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Ⅹ. 【3-1】「静かな渇き」

 父の部屋から出ると、廊下は暗い。遠くで虫の声がする。

 それだけが、今もこの郷が息をしていることの証のようだった。


 布団に入っても、目は閉じられなかった。ただ天井の木目を数え続ける。


 障子の向こうがうっすらと白み始めた頃、廊下に足音が近づいてきた。

「フィオナ、支度しろ。朝から稽古をつけてやる」

 暗闇の向こうから、父の声が届いた。


* * *


 朝靄の残る庭先に、水の落ちる音だけが響いていた。

 縁側の前には浅い石造りの水盤が置かれ、その澄んだ水面へ、竹筒から一定の間隔で雫が落ち続けている。


 ぽちゃん。

 小さな波紋が広がるたび、空を映していた水面がわずかに動いた。

 その前へ正座したまま、じっと動かない。


「水記は"業"ではない」

 背後から声が届く。


「まず覚えるべきなのは、力で支配しようとしないことだ」

 黙って水面を見つめ続ける。

「水は形を持たない。流れを拒めば濁るし、感情をぶつければ乱れる。だからまず、自分自身を静める必要がある」

 父が隣へ腰を下ろした。その手が、水面へそっと触れる。すると広がった波紋が、不思議なくらい綺麗な円を描いた。

 揺れているのに、乱れていない。

 まるで水そのものが、父の呼吸に合わせて息づいているみたいだった。

「……どうやってるの」

「無理に動かしていないだけだ」

 一拍おいて、続ける。

「水記は命令する力じゃない。触れ、感じ、流れを読む力だ」


 自分の手を見る。

 まだ小さい掌。あの夜、ルルの血で染まった手。


 その記憶が脳裏を掠めた瞬間、水面がびしゃりと乱れた。波紋が歪む。

 父は何も言わなかった。ただ、水面を見ている。

「……難しい」

「当然だ」

 小さく息を吐く。

「水記は心の揺らぎを映す。今のお前には、まだ感情の波が大きすぎる」

 唇を噛む。

 悔しかった。自分では落ち着いているつもりなのに、水は全部見透かしてくる。怒りも、悲しみも、押し込めたつもりの感情も、全部。


「……でも、覚えたい」

 その声に、父は少しだけ目を細めた。

「なぜだ」

 問い返されて、一瞬だけ言葉に詰まる。強くなりたいから。知らないことを知りたいから。理由はいくつもある。だが、一番奥にある感情は、もっと単純だった。


「忘れたくないから」


 父の目がわずかに揺れたのも束の間、すぐに視線を水面へと戻す。

「そうか」

 短い返事だけが返ってきた。


* * *


 季節が少しずつ動いていく中で、寺子屋でのフィオナは以前とはまるで別人だった。

 授業が始まる前、畳の上では子どもたちが騒いでいる。誰かが術式を失敗して笑い声が上がり、別の誰かがそれを茶化す。ほんの少し前までなら、フィオナもその輪の中心にいたはずだった。


 今は、窓際に座ったまま、ただ外を見ている。

 風に揺れる木々。遠くを流れる雲。それらを眺めているようで、実際には何も見えていない。

「フィオナ、最近ずっとあんな感じだよね……」

「前はもっと喋ってたのに」

 小さな囁き声が背後から聞こえる。反応しない。気にならないわけではない。ただそこへ意識を向ける余裕がなかった。頭の中はいつも別のことで埋まっている。水記。記憶。力。そして、あの夜。

「フィオナちゃん」

 不意に名前を呼ばれ、視線を戻す。目の前には、寺子屋の子の一人が立っていた。少し困ったように耳をなびかせながら、小さく笑っている。

「今日、みんなで丘行くんだけど……フィオナちゃんも来る?」


 腹の底が微かに痛んだ。

 丘。そこは、ルルと何度も通った場所だった。風が気持ちよくて、空が近くて、くだらない話をしながら寝転がった場所。


 一瞬だけ、銀色の髪が脳裏を掠める。


 だが、すぐに目を伏せた。

「……行かない」

「そっか」

 相手はそれ以上何も言わなかった。気まずそうに笑って、そのまま輪の中へ戻っていく。楽しそうな声が遠くで響く。窓の外へ視線を戻した。

 昔なら、自分もあそこにいたのかな。

 そんな考えが浮かんでも、身体は動かなかった。


* * *


 授業の後。皆が帰っていく中、一人で術札を片付けていた。

 背後から、足音が近づいてくる。

「……最近、無理をしているね」

 振り返ると、そこにはゼノスが立っていた。白髪をなびかせながら、こちらを見つめている。

「別に」

「水記の修行もしているそうだね」

 指先が、わずかに止まる。誰から聞いたのかなんて考えるまでもなかった。

「……悪い?」

「悪くはない」

 ゼノスは小さく首を振った。「だが、焦りは水を濁らせる」

 返事をしない。ゼノスの言葉は正しいのだろう。だが、今の自分にはそんなことどうでもよかった。焦らずにいて、何が変わるのか。じっとしていて、ルルが戻ってくるのか。

 ゼノスはしばらく黙っていたが、やがて続けた。

「お前は優しい子だ」

「……」

「だからこそ、痛みを抱え込みすぎる」

 顔を上げる。ゼノスを見据える目には、もう以前みたいな揺らぎはほとんど残っていなかった。


「優しくなんかないよ」

 ぽつりと零れた声は、自分でも少し遠く聞こえた。

「優しかったら、守れてた」

 ゼノスは何も言わなかった。

 術札をまとめると、そのまま立ち上がる。

「帰る」

「フィオナ」

 呼び止める声にも振り返らない。そのまま寺子屋を後にする。

 夕暮れの道を、一人で歩く。


 ふと、誰もいない隣へと視線を向けた。

 かつては当たり前のようにそこにいて、くだらない話をして、笑いながら歩いていた。

 でも今は、風の音しか聞こえなかった。

 無意識に、胸元へ触れる。そこには、ルルの髪飾りが隠されている。


 泣きたくなる夜は、今でもある。苦しくて息ができなくなる時もある。

 けれど、いつからだろう。


 涙はもう、零れなくなっていた。


 代わりに積もっていくものがある。冷たく、重く、底へ沈んでいく何か。それは少しずつ、昔の自分を奪っていった。

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