1-02 真っ白だった未来絵図
相原心深は、毎日が楽しい高校生。優しい友達に囲まれて平穏な日々を送っていた彼女には、中学校時代に陰惨な虐めを受けていた過去があった。
しかしそれも過去のこと、今は毎日が幸せで、しかも今日は大好きな『お兄ちゃん』が久しぶりに家に来る日!
その帰り道に遭遇した中学校時代の同級生・山内清吾に乱暴され、心身に大きな傷を負ったその日から、心深の日常は変質していく。
これは、ひとりの少女がやがて幸せになるまでの物語。
チャイムが鳴って、午後の授業も全部終わり。早く帰れと急かしているみたいな音だったけれど、クラスのみんなにはあんまり関係なかったみたい。
ざわざわ賑わう教室のなか、わたしに話しかけてくる声。
「ねぇ心深、帰りどっか寄ってかない?」
「あっ、ごめん! 今日ね、久しぶりにお兄ちゃんが帰ってくる日なんだ! えっと、」
「うんうん、大丈夫だよ。心深はお兄ちゃん大好きだもんね~」
どこか茶化したような笑顔に「いや、違う! 違うから!!」って、別に否定しなくていいことを思い切り否定してしまった……。うぅ、ごめんね、お兄ちゃん。心の中で軽く謝ってから、わたしはまたいつも通りに話しながら帰路につく。
今日の授業の事とか、昨日やってたドラマの話とか、いろんなこと。
「じゃあ、今日は心深のお兄ちゃんデーだから仕方ないけど、」
「だからお兄ちゃんデーって……!」
「あはは! うん、じゃあ今週の土曜スイーツ行こ?」
ニヤニヤしつつも、そうやって代案を立ててくれる優しい加奈に抱きつこうとしたのを止められたところで、わたしたちはそれぞれの帰り道に差し掛かった。
「なんか、いい友達できたな」
中学のときは……。
ううん、そんなこと考えない! 首を振って、代わりに今のことを思い返す。
少し遠い地区の高校に入って、新しい環境の中で新しい友達ができて、新しい世界が開けて。
たぶん、これで。
きっと幸せになれる。
「それに、今日はお兄ちゃんも来てくれるし♪」
楽しみだなぁ、お兄ちゃんに会えるの!
お兄ちゃんと呼んでいるけれど、お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんではない。
名前は坂田義之さん。4つ年上で、小さい頃からよく一緒にいた人。ほんとのお兄ちゃんはいないけど、わたしにとってのお兄ちゃんは、ずっといてくれた。
大切にしてくれて、大切にしたくて、大好きな人。
お兄ちゃんに何話そうかな、何聞いてもらおうかな?
「ふふふっ♪」
嘘もつかず、ただ楽しみに日常のことを話せるなんて。ほんと、今のわたしは幸せだ。
あの頃──自分のことが大嫌いだったわたしから、変われそう。
きっとこの先もいっぱい、
ドンッ!
「ぅわっ!?」
弾む気持ちのまま駆け出したら、曲がり角の向こうから来ていた人にぶつかってしまった。
「す、すみません!」
「ってぇ……」
「え、」
その声には、聞き覚えがあって。
「あ、心深?」
覗き込んできた視線は、記憶通り怖くて。
わたしは、固まっているしかできなくて。
「へぇ、何か久しぶり? 元気してた、心深?」
「……っ」
久しぶり、なんて。
とても思えなくて。
まず最初に立ったのは、『怖い』っていう気持ち。
わたしがぶつかった相手は、山内 清吾くん。わたしが中学校の頃に同じクラスだった男子で、たぶん最初にわたしに目をつけた人。
背が高くて、緩くカールした髪型とどこか冷たそうな表情が人気で、たぶんわたしも一時期は気になっていたと思う。でも、冷たいを通り越して怖い雰囲気のある目付きとか、いつも何となくタバコの匂いがするところとか、たまに聞く噂とか。
そういうのが怖くて、『ちょっと気になる』以上の気持ちは持てなかった。
それにたぶん、友達が山内くんと付き合ったことが大きいのかも。
最初は毎日が楽しそうだったのに、すぐに変わってしまった。よく泣くようになって、夜中まで愚痴をこぼすようになって、わたしが訊いたことに対して口ごもることが増えて。
そうなった彼女は、結局山内くんと別れてからもおどおどして、それまでの明るい姿を見られなくて。
それで、余計に山内くんを怖いと思うようになっていたんだ。
だから。
中学3年生の夏休み前、1学期最後の日直で残っていたとき。
『なぁ、心深』
そう呼んだ声はとても聞き心地のいいものだったけれど。
『いきなりなんだけど、俺と付き合わね?』
『えっと、ごめんなさい』
よく考えるよりも前に──保留とかすらせずに、すぐ断ってしまった。それが、悪夢のような日々の始まりになってしまうなんて。
……せっかく、解放されたのに。
今、目の前にはまたあの頃みたいな怖い笑顔を浮かべた山内くんが立っている。どうしよう、早くこの場所から離れなきゃいけないのに。謝るとかして離れなきゃいけないのに。足がすくんで動けない。
ううん、怖い笑顔なのかもわからない、だって、怖くて見られない。
あれ、おかしいな。
さっきまで見えてたのは、楽しい日々の先の楽しい未来だったのに。アスファルトに糊付けされたみたいに、棒立ちになったままのわたしの影は動かない。やっと動けたのは、山内くんの「おい」という、最後にちゃんと聞いたのよりもっと低く、怖くなった声で。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「何に謝ってんのかわかんないけど?」
「えっと、え、えっ、」
「痛かったなぁ……」
「えっと、あの、えっと、前見てなくて、それで、ぶつかっちゃって、あ、ご、ごめ、」
「いいや、飽きたし」
「え、あの、」
「まぁとりあえずさ、今回のことは覚えとくから。ストック1、かな?」
「や、やめて!」
ストック。
中学生のわたしを捕らえた、悪夢のような言葉。
それはもう聞きたくなくて。
どこかへ行ってしまいそうな山内くんに、しがみついてしまった。それで、言ってしまった。
「お願いだから、どんなことでもするから、ストックにはしないで! ちゃんと今で終わりにして! 何でもしますから!!」
「ふぅん、いいよ?」
彼の上機嫌な声に、わたしは怖くて怖くてたまらなくて、ずっと下を向くしかできない。どこか機嫌のよさそうな手つきでわたしの手首を引っ張る彼に逆らうのが怖くて、ただ俯いていた。
楽しげに歩く背の高い影と、その影にちょっと転びそうになりながらもついて行く小さな影。わたしが履いているのよりはもちろん大きい――でも、お父さんとかが履いている革靴よりはどこか子どもっぽくて小さく見える、真新しいローファーの後ろ。見慣れないブレザーの後ろ姿。
流れるように過ぎていく、人気の少ない、わたしのお気に入りの帰り道。
たまに猫がお昼寝している石塀。
郵便ポストの下に可愛らしい小人の置物がいっぱいある民家。
優しそうなお婆ちゃんがニコニコしながら店番をしているタバコ屋さん。
ちょうどクラブ活動が終わって帰る時間なのか、楽しそうに歩いている小学生たち。
時々「あー、カップルだー!」という無邪気な声が聞こえて、たぶん山内くんが何か答えていて。
たぶん、楽しそうな声だったと思う。
きっと小さい子の前ではいいお兄さんなんだろうな、と思うような声音だった。
どれも、普段わたしひとりで眺めている帰り道。
わたしの家の近くに友達がいないこともあるけど、ちょっと寂しかったのは確かで。
そんなところを誰かと歩くなんていうことは──たとえそれが山内くんと一緒だったとしても、ちょっとだけ嬉しいような気もして。
見た目は、かっこいいから。
機嫌がいいのか、今日は優しいから。
そう思っていたから。
「あ、あの、どこ行くの?」
「あぁ、……内緒」
「えっ、何で?」
「だってその方が面白そうっしょ?」
そう笑った顔が、たぶん初めて見るくらい無邪気だったから。たぶん、それでわたしの心は一瞬だけ、彼に奪われてしまった。
お兄ちゃんが帰ってくるのに、どうしても、家に帰るよりも山内くんの言葉に従って歩く方がわたしの中で先に立ってしまっていて。
だから、帰り道からだいぶ逸れたところに来るまで、帰りたいという一言すらも言い出せなかった。
「あ、あのっ、山内くん」
「ん?」
「えっとね、今日、久しぶりにお兄ちゃんが帰ってくる日で……っ! だから、わたしも今日はもうそろそろ帰らないと、」
「もうちょいだから」
「え、でもこれ以上行くと家からすごく遠く、」
「もうちょいだから」
「また今度、あの、今日は、」
「もうちょいっつったよね」
「────っ!!」
それまで優しかったのが嘘みたいに冷たくて、低い声。
わたしは、たぶん勘違いしていたんだと気付いても、もう家に帰るなんて言えなかった。言ってしまったら、何をされるか、どんなストックを貯められてしまうか、そのストックをいつ、どこで使われてしまうか。
わかったものじゃない。
前は、冬休み前に山内くんの彼女だった寺島さんの机に唾がかかった(らしい)ことのストックとして高校試験の当日に自転車のタイヤをパンクさせられてしまった。
山内くんの呼びかけに応えるまでに10秒かかったストックとして、1週間後の給食に生臭いものをたっぷりかけられてしまった。
1番酷かったのは、寺島さんの友達に言い返したストックとして……、
「よーし、着いた!」
「何、ここ?」
くねくねと長い坂道を上がった先。
たぶん、用事がなければ誰も近付かないんじゃないかっていうほど人気のないそこに並んで立つ2つの影。そのうちの長い方が誇らしげに指差した先にあったのは、ボロボロになった小さなおうち。
「ここだよ、来たかった場所」
「え、何で?」
誰もいない、誰の声も聞こえない、怖い。
怖い。
怖い。
だけど、そんな声を聞いてくれるのは、今は山内くんしかいなくて。
「何でもすんだろ?」
わたしを見下ろした笑顔は、暗くなり始める空の下で、はっきり見えなかった。





