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XVI.【4-2】「板戸の向こうで」

 息を吸うたび、喉の奥がひりつく。

 翌朝、いつものように早く目を覚ましたフィオナに残っていたのは、そんな妙な疲労感だけだった。

 夢を見ていた気はする。けれど内容はうまく思い出せない。


 ぼんやりと天井を見上げていると、ふと耳の奥で声が蘇る。


『行っちゃやだ……!』


 その瞬間、眉がぴくりと動く。

「……は」

 乾いた息が漏れた。

 今の声は、自分。昔の、自分。怖がるルルに後ろを追いかけさせてばかりだった頃の、弱くて、何も守れなかった自分。


 奥歯が軋む。喉の奥を、指先で引っ掻かれるような感覚だった。

 また出てきた。


 閉じた瞼の裏、頭の奥にある書庫。その一番奥の古い板戸が、ぎしりと小さく揺れる。

 閉じ込めたはずだった。もう必要ないと思った。泣いてばかりで、誰かへ縋ることしかできない自分なんて、あの夜に置いてきたはずなのに。


 それでも時々、こうして隙間から漏れ出してくる。子どもへ手を伸ばした時。夢を見る夜。風に触れて、少しだけ安心してしまった時。全部、あっちの自分だ。


「……消えればいいのに」

 吐き捨てた声は、自分でも驚くくらい冷えていた。


 返事はない。

 ただ板戸の向こうから、春の日みたいな笑い声が、微かに聞こえた気がした。


* * *


 昼下がり、書庫から借りた資料を抱え、人気の少ない森沿いの道を歩いていた。最近は寺子屋へ顔を出すことも減り、こうして一人で過ごす時間の方がずっと長い。

 風が枝葉を揺らす音だけが、静かに耳へ流れ込んでくる。


「いたっ……!」

 短い悲鳴と、何かが転がる音。

 顔を上げると、数歩先の斜面で小さな女の子が尻もちをついていた。木の根に足を引っかけたのか、抱えていた籠がひっくり返り、木の実が辺りへ散らばっている。

 膝も擦りむいていた。


――赤。


 視界に飛び込んできたその色を見た瞬間、呼吸が一瞬詰まる。

 けれど次の瞬間には、もう身体が動いていた。


「動かないで」

 駆け寄り、しゃがみ込む。女の子が驚いたように肩を揺らした。

「ひ、フィオナお姉ちゃん……」


「見せて」

 短く言いながら傷口へ触れようとした、その時。


 女の子の身体が、びくっと強張った。

 怯えた目だった。それが正しいと、どこかで思った。それだけだった。

 手が止まる。


「あ……」

 女の子は慌てたように首を振った。

「ご、ごめんなさい……!」


 謝らせたかったわけじゃない。怖がらせたかったわけでもない。

 なのに、喉がうまく開かなかった。

 少し前までなら、こんな顔はされなかったはずだった。


 黙ったまま、水筒の水を布へ染み込ませ、できるだけ静かに傷口を拭う。女の子は小さく肩を縮めたまま、それを見ていた。

 その距離感が、妙に現実だった。

 治療を終える頃には、風だけが二人の間を通り抜けていた。


「……もう大丈夫」

 それだけ告げて立ち上がる。女の子は何か言いたそうにしていたけれど、振り返らなかった。


 散らばった木の実を拾うことすら忘れたまま、その場を離れる。

 背後で小さく「ありがとう」と聞こえた気がした。


 けれど、その声はうまく耳へ届かなかった。


* * *


 家へ戻ったあと、水盤の前へ座り込んでいた。

 静かな水面に、自分の顔が映っている。

 ぼんやり見下ろしていると、違和感が込み上げる。いつからだろう。自分の顔を見ても、自分じゃないみたいに感じる時が増えた。


 目が冷たい。

 昔みたいに、表情がころころ動かない。笑い方も、もうよく思い出せなかった。水面の向こう側にいる少女は、まるで全くの別人みたいだった。


 不意に、水面が揺れる。

 風が吹いた。

 窓の隙間から入り込んだ空気が、水へ小さな波紋を作っていた。歪む景色。揺れる銀髪。その一瞬だけ、水面の奥に昔の自分が重なる。

 丘を走っていた頃の自分。ルルと笑い合っていた頃の顔。

 頭の奥で、板戸が軋む音がした。


――まだいる。


 反射的に目を伏せる。

 違う。あれはもう必要ない。誰かを信じて、笑って、守りたいと願っていた自分は、あの夜に置いてきたはずだ。そうしなければ、きっとまた失う。


 水面へ映る自分を見つめながら、ゆっくり拳を握り締めた。


「……こんなんじゃ、足りない」


 その呟きが誰へ向けたものなのか、自分でもわからなかった。

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