1-24 烏女秘抄
その女、大力無双にして豪放磊落、そして胡桃狂い。
時は室町、烏女と呼ばれた化生にまつわる物語。
※この作品には、流血表現がございます。苦手な方はご注意ください。
がさり、と音を立てて、紅色の梢が揺れた。次いで、一粒の胡桃が落ちる。胡桃は道行く女の菅笠にぶつかって、それから地面に転がった。
女はさして驚いた様子もなく、のんびりと小袖の袖をさばくと、胡桃を拾い上げた。とたん、彼女の黒々とした瞳は、手中の木の実に釘付けになる。
立派な胡桃であった。粒の大きさも然ることながら、肌にしみ込むような重みがある。木漏れ日をまとう殻はつやつやと麗しく、瑞々しい。ひび割れはなく、硬さも十分。これはさぞ、美味い実がぎっしりと詰まっているに違いない。
なかなかお目にかかれない、素晴らしい一粒である。しかし、一体どこから落ちてきたというのか。
女は、辺りに頭を巡らせた。
まさしく、山燃ゆる。炎と見まごうばかりに溢れかえる、紅と橙。どこもかしこも紅葉ばかりだ。胡桃の木など、一本も生えていない。せせらぎが聞こえるであるとか、湿り気を帯びた風が吹くであるとか、そのような水の気配もない。水辺を好む胡桃とは、縁遠い山道だった。
摩訶不思議な胡桃を手にしたまま、女は頭上を振り仰ぐ。色付いた葉陰に透ける、黒い影。
「さては、お前の仕業だな?」
女の言葉に答えるように、梢の合間から一羽の烏が現れた。
があがあと、烏が鳴いた。
「やはり、この胡桃はお前が落としたのか」
女が言えば、またしても烏はがあがあと鳴く。まるで会話をしているようだ。いや、会話をしているよう、ではなく、実際に会話をしていた。ひっつめた黒髪、鼻の周りにはそばかす、小豆色の小袖、という風体の、どこにでもいそうな素朴な女であったが、彼女には烏の言わんとしていることが分かるのだった。
「そうだ、私は烏女だ。なんだ、私のことを知っているのか。それで、挨拶がてらにこの胡桃を私にくれる、と。ありがたや、ありがたや」
と、女——烏女は拝む。すると、烏は一層激しく喚きたてた。そうじゃない、違う、とそう言っている。
烏女は声を立てて笑った。
「冗談だよ。これはお前のだ。ほら」
言いながら、烏女は胡桃を握りしめる。盛大な音と共に、硬い殻が割れた。
「割ってほしかったんだろ。お食べ」
烏女が真っ二つになった胡桃を放り投げれば、烏は早速舞い降りて、中身をつつき始めた。烏の喉から、あうあう、と犬に似た声が漏れる。よくやった、よくやった、と喜んでいる。
烏は胡桃が大好きだ。しかし、その頑丈な殻を割るのは簡単なことではない。高いところから何度も落として割るのが定石だが、この烏は烏女のことを――素手で胡桃の殻を割れる奴だと、知っていたから、わざと頭の上に落としたのだ。
「私を頼ってくれるとは、初い奴だねぇ」
烏女は、嬉しそうに胡桃をついばむ烏を眺めている。その眼差しは、まるで子供を見守る母親のようだ。
上手く食えない、とふいに烏が鳴いた。胡桃の片割れをくわえて、ぽいっと放る。
「上手くほじれないのか?」
どれどれと、烏女が胡桃をつまみ上げる。確かに、ぎっしりと実が詰まって隙間がなかった。食べがいのある立派な実であるが、こういうところは少々困る。
中身を取り出すには、殻を粉々に砕いてしまうのが手っ取り早い。しかし、烏女はためらった。この硬さ、しわのでこぼこ具合、粉々にするのは惜しい。
どうにかほじくり出せないか、と烏女が胡桃の実に爪を立てた、そのとき。
甲高い奇声が上がった。
烏が慌ただしく飛び立つ。刹那、十歩先の茂みから、子供が一人まろび出てきた。
せっかくの食事を邪魔するとは、なんと不躾な輩であろう。烏女は目をすがめた。
子供は、異様な有体であった。
年の頃は十余り、体にまとう着物はところどころ破れており、襤褸もいいところ。男子のようだが、袖や裾からのぞく手足は細い。そして、大振りの刀を握り締めていた。陽光を受けて、ぎらぎらと閃く長い刃。子供の手には不釣り合いな大太刀だ。
子供は、烏女に刃先を向けたまま動かない。烏女を襲う意志は確かなようだが、刃先はぶるぶると震え、まるで定まっていなかった。そのうえ、腰が引けている。明らかに怯えが見てとれた。
野盗だろうか。このご時世、子供が賊に身を落とすことは、少なくない。とはいえ、胆力に乏しい有様は、あまりにもらしくない。
胡桃の片割れをもてあそびながら、烏女は子供に向かってにこりと笑いかけた。
「こら、そんな物騒なもんを向けるんじゃないよ」
子供の幼い喉仏が上下に動く。いっときの静寂。そして、彼は叫んだ。
「首をよこせ!」
大きく刀を振りかぶり、子供は烏女に向かって突撃した。
それは狂気のなせる技なのか。身体に見合わない大太刀を持っているというのに、子供の動きは速かった。しかし、烏女は動じない。やれやれとため息を吐くほどの余裕を見せながら、手中の胡桃をぱっと投げつける。胡桃の礫は、一寸の狂いもなく子供の手を打った。
「いだっ!」
悲鳴と共に、子供は得物を取り落とす。烏女はすかさず近づいて、大太刀を拾い上げた。
澄んだ刀身に、烏女の顔が映りこむ。武骨なつくりのわりに、刃は美しい。淡い輝きをたたえているのは、丁寧に磨かれた証だ。良い刀である。襤褸をまとった子供が持てるものではない。
返し返し刃を眺めながら、烏女は尋ねた。
「これはどこで手に入れた?」
「か、返せ!」
聞く耳なく、子供が叫ぶ。
烏女は、流れるような手さばきで、大太刀を子供の眼前に突きつけた。
「うわっ!」
声を裏返しながら、子供は無様に尻もちをつく。
烏女は鷹揚に尋ねた。
「これを返したら、何をする気だい?」
「おっ、お前の首を切る!」
声は出ている。しかし、その威勢の良さとは裏腹に、子供はじりじりと後退してゆく。それでも逃げようとはせず、尖った目で一筋に烏女を睨んでいた。
「そんなに私の首が欲しいのかい?」
烏女は眉をひそめた。己の首に、それほどの価値があっただろうか。お尋ね者になった覚えはない。こんなしがない女の首を獲ったところで、なんの得にもならない。
それでも子供は頑なに、同じ言葉を繰り返す。
「そうだ、首をよこせ!」
「……そうかい」
頷きながら、烏女は刃先を下ろした。それから、改めて子供を見る。
ぼろぼろの格好、不釣り合いな大きな太刀。そして、やけに首級を――しかも、なんでもない女の首を、欲しがるところ。単なる物取りにしては、様子がおかしい。これは、裏に何かある。
ひとまず、求めに応じて様子を探ってみるか、と烏女は思った。
「よし、そこまで欲しいならくれてやろう」
朗らかに言い切った烏女は、ぐるりと腕を回し、自身のうなじに大太刀をあてがった。鉄の冷たさが、肌に吸い付く。
「ちゃんと拾っておくれよ」
ぽかんと目を丸くした子供に向かって、烏女は今一度笑いかけると、己の首に刃を押し込んだ。
案の定、名刀であった。肉も骨も一刀両断。鮮血がほとばしり、烏女の頭がぼとりと地に落ちる。
子供は、ますます目を丸くした。やはり肝が据わっていないな、と烏女は思った。
菅笠がすっ飛び、女の頭が鞠のように転がる。そのかたわらで、残された肢体が、ゆっくりとくずおれた。生臭い、嫌なにおいが立ち込め、清らかな山の空気を汚す。
子供は微動だにしない。眉の一本も動かさずに、女の死骸をじっと見つめている。ふっくらとしたあどけない額には、玉のような汗が浮かんでいた。
一粒の汗が頬をつたい、地面に滴り落ちる。
烏女は痺れを切らした。
「何をぼんやりしているんだい」
生首のまま、ごぼごぼと血を吐きながら言う。
「首が欲しかったんだろう? ほら」
首無しの体がのっそりと起き上がり、自らの頭を子供の足元に放り投げた。
はてさて、ここは地獄であろうか。生首がしゃべり、首無し死体が動き回るなど、到底現世ではあり得ない。この世のものとは思えない光景に、子供はその小さな肝を潰したのだろう。
「ひぐっ……」
と、くぐもった声を漏らすと、ばったりと倒れた。
「あれ、驚かせすぎたか」
目を瞬かせる烏女の頭上で、烏が鳴いた。やりすぎだ、と言っていた。





