Ⅱ. 【1-2】「隣にいた温もり」
鐘の音は、一度鳴ってそれきり止まった。
風が、ぴたりと止まった。静寂だけが残る。
「……なんの鐘だろ」
呟くと、ルルは眉をひそめたまま首を振った。
「わからない。でも、朝の鐘じゃないよ。音が違う」
「だよね」
ふたりはしばらく、鐘の鳴り響いた方角を見つめていた。里の入口に近い方向だった。
やがて「行ってみよう」と言おうとした――その瞬間、坂の下から声が飛んできた。
「フィオナ! ルル!」
振り返ると、息を切らせた男の子が石段を駆け上がってくる。同じ寺子屋に通う顔見知りだった。
「どうしたの、そんな慌てて」
「里の入口に……人間が来てる」
その一言に、空気が変わった。
ルルの耳がぴんと立つ。思わず息を呑んだ。
「人間?」
「ああ。何人かで来て、入口のところに立ってるんだ。追い払おうとしたら、なんか文書みたいなのを見せてきて……長老たちが対応してる」
男の子は言いながら、どこか落ち着かない様子で耳を動かした。
「なんか……変な感じがするんだよな。悪いことしようって感じじゃないんだけど」
「変な感じって?」
「うまく言えないけど……なんていうか、こっちのことを見てるんじゃなくて、調べてるみたいな目つきで」
黙って、里の入口の方角へ視線を向けた。木々の向こうには何も見えない。
けれど風の流れが、さっきまでと少しだけ違う気がした。魔力の揺らぎとも呼べない、もっと微かな何か。人の気配が、里の空気に溶け込もうとしている――そんな感覚。
「……行ってみる」
踏み出そうとすると、ルルがその袖をそっと掴んだ。
「フィオナちゃん」
低い声だった。
「長老たちが対応してるなら、私たちが行っても邪魔になるだけじゃない?」
「でも」
「ね?」
たれた耳が、不安そうにゆれている。一瞬だけ迷い、それから小さく息を吐いた。
「……わかった」
その場に留まりながら、遠くを見つめ続けた。
行けない。でも、戻る気にもなれない。ただここに立って、何かを待っているような、宙ぶらりんの感覚だけが残っていた。風が戻ってきた。白い花弁が、里の外へ向かって流れていく。その動きを目で追いながら、名前のつけられない何かが胸の中で広がっていくのを止められなかった。
* * *
結局、その日は丘へ向かう気分にはなれなかった。
風は相変わらず心地よく吹いている。景色だけを見れば何ひとつ変わっていないはずなのに、重たいものが澱のように残り続けていた。
「……帰ろっか」
隣でルルが控えめに言う。少しだけ迷ってから、小さくうなずいた。
石段を下りながらも、視線は何度も里の入口の方へ向いてしまう。木々が邪魔をして様子は見えない。それでも、"何かが入り込んできた"という感覚だけが妙にはっきりと残っていた。
人間という言葉を耳にした瞬間から、何かに火が灯ったみたいだった。怖いのか、それとも別の何かなのか、自分でもまだわからない。
「……ねぇ、ルル」
「なあに?」
「人間って、どんな感じなんだろ」
歩きながら尋ねると、ルルは少し困ったように耳を揺らした。
「どんなって言われても……私も見たことないし」
「怖いのかな」
「うーん……でも、長老さまたちが対応してるくらいだし、あんまり関わっちゃいけないんじゃないかな」
小さく視線を伏せたルルの言葉に、曖昧に相槌を打ちながらも、どこか腑に落ちなかった。
"関わってはいけない"。その言葉だけが先にあって、理由はいつもぼやけている。迷いの森の向こうに何があるのか。風の道を越えた先で、どんな景色が広がっているのか。知らないまま従うことを当然のように求められるたび、薄い膜が張るみたいな息苦しさを感じていた。
「フィオナちゃん」
不意に呼ばれ、顔を上げる。
「また難しい顔してる」
「え?」
「眉間、寄ってるよぉ」
言われて初めて気づき、慌てて額に触れた。隣ではルルがくすりと笑っている。
「フィオナちゃんって、ほんと考えすぎ」
「だって気になるじゃん」
「気になるけど……」
ルルはそこで言葉を止め、少しだけ前を歩いた。風が吹き抜ける。白い花弁がふたりの間をすり抜け、陽射しの中へ流れていった。
「私は、今のままで結構好きだよ」
ぽつりと落ちたその言葉に、目を瞬かせた。ルルは照れたように笑いながら、前を向いたまま続ける。
「この里も、みんなも……フィオナちゃんとこうして歩く時間も」
その声は小さかったけれど、不思議なくらい真っ直ぐ耳に届いた。
フィオナは思わず吹き出す。
「なにそれ」
「わ、笑うことないじゃん……!」
耳まで赤くして抗議するルルを見ているうちに、さっきまで重かったものが少しだけ遠のいていく。こういう時間は好きだった。むしろ、大好きだった。
それなのに、どうして外の世界を見てみたいと思ってしまうのだろう。
答えはまだ、わからない。けれどその問いだけが、歩きながらもずっと胸の中に残り続けていた。
* * *
翌朝の寺子屋は、いつもと空気が違った。
十数人の子どもたちが畳に座り、誰も喋らない。普段なら始まる前にあちこちで笑い声や悪ふざけが飛び交うのに、今日はただ静かだった。昨日の鐘の音が、まだ皆の耳に残っているのかもしれない。
ルルの隣に座りながら、何となく部屋を見渡した。皆、どこか表情が固い。
やがて障子が開き、里の長老――ゼノスが入ってきた。
白髪を緩やかに結い上げ、使い込まれた杖を片手に持つ老人。背筋はまっすぐで、足音はほとんど聞こえない。それなのに、彼が部屋に入った瞬間、空気がすっと変わった。
「皆、集まってくれたね」
穏やかな声だった。怒っているわけでも、脅しているわけでもない。ただそれだけなのに、誰も動けなくなる。
ゼノスは部屋の前へ進み、子どもたちを見渡してから、口を開いた。
「昨日、この里に人間が来た」
誰かが小さく息を呑む音がした。
「数人だった。武器は持っていなかったし、争いを求めてきたわけでもない。ただ……」
ゼノスはそこで一度言葉を切り、手元の杖を畳に突いた。
「この里を、調べに来たのだろうと思っている」
ざわりと空気が揺れた。隣でルルの耳がしゅんと垂れる。他の子どもたちも顔を見合わせ、不安を隠せない様子だった。
フィオナは黙ったまま、ゼノスを見つめていた。怖いとは思わなかった。それよりも、昨日からくすぶり続けていた疑問が、じわりと大きくなっていく。どんな人間だったのか。何を調べに来たのか。何を見て、何を考えて、この里まで足を運んできたのか。
「皆に伝えておきたいことがある」
ゼノスの声が続く。
「しばらくの間、里の外れには近づかないこと。迷いの森の境界から出ないこと。そして、もし見知らぬ者の気配を感じたら、すぐに大人へ知らせること」
子どもたちが揃って頷く中、フィオナだけはわずかに遅れた。
その時だった。ゼノスの視線が、ふっとこちらへ向いた。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、他の子どもたちとは少しだけ違う目線で。思わず背筋を正した。
けれどゼノスはすぐに視線を外し、何事もなかったように続ける。
「怖がることはない。ただ、慎重にいなさい」
穏やかな言葉だった。なのに胸の奥では、くすぶり続けていた疑問が鎮まらないまま残っていた。
いつもならそこから始まるはずの悪ふざけも、今日ばかりは影を潜めている。誰もが“人間”の話を頭のどこかで引きずっているのが、部屋の空気の重さで伝わってきた。
ゼノスはそんな空気を気にした様子もなく、いつも通り授業を始めた。
「では、今日は風術式の基礎制御を復習する」
低く落ち着いた声が部屋に響く。
子どもたちは慣れた様子で紙札を広げ、魔力を流し始めた。淡い光が畳の上に浮かび、小さな風があちこちで渦を巻く。
フィオナも札を指先で札を挟み、術式を展開する。
紙札が淡い緑光を帯び、次の瞬間、小さな旋風がふわりと生まれた――はずだった。
生まれた風は、ただの空気の塊ではなかった。
まるで透明な細い糸か、あるいは清らかな水流のように、紙札の周囲を滑らかに回転し、巻き込んだ花弁ごと空中で幾重にも美しく編み込まれていく。
「わっ……」
近くにいた男の子が声を漏らした。
半分無意識だった。頭で考えるより先に、感覚で魔力が動いてしまう。
「フィオナちゃん、また……」
隣でルルが困ったように呟く。その声でようやく我に返り、慌てて術式を解いた。風がほどけ、巻き上がっていた花弁がはらはらと畳へ落ちていく。
数人の視線がこちらへ集まっていた。
「……すご」
誰かがぽつりと漏らす。
「いや、今のはちょっと暴走しただけっていうか……」
「基礎術式で暴走する方が問題なんだけどねぇ」
ルルのツッコミに、周囲から小さな笑いが漏れる。重かった空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
ゼノスはその様子を眺めていたが、やがてフィオナへ視線を向ける。
「フィオナ」
「は、はい」
「術式の流れは美しかった。だが、お前は感覚で動かしすぎる」
穏やかな口調だった。責めているわけではない。それでも自然と背筋を伸ばしていた。
「お前の魔力は、風とよく馴染む。だからこそ制御を誤れば、周囲まで巻き込むことになる」
「……はい」
「力は、自由であるほど扱いが難しい」
ゼノスはそこで言葉を止め、小さく目を細めた。
「外の風に憧れる気持ちはわかる。だが、風は時に、人を遠くへ運びすぎる」
心臓がどくりと跳ねた。まるで、自分の考えを見透かされたみたいだった。
隣のルルも少し驚いたように見てくる。
けれどゼノスはそれ以上何も言わず、授業へ戻っていった。部屋の中には再び術式の光が灯り始める。
それでもしばらく、札を見つめたまま動けなかった。
“外の風”。ゼノスは確かにそう言った。その言葉が、もっと深いどこかへ、じわりと落ちていく。




