1-21 皇都の灼狼は叛逆の氷姫に愛喰らわれる
父に売られた雪の夜、柊花は地獄を選んだ。
皇都の闇を統べる極道の統領・御子柴蓮。彼が柊花を「買った」のは、偶然ではなかった。ひとの嘘と欲望が冷たい影となって視える少女と、激しくも哀しい炎を宿した男。遠い円環が閉じようとするその夜に、炎と氷はもういちど添うことを選んだのだ。
ねえ、あなたは、わたしの……ふふ。
「……雪」
小さく呟いて、柊花は灰色の空を振り仰いだ。
顔の前であわせた手のひらに息を吐きかける。
料亭を思わせる建物。大きい。華族の屋敷にも似ているが、つくりは異様だ。窓が極端に少なく、戸口は鉄製だ。非合法の組織の本拠地というのはたいがいそうした構造になっているものだが、柊花にはもちろんそんなことは分からない。ただ、気にもしていない。
裏口あたりの馬寄せ、その一隅に、柊花は背を丸めてしゃがみこんでいるのだ。匂いはきつかったが、雨避けの屋根もあり、わずかに馬の体温を感じることができたから、彼女はそこを選んだ。
指先の感覚はとうにない。履き古した草履の緒が凍傷になりかけた足指に食い込んでいる。けれど、その痛みさえもいまの柊花にはどこか他人事のようだった。
(……まだかしら)
賭場へ入る前、父はすぐに戻ると言った。もちろん彼女は信じなかった。その背にこびりつくようにへばりついたどす黒い影が、それが嘘であることを彼女に告げていたのだ。ただ、そんな能力を使うまでもなく柊花にはわかっていた。
柊花の瞳には、人の嘘や欲望が澱のような影となって視える。父の影は、ここ数日で見るに耐えないほど膨れ上がっていた。
ここは皇都の裏社会、非公認の賭博街。一帯を取り仕切るのは、泣く子も黙る極道、御子柴組だ。
父は、その御子柴が仕切る賭場にこのところ毎晩のように通い詰めていた。以前からの癖だが、夏に母が亡くなると歯止めがきかなくなった。柊花も止めない。咳がやまない母に優しいことばひとつかけたことのないその男を、あのひと、と彼女は呼ぶようになっていたのだ。ただ、違法な賭博で官憲に捕縛されるのは困るとおもっていた。母の看病で見合いをする間もなく、手に職を持っているでもない。しばらくは、あのひと、の厄介にならなければならないと考えていたのだ。
だから今日も、父に付いてきていた。言われたのだ。ほら、もし俺がつかまりそうになったら、おとっちゃん、って叫んで縋りついてくれ。それとな、あのヤクザどもに手を出されそうになったら、おんなじに。お上もヤクザも娘の目の前で無体なことはしないだろうさ。な、頼む。恩に着る。
柊花の意見は大きく異なるものだったが、拒否はしなかった。
と、がちゃり、と重厚な鉄扉が開く音がした。
柊花は弾かれたように顔を上げる。
賭場の勝手口から、数人の男たちが雪の中へと転がり出てきた。
「ま、まま、待ってくれ! あと一回、あと一回だけ勝負させてくれ! 次は必ず来る! わかるんだ!」
雪まじりの泥のなかに無様に這いつくばっているのは、父だった。
その父を見下ろしているのは、揃いの半纏をまとった強面の男たち――御子柴組の構成員だ。
「往生際が悪いぜ、久世の旦那。あんたの借金、幾らになるか分かってんのか?」
「か、金ならある! いや、すぐに作る! だから……」
「金貨百枚だ」
男の非情な宣告に、父が絶句する。
柊花も息を呑んだ。百枚。華族の屋敷が買える額だ。単なる博打の負けだけで短期間にそこまで膨らむはずがない。嵌められたのだ。
柊花は一度は息を飲み、だが、すぐに無表情に戻る。わかっていた。父は、誰かの意図によって、骨の髄までしゃぶり尽くされたのだ。だからこそ、連れて来られた。
「払えねえなら、約定通り――」
男の一人が、ぎらりと光る短刀を懐から引き抜く。
父は悲鳴を上げ、這いずって逃げようとする。逃げながら首を振り、柊花を探した。彼女は無意識に顔を逸らそうとしたが、むろんすぐに見つかった。その手が縋るように柊花の方へ伸びる。
「し、柊花! 柊花ぁ!」
まろびつつ走り寄ってくる。ただ、せんからの約束どおりに抱きつき返すことはできなかった。その気にならなかったし、その直前に当の相手に腕をつかみ上げられ、痛みと驚きで動くことができなかったのである。
「こ、こいつぁ俺の娘だ。柊花っていう。死んじまった嫁に似て器量がいい」
男たちは脚を止め、眉根を寄せて怪訝な表情を作っている。
「もう十六になる。飯も洗濯も上手だ。そ、それにな、それに、こいつ、ばけもんが見えるんだ。他人の背中にへばりついてる死神が見える。弱り目が見えるんだよ。博打のカモを見つけるのにいい。どうだ、いくらつける。いくらで買う」
男のひとりが、あ? というような息を吐いた。それを興味と受け取ったのだろう。父は柊花の腕をぐいと引き、背をついた。彼らの目の前に押し出す。
「ぼ、棒引きにしろとは言わない。半分でいい。少し色を付けてくれたら、それで大勝負して、必ず返す。な、頼む。頼みます……!」
柊花はその背で、父がばしゃんと泥の中に額をつけて土下座したのを感じた。同時に全身から血液がどこかに抜けていくような感覚。折からの気温によるものではなく、頭のてっぺんから冷えてゆく。
そうか。はじめから、そのつもりだったんだ。
俯いて強く噛んだ唇に、血がにじむのを感じた。
井戸か、厠か。わたしはどこで終わればいいんだろう。小刀をもってくればよかったな。
と、そのとき。
「……お、おやかた」
男たちの声。
いちど閉められていた扉が音もなく開いていたのだ。
暖かな室内から漏れる光を負って、だが、その影は一切の温度を纏わずに立っていた。
柊花には軍人と思えた。長身痩躯を包む装束は洋物だったし、そのすべてがもう陽の落ちた街路よりもずっと深い黒に染められていたからだ。かすかに抜けていった風に肩までの髪が揺れ、灼け炭のような朱を帯びたそれが女性と思わせるような艶を帯びていることを示した。足元は長靴。やはり黒。
薄く開いた目のなかで、色素の薄い瞳を男たちに這わせてみせる。
「み、御子柴……蓮……」
泥の中に膝をついていた父が、震える唇で名を呼んだ。
柊花でも聞いたことがある。この賭場の、そして御子柴組の統領。皇都の闇を統べる王。新聞には、灼狼、という二つ名で書かれることが多い。
だが、柊花は疑った。自分たちのような小物のまえにそんな男が現れるわけがない。だから、彼女は男の視線をまっすぐに受け止めることができたのだ。
男もまた、鋭い双眸で、降りしきる雪のなかに佇む彼女を射抜いている。まるで、待ち焦がれていた獲物を前にした獣のように。
「……連れてきたか」
男が短く呟く。その言葉に、柊花ははっとした。
この男なのか。父が博打に狂ったのも、借金が異常に膨らんだのも、そして今日、自分を連れてくるように仕向けたのも。
睨みつけようとした。その仕草がいけなかったのだろう。彼女のちからが、男の影を捉えた。男が負っているもののなかに、彼女を招いた。彼女のすべてが、埋められた。
わずかな時間だ。おそらく、まばたきをする間もないほどだったに違いない。
それでも、彼女は止めることができなかったのだ。
温度を失った頬の上を、あたたかな雫が転がってゆく。
目を見開いたまま、男の――御子柴蓮のその中心、見たこともないほど強く激しく、そうして哀しい炎を見つめながら、彼女は泣いていた。
「……選べ」
気づけば、 蓮は柊花の半歩の前まで歩み寄ってきていた。
薄く形の良い唇の端がちいさく持ち上がる。目を、細める。
「説明はしない。強要もしない。選べ。俺の地獄で灼き尽くされるか、君の地獄で泥と氷に塗れているか」
「……」
「選ばずとも、遠からずに逢うことになる。連環が閉じるときにな。だが……」
蓮は続けて言葉を置こうとしたようだったが、止めた。
柊花が彼の胸にその頬をつけたからだ。
彼女は、その行動を選んでいない。身体を動かしていない。驚きが浮かぶ前に、それでも安堵が彼女の感情のぜんぶを埋めた。その安堵がどこから来るのかも、もちろん彼女にはわかっていない。ただ、ふっ、ふっ、という小さな息をつきながら、戻るべき地獄を選んだ自らの行動を見つめている。戻るところを教えてくれた、とおい場所の光を懐かしんでいる。
「……買おう」
蓮が投げた声は、呆然として座り込んでいる父に向けてのものだ。弾かれたように顔を上げる。
「……え……?」
「金貨百枚。この娘ひとりでチャラにしてやる」
「ほ、本当か!? この役立たずの娘で、借金が全部……!?」
「お、おやかた……!」
色めき立つ男たち。だが、蓮の一瞥で黙り込む。
「た、助かった……恩に着る。恩に着るぞ。よし、よし、ならもうひと勝負、ふふ、少しは現金で返してやるよ、な、だから種銭を……」
ばき、り。
蓮の肩に縋りついた父の指が動くべきでない方向に動くと同時に、そうした音がしんとした街路に響いたのだ。
蓮は身動きをしていない。冷たい瞳をそちらに向けていただけだ。
絶叫し、悶絶する父を見下ろす柊花に、だが、感情が下りてこない。ふふ、と薄く笑いすらしている。
蓮の炎のなかで、彼女はもう、柊花ではない。
路地の向こうへ男たちに小突かれるように連れてゆかれる父。静寂が戻る。
「……もう一度、尋ねる。まだ思い出してはいないのだろう? いいのか、俺を信じて」
「信じてなどいません」
小さく囁き下ろされた言葉に、おなじように掠れた声を向ける。
蓮の頬に唇を沿わせ、その端から小さな牙を覗かせながら。
「わたしが選んだんです。あなたは、わたしの獲物だもの。ねえ……喰らってあげるから、灼き尽くして」





