1-23 プリズマ・ネクロス ―忘却の自己犠牲ダンジョン―
名前を知った相手しか救えない。
だが救った瞬間、その人物から自分の存在は消える。
死んだはずの青年が目を覚ましたのは、
命を取り戻すための「自己犠牲ダンジョン」。
七つの層から成るその世界は、“落ちる”ことで次へと進む。
最初の落下で出会ったナビゲーターを名乗る男は、世界のルールを告げた。
――名前を知った相手しか救えない。
――だが救った瞬間、その人物から自分の存在は消える。
他者を救おうと願ったとき、状況に最も適したスキルが発現する。
自己犠牲という代償を伴って。
関係を築き、絆が生まれたその先で、それを壊すことになる。
生き返るために人を救い、救うために絆を壊す。
青年は記憶も名前も喪ったまま、
つながりを重ね、そのすべてを手放していく。
――最後に呼ぶ名は、誰のものか。
――落ちる!
ガクンッ、と。抗えない重力に身体が引きずり降ろされた。
何かを掴もうとした指が、空を掻く。足場が急速に遠ざかっていく。
古びたブーツの爪先越しに流れていく景色は、見たことのない色をしていた。
壁一面に、光が散っていた。
赤、橙、黄、緑、青、紫――
樹の中にいるみたいだ。
歪に張り出した壁に、誰かが掴んだような窪みが点々とある。
まるで壁全体が息をするように、不規則な明滅が網膜を焼いた。
「なんだよ……ここ」
見覚えなど欠片もない景色。
それでも頭は無意識に、知っているものに当てはめようとする。
光とか、色とか、樹とか。
それらが当たり前にあった世界を思い出そうとすると、頭が締め付けられるように痛む。
「ぐ……っぅ……」
耐えられない痛みに、身体を縮こまらせた――刹那。
「うわっ……!?」
突然、背中に何かが触れる。咄嗟に受け身を取った掌に、膜のような感触が伝わった。
(どこかに、着いた……?)
落下のせいで何倍もの重さで膜にかかる体重。グンッと深く沈み込むしなやかな弾力は、張り付くように肩を包み込む。
ほっと安堵したのも、一瞬。
「……へ?」
バリッ、と。耳元で弾ける不穏な音。わずかな裂け目は一瞬で大きくなり、再び身体が空中へと放り出された。
本能的に両手足をバタつかせながら、やけくそで叫ぶ。
「なん、なんだよっ、もう……!」
混乱のまま、強く目を瞑る。真っ暗になる視界の中で、一発の銃声が響いた。
「――っ」
ビクンッ、と跳ね上がる身体。サァと血の気が引いて額が冷える。
高速で回りだす記憶。
銃声と同時に、近くで血を噴いて人が倒れた。
悲鳴と、逃げ惑う足元。押し寄せる人の波に呑まれ、息が出来ない。
「あ、ああ、あ……」
歯の根が合わず、ガチガチと鳴る。咄嗟に髪を強く握った。
ああ、そうか。
「俺は、あの時」
握った指を緩めて、息を吐く。震える余韻に乗せて、言葉がこぼれた。
「――死んだんだ」
魂ごと抜けていくように、頬の筋肉が緩んだ。硬かった指先も緩んで、力が解けていく。
抗うのをやめた途端、身体が軽くなった。
「……い。おい! 寝てんのか?」
耳のすぐ傍で触れる息遣いと、声。
ビクリと肩を跳ね上げ横を向く。薄汚れたローブを着た男がいた。
彼も、落ちている。
男はフードの端を掴み、重力に抗って頭から外す。現れた銀髪をブルッと振って、彼は呆れたような目を向けてきた。
「落ちながら寝るとか、器用なヤツ」
「んなっ……、寝てねえよ!」
「んじゃなんだよ。どこにも力入ってなくて、ただ引っ張られてるみたいな格好でさ。やる気あんの、お前」
好き勝手すぎる物言い。そして、口が悪すぎる。
「落ちてんだからしょうがねえだろ」
「それがルールだ、バカ」
「な、ぅ、ば……っ!?」
反論しようとした唇を、相手の指が塞ぐ。不安定な姿勢のまま唇にピンポイントで触れられる不思議を思いかけて、論点はそこではないと思考を打ち消した。
目の前の相手に据える怪訝な目。
相手は、唇の片端を吊り上げて不敵な笑みを浮かべる。中性的で、整った顔立ちに似合わない笑みだった。
「この世界の移動は〝落ちる〟だ。それ以外はない」
「世界?」
「この世界は層で出来てる。ステージを移動するときは、常に天地がひっくり返んだよ。膜の上に落ちて、破れなかったら……そこが次のステージだ」
ようやく、指が離れた。開放された唇から息を吸い込み、吐かずに留めて頬を膨らませる。
「なんで知ってて当然みたいな空気なんだよ」
男は瞬きを繰り返し、短く息を吐いた。そして、腕を組んで上――正確には下を見る。
「なーんも覚えてねえか……仕方ない。膜を超えると、記憶がリセットされんだもんな。やっぱひとつでもステージクリアしねえと、スキルも得られないか」
「リセット……? スキル……?」
まるでゲームの話でもしているような単語が並ぶ。
不意に、男が手を伸ばした。その手はこちらの衣服の襟元を乱暴に掴み、引き寄せる。
「うわ……っ」
短い悲鳴を上げて、息を呑んだ。鼻先が触れそうな距離。お互いの呼吸が触れ合う。
妙にジリジリと疼く感触に、思わず唇をきつく噛んだ。男は目を細めて、小さく吹き出す。
「なんだ、部分的には覚えてんだな」
「……なにをだよ」
「さあな?」
わざとらしく目を逸らされる。明らかに揶揄われている空気に乗るのも悔しい。だから、あえて黙る。
男は焦らしに焦らしてから口を開いた。
「なんも分かんねえのは不便だろうから教えてやるよ。まあ、不便なのは俺にとってだけど」
「んだよ。もったいつけんな」
グルッ、と威嚇するように喉を鳴らす。一方で相手は急に真剣な目になった。
無意識に、息を呑む。
耳に寄る唇。そこで彼は、答えを告げた。
「ここは自己犠牲ダンジョン。お前が生き返るための世界だよ」
鼓膜を震わせ、脳に届く音。その声は内側を強く揺さぶる。
男は襟首から手を離し、そのまま軽く胸を押し出す。
距離が離れた瞬間、全身に強い衝撃が走った。
「んわっ……!」
さっきよりも固い膜に叩きつけられる。けれども跳ね返りは少なく、掌が触れた地面は固い。
落下の感覚が、完全に消えていた。
「え……着い、た……?」
反射で瞑った瞼を開き、周囲を見回す。薄く霧が立ち込めていて、遠くまで見通すことはできない――一面、不透明な世界。
少し離れた場所で男が立ち上がり、ローブについた汚れを払いながら言う。
「ここは第一のステージだ」
持ち上がる腕が、一点を示した。
指の先には、木材で組まれた看板がある。刻まれているのは記号を繋げたような不可解な文字だった――なのに、なぜか読める。
「アノ、ニマ……?」
読み上げた瞬間、その文字は風に溶けるようにして消えてしまった。
宿、広場、役所……矢印型の看板に書かれているはずの文字も浮き上がり、不安定に揺れている。
「おー、さっそく干渉すんなあ」
男は額に掌をくっつけて、遠くを眺める仕草をした。
のんびりとした口調でこぼれた干渉という言葉に、顔が引き攣る。
「お前は、この世界において異物だ。自分がなにをすれば世界がどう変わんのか、ちゃんと見極めとけ」
「な、ぅ……」
声を出すのも怖かった。唇を強く噛み、一心に男を見つめる。
男は緩く息を吐いて、肩を竦めた。
「しゃべんのは別に大丈夫だろ」
「う……だって」
「なに?」
男の目が、見極める色を帯びる。
「名前を言うと――消えちゃうだろ」
硬い声で告げた答えに、男は片頬を吊り上げた。
「……なかなか良い勘してんじゃん? たぶん正解だぜ、それ」
一度緩めた唇を、再び噛んだ。男は怪訝そうな顔になって、軽く首を傾げる。
「んで、また黙んだよ?」
「お前が何者か、分からないから。もし間違って呼んだら――」
男が目を細める仕草で、自分が失言をしたことに気づく。
慌てて目を逸らし、斜め下を向いた。頬の温度が上がり、耳たぶまで熱くなる。
「お前、俺に消えてほしくないんだな」
「んなっ、だ……ぁ、う」
反論を遮るように、男は不意に手を差し出した。
丸く見開いた目を瞬く間に、彼は薄く微笑んで自らを示す。
「俺はナビゲーターだ。お前と運命を共にする――最後まで」
混乱する頭にひとつ、運命を共にするという言葉だけが熱を持って響く。
差し出された手に、震える指を伸ばす。近づいたところで捕まえられ、強く握られた。
「さあまず、ここでの名前を決めようぜ――漂流者さん」
数秒、固まる。
ハッとして頭を振り、慌てて足元を見た。
「……ビビリすぎだろ。プレーヤーはあくまで役割であって、お前自身の名前じゃない」
「んぁ……まあ、そう、か」
納得したような、していないような。
胸に手を当てて、冷静に思考を巡らせる。何か引っかかる、違和感。
「……あれ?」
頭の中に、空白がある。とても大きな、白い穴。
そこにあったはずのものが、いくら思考を探しても見つからない。
「俺……俺の名前――なんだっけ?」
男はひとつ息を吐いて、目を細めた。
「それを取り戻すための世界だろ」
聞いた覚えのある台詞。同じ声で告げられた、世界の名前が脳裡に閃く。
「自己犠牲、ダンジョン……」
「そうだ。お前が生き返るため――お前自身を取り戻すまでの、ダンジョンなんだよ」
ゴクリ、と喉が鳴る。
「ま、そういうことだから。この世界での名前をとっとと決めようぜ。不便で仕方ない」
手持無沙汰のように空を眺める男の襟首を、気づけば強く掴んでいた。
「んでそんな冷静でいられると思うんだよ!」
「そういうもんなんだって、いい加減受け入れろ」
「――い、だっ!」
目の前で星が弾ける。強烈なデコピンが炸裂し、脳みそが揺れるような衝撃とジンジンとした痛みが走った。
額を押さえて蹲り、涙目になって見上げる。
見下ろす冷ややかな視線がくしゃっと崩れ、気の抜けた笑顔を向けられた。
白い空気を揺らす笑い声は、胸に詰まったものを少しだけ軽くした。
もう、どうにでもなれ。
「……名前を決めりゃいいんだな」
「うん」
「お前、ここが、第一のステージだって言ったよな?」
「ん? ああ」
名前と聞いて、思い浮かんだのは数字だった。
これから重ねていく予感と共に。
「俺は、イチにする」
男はそっと、口角を上げた。
「じゃあ俺は、アインだな」
「……お前だけカッコいいの、ズルいだろ」





