Ⅺ. 【3-2】「凍てつく水面」
それからのフィオナは、朝が来ても庭へ出た。夜になっても水盤の前へ座り続けた。指先がふやけても、水へ触れるのをやめなかった。
眠っている時間が惜しい。食事をしている時間が惜しい。ぼんやりしている間にも、大事な何かが指の隙間から零れ落ちていく気がしてならなかった。
寺子屋を休む日も増えていった。最初のうちは母が声をかけていた。
「フィオナ、ご飯だけでも食べなさい」
「少し休みなさい」
けれど返ってくるのは曖昧な返事ばかりで、気づけば部屋の灯りは深夜になっても消えなくなっていた。自室に籠もり、水盤へ向かい、書庫に行っては記録を読み漁る。その繰り返し。
指先には細かな傷が増えていた。それでも止まらない。
止まればまた、自分が何もできなかった夜へ戻ってしまう気がしたから。
* * *
雨の降る夜だった。
窓を叩く雨音だけが、部屋へ響いている。水盤の前へ膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。視界が霞む。頭が痛い。それでも手だけは、水から離せなかった。
「……お願い」
掠れた声が零れる。
「もう一回だけ……」
揺れる水面へ、震える指先を沈める。冷たい。その感触だけが、熱を持った頭をわずかに冷やした。
意識を沈める。水の流れを感じ、記憶の残滓を探し続けた。失敗するたびに水が濁り、掴もうとするたびに遠ざかっていく。それでも、止められなかった。
不意に、水面が静かに揺れた。
波紋の奥。ぼやけた景色の向こうに、淡い銀色が滲む。
呼吸が止まる。
長い髪。柔らかな耳。困ったように笑う表情。
『フィオナちゃん』
声が聞こえた気がした。その瞬間、何かが弾ける。
「……ルル」
もっと見たい、触れたい。消えないで。そう願った途端、水面が大きく歪んだ。頭の奥へ激痛が走る。
「っ……!」
身体から力が抜け、そのまま床へ倒れ込んだ。水が溢れる音だけが、静かな部屋へ響いていた。
* * *
次に目を開けた時、見慣れた天井が視界に映った。
ぼんやりとした意識の中、誰かの声が聞こえる。
「……起きた」
母の声だった。
ゆっくり顔を向けると、傍らには両親が座っていた。父は険しい顔をしている。母の目元は少し赤かった。
身体を起こそうとして、小さく顔をしかめた。頭が重い。全身が鉛みたいに怠かった。
「無茶をしすぎだ」
低い声が落ちる。
「休め」
その一言に、ぴくりと肩が強ばった。
「お前は今、自分を壊している」
部屋の空気が静まる。雨音だけが遠くで響いていた。
しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「……壊れて、何が悪いの」
母が息を呑む。父は何も言わない。ただ痛ましげに眉が歪んでいる。
その顔を真っ直ぐ見つめたまま、言葉を続けた。
「壊れなかった結果が、あの夜だった」
「弱かったから守れなかった。なら、壊れてでも強くなるしかないの」
父はすぐ返事をしなかった。ただ苦しげに顔を背け、目を伏せる。
ただ、膝の上でぎゅっと握られた父の手だけが見えた。
* * *
倒れた一件以降も、フィオナは止まらなかった。
むしろ、ルルの残滓を水面に映せたという事実が、さらに深みへ沈めていく。水記を極めれば、あの夜の真実へ辿り着けるかもしれない。その執着が、今度は父の書庫へと向かわせた。
最初は単純な理由だった。敵を知るために。人間とは何か、どんな文化を持ち、なぜ争いを繰り返してきたのか。
けれど古い文献を読み漁るうちに、知らなかった世界が少しずつ姿を現してくる。風花ノ郷の外には、無数の都市と国家が存在していた。けもみみ族だけではない。人間、竜人族、さまざまな種族が争いながらも共存している。
世界は、自分の思っていたより遥かに広かった。
その広さは、しかし恐怖でもあった。
知らない力。知らない文明。知らない価値観。もしまた誰かを失ったら。もしまた、何もできなかったら。
そんなある日、父が口を開いた。
「リュミエール高等学院へ行く気はないか」
フィオナはすぐ首を振った。外なんて嫌い。人間なんて信用できない。この里を出るつもりなんてない。
そう言い切った。
けれど、その名前だけは頭から離れなかった。多種族が学ぶ場所。外界魔術の研究。記録と知識の集積地。そこなら、自分の知らない真実があるのではないか。
その考えが胸に小さく残り始めた頃には、もうわかっていた。
風花ノ郷にいるだけでは、前へ進めないのだと。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
実はここ数日、密かに『時間変動の試み』を行っております。
一昨日は11時半頃、そして今回はこの21時半頃。
夕方に足を運んでくださった方にはお待たせしてしまいましたが、
夜の静けさの中で、この物語の『境界』が一番心地よく繋がる時間を見極めるための実験です。
皆様は、どの時間帯に物語を開くのがお好きですか?




