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Ⅲ. 【1-3】「無垢な約束」

 まるで、ずっと輪郭の曖昧だった想いを、不意に誰かへ見つけられてしまったような感覚だった。

 無意識のうちに指先へ力を込める。紙札の端が小さく歪み、そこから漏れた魔力がふわりと風を生んだ。

「フィオナちゃん、集中してぇ」

 隣から飛んできたルルの小声に、はっと我に返る。

「わ、わかってるって」

 慌てて魔力を整えると、乱れていた風は何事もなかったように消えていった。


 周囲では他の子どもたちが術式に苦戦している。

「うわっ、また散った!」

「ちゃんと魔力まとめなよー」

「そっちこそ!」

 そんなやり取りがあちこちで聞こえ始め、重かった空気が少しずついつもの寺子屋へ戻っていく。


 けれど、その"いつも通り"の中に、昨日までは無かったものが混ざっていた。

 窓の外を気にする視線。小さく潜められた声。誰かが廊下を通るだけで、一瞬だけ張り詰める空気。ほんの些細な違和感だった。それでもその小さなズレが、妙に気になった。


 授業が終わる頃には、昼前の柔らかな陽射しが障子越しに差し込んでいた。子どもたちは普段なら一斉に騒ぎ始める時間なのに、今日はどこか落ち着かない様子で、それぞれ固まって話をしている。


「やっぱ人間って危ないのかな」

「結界、強くするらしいよ」

「昨日、お父さん見張り行ってた」

 耳に入ってくる声はどれも小さかった。


 荷物をまとめながら、ちらりと窓の外を見た。寺子屋の向こう、里の外れへ続く道には、見慣れない大人たちの姿がある。腰に術具を下げた男たちが数人、何かを確認するように森の方角を見ていた。

「……ほんとに見張り立ってるんだ」

 思わず漏れた呟きに、ルルが不安そうな顔をする。

「昨日の人間たち、まだ近くにいるのかな」

「どうだろ」


 そう返しながらも、頭の中に疑問ばかりが浮かんでくる。人間たちは何を見に来たのか。どうしてわざわざ迷いの森を越えて、この里へ辿り着いたのか。

「フィオナちゃん」

 ルルが袖を軽く引いた。

「今日はまっすぐ帰ろ?」

「え?」

「なんか……嫌な感じするから」

 その声は小さかったけれど、いつもよりずっと真剣だった。


 一瞬だけ返事に詰まる。窓の外では風が吹き、白い花弁が空へ舞い上がっていく。その向こうに広がる森は、いつもと変わらぬ佇まいを保っていた。なのに今日は、その奥に何かが潜んでいるような気がして、目を離せなかった。


* * *


 寺子屋を出たあとも、里の空気はどこか落ち着かなかった。

 道の途中では、大人たちが普段より低い声で話し込んでいる姿を何度も見かけたし、里の外れへ続く道には見張りの姿まである。風花ノ郷はもともと物音の少ない里だ。だからこそ、そういう小さな変化が妙に目についた。

 並んで歩きながらも、いつものようにはしゃぐことはなかった。風だけが、白い花弁を巻き上げながらふたりの間を抜けていく。


 やがて見慣れた家が見えてくる。木造の小さな家。縁側には干した布が揺れていて、窓からは夕飯の支度をする匂いが微かに漂っていた。

「着いたぁ……」

 息を吐くように呟く。


 すると隣を歩いていたルルが、なぜかその場で足を止めた。

「……ルル?」

 呼びかけても、すぐに返事をしない。指先をもじもじと絡めながら、少しだけ俯いている。その様子が珍しくて、首を傾げた。

「どうしたの?」

「あのね……」

 ルルの耳が不安そうに揺れる。夕暮れの風が吹き抜け、銀髪をそっと撫でていった。

「今日は、一緒に寝ない?」

 ぽつりと零れた声は、風に消えてしまいそうなくらい小さかった。


 一瞬だけ目を丸くする。けれど次の瞬間には、ぱっと顔を輝かせていた。

「え、いいの!? やったぁ!」

「わっ……声大きいよぉ」

「もちろんいいよ! 絶対楽しいじゃん!」

 さっきまでの重たい空気なんて忘れたみたいに、満面の笑みを浮かべる。その顔を見て、ルルもようやく少しだけ安心したように笑った。

「……じゃあ、お母さんに聞いてみる」

「うん!」


 勢いよく戸を滑らせ、玄関を大きく開け放つ。

「ただいまー!」

 途端に、香ばしい匂いがふわりと流れてきた。

「おかえり」

 台所から顔を出したのは母だった。柔らかな栗皮色の髪を後ろで束ね、湯気の立つ鍋をかき混ぜながらこちらを見る。

「あら、ルルちゃんも一緒なの?」

「えへへ、今日泊まってく!」

 先に答えると、母は少し驚いたあと、ふっと優しく笑った。

「そう。なら晩ごはん少し増やさなきゃね」

「すみません、おばさん……」

 ぺこりと頭を下げるルルに、母は気にしない気にしないと手を振る。

「ルルちゃんが来るの久しぶりだもの。フィオナなんて朝からずっと騒がしくなるわよ?」

「ちょ、なんでそうなるの!」

「だって嬉しいんでしょ?」

「うっ……」

 図星を突かれ、言葉に詰まる。その様子を見て、ルルがくすっと笑った。


 奥の部屋からは父の声も聞こえてくる。

「お、今日は賑やかだな」

 仕事帰りなのか、父は長羽織を脱ぎながら居間へ入ってきた。見上げるほどに高い背のその頭上で、緑褐色の耳がぴくりと揺れる。

「ルルちゃん、いらっしゃい」

「こんばんは……お邪魔します」

「遠慮しなくていい。今日はいっぱい食べていきなさい」

 父は穏やかに笑いながら席へ着いた。


 やがて食卓には、湯気の立つ味噌汁や焼き魚、山菜の和え物が並び始める。里にはまだ不穏な空気が残っている。けれどこの家の中だけは、まるで何も変わっていないみたいに温かかった。


 最初は遠慮がちに箸を動かしていたルルが、父の冗談に小さく笑って、母のおかわりの勧めに困ったように耳を揺らす。そういう些細な変化を横目で見ながら、自分の肩からも何かが抜けていくのを感じた。


 食後のお茶を片付けながら、母が振り返る。

「あなたたち、お風呂入ってきなさい。今日は冷えるから、ちゃんと温まるのよ」


 その声に弾かれたように「はーい!」と元気よく応える。けれど、その隣でルルはぴたりと箸を止め、困ったように眉を下げていた。

「えっ……い、一緒に入るの……?」

 途端に耳まで赤くなっていくルルを見て、きょとんと瞬きをする。

「当たり前じゃん。ほら、行こ行こー!」

 立ち上がるなり、逃げ腰になったルルの背中をぐいぐい押し始めた。

「わっ、ちょ、フィオナちゃんっ」

「遠慮しなくていいってー!」


 ぱたぱたと騒がしい足音が廊下へ消えていき、居間には父と母だけが残る。

 母は思わず苦笑した。

「ほんと仲良いわねぇ」

「……そうだな」

 父は静かに頷きながら、ふと窓の外へ目を向ける。夜風が、庭木を揺らしていた。


* * *


 浴場には、真っ白な湯気がゆったりと立ち込めていた。

 木の桶が床を打つ小気味よい音が響き、ほんのりと檜の香りが鼻をくすぐる。

「んぁ~……あったかぁ……」

 肩まで湯に浸かりながら、だらしなく頬を緩めた。

「お、おっきい声出さないでよぉ……」

 向かい側では、ルルが胸元を隠すようにして小さくなっている。

「今さら何恥ずかしがってんの?」

「今さらって言われても……!」


 湯気の向こうで、ルルのたれ耳が落ち着かなさそうに揺れていた。くすくす笑いながら、わざと湯をぱしゃりと飛ばせば、ルルが慌てて身を引く。笑い声が、石造りの壁に反響して広がっていく。その無邪気な音を聞いているうちに、ルルの肩からも少しずつ力が抜けていった。


 やがて身体を洗い終えると、自然な動作でルルの後ろへと回り込む。

「はい、次ルルの髪やるー」

「え、自分で洗えるよ?」

「いいからいいから」

 返事も待たず、銀色の髪へ温かな湯をかけた。指先で髪を()けば、さらりと柔らかな感触が指の間を滑り落ちていく。湯気の向こうで、ルルが小さく目を閉じた。


「……フィオナちゃん、髪触るの好きだよね」

「好き」

「即答……」

「だって綺麗なんだもん」

 真っ直ぐな言葉に、ルルはまた耳を赤くして、けれど今度は逃げずにそっと目を閉じた。


 湯気と笑い声と、揺れる耳。その時間は、外の不穏さなんて忘れてしまいそうなくらい穏やかだった。


* * *


 部屋へ戻る頃には、夜もすっかり深くなっていた。

 窓の外では虫の声が静かに響き、風が時折、木々を揺らしている。敷き直した布団へ並んで潜り込みながら、大きく伸びをした。

「んー……今日はなんか疲れた」

「いっぱい考えてたもんねぇ」


 隣で横になったルルが、小さく笑う。部屋の灯りは落としてある。月明かりだけが障子越しに淡く差し込み、ふたりの輪郭をぼんやりと照らしていた。


 ふと、その静寂を割るように、ルルが消え入りそうな声で呟く。

「……ねぇ、フィオナちゃん」

「んー?」

「その……外、行かないでね」

 いつもより小さな声だった。

「まだ気にしてるの?」

「だって、今日はなんか変だったもん……」

 ルルは布団をぎゅっと掴む。

「……人間が来てから、みんな変だし……嫌な感じするし……」


 不安を押し殺すような声だった。

 笑い飛ばした方がいい。そう直感した。泣きそうな顔のルルに、今夜だけは心配をさせたくなかった。

「大丈夫だって。ちょっと人間が来ただけじゃん。そんなすぐ何か起きたりしないよ」

 そう言って、安心させるようにルルの頭を軽く撫でた。ルルは少しだけ目を細め、それから小さく息を吐く。

「……なら、いいけど」

「うん」


 そのまま静けさが部屋を満たしていく。やがて隣から、すぅ……すぅ……と穏やかな寝息が聞こえ始めた。ルルは安心したような顔で、静かに眠っていた。


――なのに。


 目を閉じても、眠気が来なかった。暗闇の裏側で、さっきまで話していた言葉が静かに浮かんでくる。人間。鐘の音。結界の向こう。考えまいとするほど、浮かんでくる。


 そっと天井を見上げた。月明かりが障子に滲んでいる。その淡い光の中で、ルルの寝顔だけがやわらかく照らされていた。

 大丈夫。何も起きない。

 さっき自分で言った言葉が、今は少しだけ空虚に聞こえた。それでも、眠りはなかなか来なかった。

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