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Ⅻ. 【3-3】「水底の沈殿」

 書庫の鍵は、いつからか開けっ放しになっていた。

 朝から文献を開き、気づけば夜の水盤に向かっている。その繰り返し。

 感情に任せて術を暴走させるような無駄は、もうしない。呼吸を整え、魔力の流れを制御し、失敗した箇所だけを淡々と修正していく。


「……また徹夜か」

 ある朝、書庫へ入ってきた父が呆れたように息を吐く。机へ突っ伏したままのフィオナの周囲には、読み終えた文献が山のように積み上がっていた。墨の滲んだ紙切れが床へ散らばり、水の入った器には微かな魔力光がまだ残っている。


「少しは寝ろ」

「寝てる時間がもったいない」

 顔も上げず返すと、父はしばらく黙っていた。昔ならそこで叱っていたかもしれない。けれど今の父は、何も言わない。


 ただ、積み上がった文献の束がカサリと揺れる音がした。外界資料をまとめた紙切れを、父の指先が拾い上げた気配がする。


「……そこまで知りたいか」


 答えなかった。

 知りたい。そんな言葉では足りなかった。知らないままでいたくない。何も知らなかったから、あの夜に何もできなかった。その後悔だけが、腹の底で黒く沈殿し続けている。


 父はやがて小さく息を吐き、机の端へ新しい文献を置いた。

「なら次はこれを読め。水記の感応範囲について書かれている」

 置かれた本へと、視線がようやく動く。父は苦笑するように肩を竦めた。


「その顔を見る限り、止めても無駄そうだからな。――あの日、壊れてでも強くなると言ったお前の目は、本気だったということか」

 返す言葉が出てこない。本気かどうか、そんなことじゃない。ただ強くなりたい。それだけ。

 ただ文献へ手を伸ばす。父はその横顔をじっと見つめたあと、どこか苦しそうに目を伏せていた。


* * *


 水記の精度は、異常な速度で伸びていった。

 感情の残滓を読む感覚。魔力の揺らぎを辿る感覚。風へ溶けた記憶の欠片を拾い上げる感覚。最初はぼやけた霧みたいだったものが、少しずつ形を持ち始める。


 庭へ置かれた器へ意識を向けると、そこへ触れた者の感情が微かに滲むことがあった。


 誰かの抱く不安や疲労、安堵や怒り。それらが生々しい波紋となってほんの一瞬だけ流れ込んでは消えていくのを、黙って受け止め続けた。


 気づけば、里を歩くだけでも色んなものが『見えて』しまうようになっていた。


 以前はただ不穏で嫌なものだと遠ざけていた、大人たちの張り詰めた空気。けれど今は、容赦なく伝わってくる。笑顔の裏で、皆も必死に足掻いている。


 あの夜が残した亀裂は、里そのものを静かに、少しずつ変え続けている。なのに皆、それを見ないふりをしていた。まるで元通りであるかのように。

 その、誰もが演じている偽りの平穏が、たまらなく息苦しかった。


 寺子屋へ行く回数は減っていた。久しぶりに顔を出した日も、教室の空気はどこかぎこちない。昔は来れば騒がしくなっていた。誰かが話しかけ、誰かが笑い、気づけば輪の中心にいた。けれど今は違う。


「……フィオナ」

 声をかけてきた子どもが、一瞬だけ言葉に詰まる。


「えっと……久しぶり」


「うん」


 それだけ返して席へ座ると、相手は困ったように視線を逸らした。


 その空気の意味くらい、わかっている。自分が変わってしまったことも。前みたいに笑えないことも。けれど今さら、どう戻ればいいのかもわからなかった。


 授業中、窓の外で風が揺れる。白い花弁が空へ舞い上がり、青空へ溶けるように消えていく。その景色から、目を離せなかった。


――ルルなら、今の自分を見てなんて言うだろう。


 そんな考えが浮かびかけて、すぐ奥へ押し込む。

 もう昔みたいには戻れない。

 人を遠ざけていった。

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