第15話
「それ……嫌いなの」
ユスティナは一歩踏み出す。
「なら覚えろ。痛みは、生きている証だ」
その言葉に、【翅持ち】の瞳が針のように尖った。
次の瞬間、森が消えたように見えた。
速すぎて目が追いつかない。上下も左右も前も後ろも、すべてが羽音に塗り潰される。ぶぅん、ぶぅん、と低く薄い振動が鳴り響く。その薄膜の隙間から無数の白い骨針が撒き散らされた。
雨のようだった。
いや、もっと執拗で、悪意に満ちたそれが、獲物を嬲るように襲いかかってくる。
「全員、散れ!」
ユスティナの声。
リュシアは地を蹴った。足元の菌糸を踏み潰し、身体を低く沈める。右から来る一本をレイピアで弾き、左の二本を身を捻って躱す。
だが追いつかない。
肩、脇腹、太腿をかすめる。
どれも浅い。
致命傷には遠い。
それがかえって悪質だった。皮膚だけが裂かれ、神経の上を刃先でなぞられるような、鋭く嫌な痛みが走る。
アンテラの方も同じだった。頬に一本、腕に二本、脇腹に浅く一筋。それでも彼女は笑っていた。
「速いだけなら、まだかわいげがあるのにな」
血を吐きながら、アンテラが獰猛に笑う。
羽音。
次の瞬間には、もう天井に張り付いていた。菌糸から逆さにぶら下がり、【翅持ち】が裂けた口でアンテラを覗き込んでいる。
「醜いものが、美しさを語るのは不快なの」
アンテラが短剣を逆手に構える。
「やっぱり、かわいげがねえな」
言葉と同時にアンテラが跳んだ。正面から真っ直ぐ。馬鹿みたいにストレートで【翅持ち】に襲い掛かる。
それと同時に、リュシアも動いていた。左から、音を殺して。速さで勝てないなら、逃げ道を潰す。
「右上。半拍、後です」
ハーレインの声。
リュシアは右上へ踏み込み、レイピアをまっすぐ突き出した。
そこに【翅持ち】が現れた。
縦に裂けた瞳が、初めて驚きに揺れる。
ーー回避先へ、先回りされていた。
銀の刃が白い肩を深く抉り、生温かい血が手首を濡らした。初めて、リュシアの攻撃が届いた。
「……へぇ」
【翅持ち】が笑う。
痛みすら愉しむように。
「あなた、視えているの」
その視線が、ゆっくりとハーレインへ向く。
ハーレインはいつも通り穏やかに微笑んでいた。
「さて……なんのことでしょうね」
「《加護》持ち……いえ、まだ《萌芽》なの」
――《加護》。
それは、人類が神仏へ祈り続けた果てに、ごく稀に宿る異能。
「戦士」ですら届かない“奇跡”の力。
【翅持ち】は楽しそうに首を傾げた。
「なら、あなたを先に壊すだけなの」
翅が震えた刹那、白い指がハーレインの喉元へ届いていた。
だが、それより早くユスティナが踏み込んでいた。重い、圧倒的に重い踏み込み。大剣が地面を抉り、斜め下から天へ跳ね上がる。
【翅持ち】は避けようとした。だが、その翅が一枚、動かない。いつの間にか、アンテラの短剣から伸びた鋼線が、透明な膜翅を菌糸の壁ごと深く縫い止めていた。
血に濡れた口元を歪め、アンテラが笑う。
「自分が狩る側のつもりだったか?」
ワイヤーが、ぎち、と軋む。
「悪いな。あたしは、“狩人”を殺す者なんだよ」
【翅持ち】の瞳が、初めて大きく揺れた。
「っ――!」
「虫なら、羽を潰せば落ちるだろ」
初めて、【翅持ち】の声が明確に荒れた。
その瞬間、ユスティナの大剣が直撃した。
轟音。
翅ごと上半身を叩き潰す。骨が砕け、肉が裂け、透明な膜翅が千切れて雪のように空へ散った。【翅持ち】の身体は地面へ叩き落とされ、湿った鈍い音を立てて沈んだ。
沈黙。
アンテラが肩で息をしながら吐き捨てる。
「ざまあみろ」
だが、地面に伏した背が小さく震えていた。ぐちゃぐちゃに潰れた口元で、血を吐きながら、恍惚とした声を漏らしていた。
「……ああ」
ぞくり、とリュシアの背中を冷たいものが走る。
ーーまだ、終わっていない。
折れた身体がゆっくりと起き上がる。裂けた翅が震え、千切れた膜が肉の糸を引きながら繋がっていく。砕けた骨が音を立てて戻り、潰れた口元が再び歪な笑みを形作る。
再生。
速い、などというものではない。理不尽そのものだった。
「やっぱり、人間って」
潰れた顔が笑う。その声はひどく幸福そうだった。
ユスティナが大剣を構え直し、アンテラが舌打ちする。ハーレインは静かに目を細めた。リュシアはただ息を呑む。
ーーこれが、上位種。
四人で致命傷を与えて、なお立ち上がる。
本当に、殺せるのか。
こんな化け物を。
【翅持ち】は首を傾けた。折れた骨がぱきりと乾いた音を立てて戻る。
「非力で、醜いの」
ぶぅん。
羽音が低く沈む。森全体が呼応するように震えた。
「強いものだけが、美しいの。だから」
縦に裂けた瞳が、まっすぐにリュシアを捉える。
「あなたたちは、ここで死ぬべき」
ユスティナが大剣をゆっくり構え直した。呼吸は乱れていないが、鎧の隙間を伝う血が、その一撃が決して軽くなかったことを物語っていた。
「なら」
銀の瞳が静かに細められる。
「醜いまま、生きてやる」
その言葉に、【翅持ち】の笑みがわずかに歪んだ。理解できないものを見る顔だった。
「……どうして? 弱くて、脆くて、醜いのに。どうして、そんなに必死なの?」
それは嘲笑ではなかった。本気で分からないのだ。
ユスティナは重く、一歩踏み出した。
「理由なんて、後からついてくる。生きるのに、理屈はいらない」
その言葉が、リュシアの胸の奥に沈んだ。昨夜、あの部屋で自分に向けられた言葉と同じだった。
――生きろ。
ただ、それだけ。
それだけが、一番難しい。
【翅持ち】はしばらく黙っていた。
やがて、くすりと笑う。
「死にたくねえから、生きるんだよ」
アンテラの言葉が、【侵腐の森】に響いた。
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