XV. 【4-1】「春の笑い声」
相変わらずの静けさに包まれた、風花ノ郷の朝。
木々を揺らす風の音、どこか遠くで軋む水車。寺子屋へ向かう子どもたちの笑い声も、以前と変わらず里の中へ溶け込んでいる。
何も変わっていない。変わってしまったのは、自分だけ。
縁側へ腰掛けたまま、ぼんやりと庭先を眺めていた。最近は寺子屋へ行く日も減っている。父も母も何か言いたそうにしながら、無理に連れ出そうとはしない。ただ見守っている。
その優しさが、時々ひどく苦しい。
風が吹き、白い花弁が庭を転がっていく。その動きを目で追っていると、どこかで誰かが走る足音がした。石畳を踏む小さな音。最初は意識の端に引っかかっただけだった。
「わっ……!?」
外から、小さな悲鳴。
ほとんど反射だった。気づけば立ち上がり、庭を飛び出していた。
家の前の石畳で、小さな男の子が転んでいた。抱えていた木箱を落としたのか、果物が辺りへ散らばっている。膝を擦ったらしく、目に涙を浮かべていた。
「だ、大丈夫……?」
声をかけながら駆け寄った瞬間、胸が強く軋んだ。
泣きそうな顔。震える肩。助けを求めるような視線。
ほんの一瞬、そこへルルの姿が重なる。
息が詰まった。
「フィオナお姉ちゃん……?」
不安そうに名前を呼ばれ、はっと我に返る。
「あ……」
伸ばしかけていた手が止まった。違う。ルルじゃない。わかっているのに、身体だけが勝手に動いていた。
小さく唇を噛むと、散らばった果物を拾い集め始めた。
「ほら、立てる?」
「う、うん……」
男の子は目元を擦りながら頷く。
「……もう転ばないように気をつけなよ」
それだけ言って立ち上がる。男の子が「ありがとう」と小さく笑ったけれど、振り返らなかった。
早足で縁側へ戻りながら、視線だけを地面へ落とす。手が、まだ微かに震えていた。
* * *
夜更けに水を飲みに起きていた母が、足を止めていた。
廊下の先、閉ざされた襖の向こうから声が漏れてくる。
「……危ないよ、ルル……」
かすれた声だった。静まり返った暗がりの中で、はっきり聞こえるくらいには。
その向こうで、微かに気配が動く。
気づかないまま、小さく苦しそうな息が漏れる。
「だめ……そっちは……」
襖へ手をかけかけて、結局開けなかった。代わりに、小さく目を伏せる。
閉ざされた暗がりの向こう。きっと今も月明かりが、あの子の横顔を淡く照らしているのだろう。
以前なら、寝ている時までよく笑う子だった。楽しそうな夢を見るたび、狐耳がぴくぴく揺れていた。
静かに唇を噛む。あのはじけるように笑っていた穏やかな寝顔は、もうどこにも残っていないのね――。
漏れ聞こえる苦しげな声に、ただ夜の暗がりだけが静かに寄り添っていた。




