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XIII.【3-4】「届かない拒絶」

 静まり返った書庫の片隅で、ひとり水盤の前へ座り、目を閉じた。

 明かりのとっくに落ちた部屋の中で、薄く張られた水面が、月明かりを受けてゆるやかに光っている。

 遠くで風が木々を揺らす音だけが、微かに耳へ届いていた。


 呼吸を落とす。意識を沈める。指先から魔力を流し込みながら、もっと奥へ——もっと向こう側へ、と念じた。


 波紋が広がった瞬間、不意に視界へ何かが流れ込んできた。

『……あの子を止めるべきだ』

 水を通すと声は歪む。それでも聞き覚えのある低さだと、すぐにわかった。父の声だった。

『でも、止まらないなら……せめて見ていてやらなければ』


 鈍い痛みが落ちた。


 水の向こうで、誰かが俯いている。母だった。

『また痩せてる……あの子、ちゃんと眠れてないわ』

『無理に閉じ込めれば壊れる』

『でも、このままでも……』

 水に溶けていた記憶が、ぶつりと途切れた。水盤が大きく波立ち、はっと息を呑む。


 動けなかった。


 平気そうに見えていた。ずっとそう思っていた。なのに、ふたりはこんな顔をしていたのか。腹の底へ、何かがゆっくり沈んでいく。ただ呼吸だけを繰り返す。

 やがて小さく息を吐いた。


 止まれないのではない。止まらないと、決めた。


 もう一度、指先を水へ伸ばす。月光が滲む。波紋が広がる。その奥へ。

 冷たかった。深かった。けれど怖くはなかった。今の自分にとって恐ろしいのは、届かないまま終わることの方だった。

 奥歯を噛み、名前を念じた。

――ルル。


 指先に力を込めた、その瞬間だった。

 水面が不意に激しく濁った。

「……っ!?」

 視界が歪む。頭を白い激痛が貫き、思わず水盤から手を離した。

 ばしゃり、と水が畳へ散る。荒い息が漏れた。鼓動がうるさいほど脈打っている。

 何が起きたのか理解できないまま、震える指先を見下ろした。

「……なんで」


 掠れた声が零れる。あと少しだった。今、確かに届きかけていた。なのに。

 そこへ残る濁りは消えない。まるでこれ以上先へ進むなと拒絶しているみたいだった。


 衣擦れの音と、足音が背後で止まる。

 振り返れば、いつの間にか開いた引き戸の前に、父が佇んでいた。

 濡れた畳と水盤を見つめ、父は悲しげに、小さく目を伏せる。


「……水記は、死者を呼び戻す業ではない」


 息が、止まった。

「記憶の残滓には触れられる。感情の痕跡を辿ることもできる。だが、それだけだ」

「違う……あと少しだった」

 声が震える。

「違わない」


 父の声は低く、迷いがなかった。

「水記は万能じゃない。どれだけ極めても、失った命そのものには届かない」


 その言葉が、重く落ちていく。


 水面を睨みつけた。滲む月明かり。濁った波紋。あと少しだったのに。こんなにも近く感じたのに。

「なんでそこまで見えるのに、届かないの……」

 唇が小さく震える。

 なぜ届きそうな距離まで見せておいて、最後だけ奪うのか。熱いものが喉元まで込み上げてきた。


 その理不尽さが、じわじわと内側を焼いていた。


* * *


 風花ノ郷では珍しく、空一面を灰色の雲が覆っていた。

 屋根を叩く雨音は低く単調なはずなのに、今日は妙に耳へ残って離れない。

 あの日から数日、いつものように書庫へ籠もる日々が続いている。水記の文献を閉じても、苛立ちは消えない。


 届きそうで届かない。

 あの感覚が、ずっと頭から離れなかった。

 だからこれまでよりさらに奥の棚へ手を伸ばしていた。


 外界資料がまとめられた区画。昔はただ難しそうな本が並んでいるだけに見えていたそこが、今は――別の世界への入口にしか、見えなかった。

 古びた革表紙へ指を滑らせ、一冊の文献を引き抜いた。


『外界複合術式論』

 見慣れない文字列。複雑な魔法陣。風花ノ郷の術式とは、根本の考え方から違う。


 ページをめくる指が、止まらなくなった。

 記憶結晶。感情保存。精霊媒体。魔力増幅。

 知らない術式が次々と目へ飛び込んでくる。そのどれもが、自分の知らない可能性を孕んでいた。


「……こんなの、ありなんだ」

 思わず零れた声は、雨音へ溶けて消えた。

 もしこれを使えば。もし風花ノ郷の術と組み合わせれば、もっと深く、もっと遠くへ——届くかもしれない。そんな考えが、次々と頭を埋め尽くしていく。

 雨音すら遠のくほど、ただ目の前の術式に、すべてを吸い込まれていた。


「……面白いか」

 振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに父が立っていた。

 反射的に本を閉じかける。けれど父は止めなかった。むしろ、その表紙を見て小さく目を細める。


「そっちへ行ったか」

「……読んじゃ駄目だった?」

「いや」

 父は首を振った。

「お前なら、そのうち辿り着くと思っていた」


 本棚へ背を預けたまま、父は続ける。

「外界の術は、風花ノ郷とは違う。危険なものも多いが……その分、発想の幅が広い」

「……全部、里にはない考え方ばかりで」

「ああ」

 短く頷く。

「だからこそ外には、術を学ぶための場所がある」


 そこで一度、言葉が止まる。

 自然と顔を上げていた。


「……リュミエール高等学院」


 その名前が出た瞬間、心の奥底で、冷たい歯車が静かに回り始めた。

「あらゆる種族が集まり、外界術式を研究している場所だ。風花ノ郷の術とて、解析の対象にすぎん。……時代は変わる。閉じたままでは、いずれ取り残されるぞ」

 かつて外を知り、それでも里へ残った者の声だった。


 視線を落とす。

 開いたままの文献には、見たこともない理論で構築された、あまりにも複雑な術式が並んでいた。

 嫌なのに。怖いのに。それでも知りたいと思ってしまう。


 そこに、答えがある気がしてならなかった。

「……私は」

 唇が小さく動く。


「外なんて、嫌い」

 その言葉は、自分へ言い聞かせるみたいだった。

 父は何も返さない。ただ、開いたままの文献へ視線を落とす。

 雨音だけが、書庫の中へ響き続けていた。


 けれどその夜。

 布団へ入って目を閉じても、頭の中にはあの文献が残り続けていた。

 知らない術式。知らない世界。そして——リュミエール高等学院。

 その名前を思い浮かべるたび、何かが揺れる。


 怖い。憎い。


 それでも——それだけじゃなかった。

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