が吹き荒れた。光が夜闇を裂く。ルルの身体から溢れ出たそれは風でも炎でもなく、もっと根本的な何かで――「守る」という感情がそのまま形になったみたいだった。
次の瞬間、閃光が弾けた。
白く焼けつくような光が、森全体を一瞬で塗り潰す。
「なっ――!? 何も見えない……!」
「っ、どこだ……!!」
夜闇に慣れていた目を完全に潰され、よろめいた一人の手が、誤って結界の魔晶石へ触れた。
ばちんっ、と激しい火花が散る。
「ぐぁっ!? あ、熱いっ……!!」
男が腕を押さえて悲鳴を上げる。焦げた匂い。視界の喪失と突然の激痛に、人間たちの恐怖は一気に限界を超えた。「来るな!」と誰かが狂ったように叫び、盲目のまま、がむしゃらに短剣を振り回し始める。
激情のままに突き進むルルの背中へ、フィオナは必死に手を伸ばした。
「ルル、待っ――」
制止は届かない。
閃光の残滓が瞼を焼く中で、それでも見えた――
迫る刃の光と、自分を突き飛ばすように割り込んできた、見慣れた銀色の髪。
視界が激しく揺れた。
鈍い、肉を断つ音がした。
「……あ、」
不意に、世界から音が消えた。ルルの銀糸の髪が、月明かりの中で嫌になるほど鮮やかな赤に染まっていく。
駆け寄り、その身体を抱き寄せた時、手に触れたのはさっきまでの温もりとは違う熱だった。命が外へこぼれ出していく、生々しくて粘り気のある血の熱さ。それがじわじわと、正気を焼き切っていく。
「ルル……? 嘘でしょ、ねえ……!」
必死に呼びかける腕の中で、ルルがゆっくりと、微かな震えとともに瞼を持ち上げた。視界はもう、定まっていない。それでも、最期の力を振り絞るように、小さく口角を上げた。
「……よかった……。無事、だね……」
祈りにも似た微笑みだった。その言葉を最後に、ルルの身体からふっと力が抜ける。支えていた首が力なく傾き、指先から、ルルの鼓動が永遠に失われた。
「……ルル?」
声が出た。自分でも驚くくらい、小さな声だった。
「……ルル、起きてよ……お願い」
返事はない。
揺する。何度も呼ぶ。それでも返ってこない。
手のひらが、急速に冷たくなっていく。その冷たさだけが、もうどこにも温もりがないことを告げていた。
「いやだ……。いやだ、いやだ、いやだ……!!」
喉から、獣のような悲鳴が漏れた。ルルの遺体に顔を埋めて、激しく身を震わせる。
どのくらいそうしていたのか、わからなかった。ほんの一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。やがて、狂ったように叫び続けた喉がヒリヒリと枯れ果て、ただ荒い呼吸だけが夜気の中に残される。
腕の中のルルは、もう軽くなることはなかった。
背後で、人間たちが息を呑む気配がした。誰もすぐには動けなかった。血に染まったルル。夜風に揺れる花弁。
「ち、違う……」
かすれた声が漏れる。短剣を握っていた男の手は、ひどく震えていた。刃先から滴った赤が、ぽたりと地面へ落ちる。
「俺は、こんなつもりじゃ……」
顔色は青ざめ、呼吸も乱れている。魔晶石に焼かれた腕を押さえたまま、男は半歩後ずさった。
けれど。
そんなものは、もう届かなかった。
「……なんで」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど静かだった。
ゆっくりと顔を上げる。涙で滲んだ視界の向こう。そこに立っているのは、人間だった。ルルを奪った存在。
息を吸う。
「お前らが……」
その瞬間、足元の空気が変わった。地面から魔力が滲み出すように漏れ、感情に呼応するように空気を震わせていく。木々が大きく揺れ、花弁が夜空へ巻き上がる。
そっとルルを地面へ横たえると、ふらりと立ち上がった。表情はもう、泣いていなかった。ただ静かに、人間たちを見つめている。その瞳だけが、壊れたみたいに暗かった。
「返せ」
一歩、踏み出す。風が唸り、人間の一人が恐怖に顔を歪めて後退った。
「ま、待て……!」
「返せよ」
もう一歩。その声には怒鳴り声ひとつない。なのに、肌が粟立つような殺気だけが森を満たしていく。周囲で魔力が荒れ狂い、花弁が刃のように舞い始めた。
「返せッ!!」
叫びと同時に、地面が爆ぜる。
風の塊が人間たちへ叩きつけられようとした――その瞬間だった。
「待て!!」
低い怒声が森へ響く。次の瞬間、背後から伸びた見慣れた腕が、強引に身体を押さえつけた。
「っ……!?」
身体が後ろへ引かれる。視界の端で、緑褐色の髪が夜風に激しく揺れていた。
地を這うようにして、里の大人たちの気配が一斉に森を包み込んでいく。同時に、別の見張りたちが魔術式を展開した。
「動くな!!」
「武器を捨てろ!」
怒号が飛び交う中、それでも暴れ続けた。
「放せ!!」
喉が裂けそうな声だった。
「そいつらを殺さなきゃ……!」
押さえ込まれながら、必死に腕を伸ばす。その先には、ルルの血があった。
「放せぇッ!!」
風が暴れる。魔力が乱れる。けれど見張りたちは、歯を食いしばりながら抑え続けた。
「落ち着け、フィオナ!」
「落ち着けるわけないでしょ!!」
叫んだ瞬間、声がひっくり返る。怒りなのか、悲鳴なのか、自分でももうわからなかった。
視界の端で、誰かがルルへ駆け寄っていく。もう、遅いことくらいわかっていた。わかってしまったからこそ、止まれなかった。
「ルル……」
掠れた声が漏れる。その名前を呼んでも、もう返事は返ってこない。花弁だけが、夜の森へ虚しく舞い続けていた。
血で染まった自分の手を、ただ見つめていた。周囲で大人たちが何かを叫んでいる。人間たちの声も聞こえる。誰かが走る音も。でも全部が、遠くの水音みたいにぼんやりと耳の奥を流れていくだけだった。
ルルの温もりが、まだ腕に残っている気がした。けれど手のひらを見下ろせば、そこにあるのは赤だけだった。




