Ⅰ. 【1ー1】「鐘が鳴る前」
障子越しの朝日が、やわらかな金色となって部屋の畳を照らしていた。
窓の外では風に揺れた木々がざわめき、どこからか小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
この世界のすべてが、その穏やかな音の中に収まっていた。
「フィオナー? 起きてるなら早く降りてきなさい。あの子来てるわよ~」
廊下の先から母の声が飛んできた。布団へ顔をうずめたまま、小さく唸る。
「あと五分ぅ……」
気の抜けた声は、誰に聞かせるでもなく畳へ溶けていった。
しばらくして、廊下をぺたぺたと歩く足音が近づいてきた。障子がそろりと開く。
「フィオナちゃん、起きてよー」
布団の端に、控えめな重みが加わる。ルルがその場に膝をついたのだろう。布団から覗く視界の端で、彼女のたれた狐耳が、困ったようにぴくぴくと震えていた。
「んー……ルル、もうちょっと」
「もうちょっとって、朝ごはん冷めちゃうよ」
ルルの声はいつも静かで、急かすような強さがない。だからこそつい甘えてしまう。
「じゃあ一緒に食べよ」
「……お母さんに言われたから来ただけだもん」
ワンテンポ遅れた、ぼそりとした返事。
それを聞いてにやりと笑い、布団の中から手だけを伸ばしてルルの袖をつかんだ。
「ルル!」
「……なあに?」
「おはよ」
ルルは少しの間黙って、それからため息をついた。
「……おはよう、フィオナちゃん」
こんな朝が、ずっと続くものだと思っていた。
布団からようやく這い出し、寝癖のついた髪を手櫛で整えながら廊下へ出た。
木造の廊下は朝の空気をほんのりと含み、素足にひやりとした感触を返してくる。使い込まれて黒ずんだ木の節が足の裏に心地よい刺激をくれた。
窓の外では、朝露に濡れた草花が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
後ろからついてくるルルは、相変わらず眠そうなこちらを見て小さく眉を下げる。
「また夜遅くまで魔法の本読んでたの?」
「んー……ちょっとだけ」
「ちょっとの顔じゃないよぉ……」
呆れたように言いながらも、ルルはどこか慣れた様子だった。
そのままルルに背中を追われるようにして、茶の間へと続く板の間を歩いていく。
台所に近づくにつれて、廊下の冷気と入れ替わるように、ふわりと味噌汁の香りが広がる。
「お、やっと起きたか」
食卓では父が新聞代わりの伝信札を片手に、お茶を飲みながらこちらを見ていた。
台所で焼き魚を皿へ並べながら、栗皮色の髪を揺らしてお母さんが肩をすくめる。
「ルルちゃんが来なかったら、今日も寝坊だったんじゃない?」
「うっ……」
「フィオナちゃん、最近また根詰めすぎだよ」
ルルが小さく言う。
むすっと頬を膨らませながら席へ座った。
「だって暇なんだもん」
「暇って……」
母が苦笑する。
「里の子たちは皆、魔術式の応用試験で大騒ぎしてるのに」
「だって基礎ばっかなんだよ? もっとこう……外の世界の魔法とか、古代術式とか、面白いの勉強したいじゃん」
そう言いながら箸を伸ばした瞬間、父がふっと目を細めた。
「外、ねぇ」
その声音は穏やかだった。
けれど、どこかだけ少し重かった。
気づかないふりをして、焼き魚を口へ運ぶ。
窓の外では風が吹き抜け、遠くで風鈴が静かに鳴っていた。
朝食を終える頃には、窓の外へ差し込む陽射しもすっかり明るくなっていた。
食器を片づけながら、母が振り返る。
「今日はルルちゃんも一緒に勉強会なんでしょう?」
「勉強会っていうか、フィオナちゃんの暴走を止める会……」
「ちょっと!? 私そんな危険人物みたいな扱いされてる!?」
抗議の声を上げると、ルルは真顔のままこくりとうなずいた。
「この前も“空飛べるかも!”って言って丘から飛び降りたし」
「あれは理論上いけると思ったの!」
「落ちてたよぉ……」
思い出したのか、ルルの耳がしゅんと垂れる。
父と母は顔を見合わせ、小さく吹き出した。
「まあ怪我がなかっただけ良かったけどな」
「フィオナは昔から、思いついたら一直線なんだから」
「うぅ……」
反論できず、むくれたまま湯飲みに口をつけた。
温かいお茶の香りが鼻先を抜ける。
窓の外では、風に乗って白い花弁が舞っていた。
幼い頃は、あの花弁を追いかけて丘を駆け回っていた。今でも嫌いではない。けれど最近は、その先にあるものが気になってしまう。花弁が流れていく向こう側に、自分の知らない何かがある気がして。
「……フィオナちゃん?」
ぼんやりしていた意識を、ルルの声が引き戻した。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか、遠く見てたから」
心配そうに覗き込んでくるライム色の瞳に、ぱっと笑って首を振った。
「なんでもないって。ちょっと考えごと」
「また危ないこと?」
「違うし!」
即座に返すと、ルルは少しだけ安心したように息を吐いた。
その様子がなんだか可笑しくて、くすりと笑う。
「ルルってほんと心配性だよね」
「だってフィオナちゃん、放っておくとすぐどっか行っちゃいそうなんだもん……」
ぽつりと零れたその言葉に、ほんの少しだけ動きを止めた。けれどルル自身は、口にした言葉の意味など深く考えていないようで、ただいつものように静かに笑っている。
フィオナは視線を窓の外へ逃がした。
青い空。風に揺れる木々。穏やかな里の景色。
――どこかへ、行きたい。
その想いは声にならないまま、お茶の香りに溶けて消えた。
「さ、行こっか」
わざと明るい声を出して立ち上がった。ルルがぱちりと瞬きをする。
「行くって、どこへ?」
「決まってんじゃん。丘だよ、丘! 今日は絶対いい風吹いてるって」
「……また魔法の実験?」
「実験じゃなくて研究!」
言い張るこちらに、ルルは困ったように耳を垂らしながらも立ち上がった。その仕草がなんだかいつもと同じで、少しだけ胸の奥が緩むのを感じた。
廊下へ出ると、母が台所から顔を出す。
「どこ行くの?」
「丘!」
「お昼までには戻りなさいよ」
「はーい」
玄関で草履を突っかけ、引き戸を開ける。途端に、白い花弁が風に乗って舞い込んできた。
「わ……」
思わずルルが小さく声を上げる。花弁はふたりの間をゆっくりと通り抜け、畳の上にそっと落ちた。
「綺麗だね」
ルルがぽつりと言う。
その花弁を目で追いながら、ふっと笑った。
「うん。でも、もっと綺麗なものが外にはあると思うんだよね」
ルルは何も言わなかった。ただ、少しだけ寂しそうに目を細めて、外の景色を見ていた。
それに気づかないふりをして、先に外へ踏み出した。
外へ出た瞬間、やわらかな風が頬を撫でていった。
春の名残を含んだ風花の香り。遠くでは水車の回る音がかすかに響き、石畳の道では朝市の準備を始めた大人たちが慌ただしく動いている。
「フィオナちゃん、待ってぇ」
後ろから追いかけてくるルルの声に、くるりと振り返った。
きらきらとした木漏れ日が、彼女の足元をせわしなく揺らす。
「ほらほら、早くしないと風変わっちゃうよ!」
「風って変わるものなの……?」
「変わるの! 今日の風、なんか特別な感じするんだから!」
根拠のない言葉だった。
けれど昔から、風の流れや空気の匂いに敏感だった。目に見えない魔力の揺らぎを感覚で捉えてしまうことがある。
それを里の大人たちは“才能”だと言った。
でも、その感覚を上手く言葉にできたことがない。
ただ――今日はどこか、胸が落ち着かなかった。
石段を駆け上がりながら、空を見上げる。
雲ひとつない青空だった。
風花ノ郷は今日も平和で、静かで、何も変わらない。
なのに胸の奥だけが、どこか遠くを求めてざわついている。
「……フィオナちゃん?」
隣へ並んだルルが、ふっと歩調を合わせてきた。
声はかけない。ただ少し近くに来て、一緒に空を見上げる。
その静かな気遣いが、なんだかくすぐったかった。
「……変なの」
「なにが?」
「なんでもない」
首を振ると、誤魔化すように前を向いた。
丘へ続く坂道の先には、大きな風車が見えている。風花ノ郷の外れにある、小さな丘。子どもの頃から何度も通った場所だった。そこで風を感じながら魔法を試すのが好きだった。
風はどこまでも自由だ。
――自分も、いつか。
そんな想いが脳裏をよぎった瞬間。
どこか遠くで、鐘の音が鳴った。
カァン、と。
静かな里へ響く、乾いた音。
フィオナは思わず足を止める。
「……鐘?」
隣のルルも耳をぴくりと動かした。朝を告げる鐘には遅い時間だ。それに、どこか音色が違う。
風が吹く。ざわざわと木々が騒ぎ、音色の違う響きをかき消していく。その向こう側を見つめながら、知らず知らずのうちに眉をひそめていた。




