第10話「人間を止める時」 ―逸脱の前夜―
◇
同じ頃。
東の拠点最上層、古い観測室。
ユスティナは地図の前に佇んでいた。鎧を纏ったまま、大剣を背に、北の一点を凝視する。
「入っていいとは言っていない」
背後に気配が忍び寄るより早く、彼女は告げた。
「では、入らずにこのまま話しましょうか」
ハーレインの声は柔らかく、しかし銀縁の眼鏡の奥に冷たい影が宿る。
――こういうところが、本当に面倒だ。
「……いい。入ってこい」
ユスティナは低く言った。
本当は、来てほしくなどなかった。
ハーレインが自分から来る時は、決まってろくでもない未来がやってくる時だ。
「……今回は、何が見えた」
ハーレインは肩をすくめ、静かに部屋へ滑り込んだ。
「いつも通り……ですが、今回はろくでもないものばかりです」
――やはり。
「北か」
「北です」
「誰が死ぬ」
刃のような問い。ハーレインは微笑んだまま目を伏せ、答えない。その沈黙が、すべてを語っていた。
「……全滅か」
ユスティナの喉が、わずかに鳴った。
それは指揮官としての確認ではない。
ただ一人の名を、まだ口にしたくない人間の沈黙だった。
「リュシアもか」
ハーレインの笑みが、初めて凍りついた。
「彼女は、死んではいけない」
「答えになっていない」
「ええ。答えていませんから」
ユスティナが振り返る。銀髪が夜風に乱れ、冷たい瞳の奥で感情が激しく渦巻いた。
「お前は前に言ったな。あの子は、いずれ世界を救うと」
ハーレインは静かに頷いた。
「あの時、私は見たのです」
彼の声は穏やかだが、底知れぬ憔悴を帯びていた。
「君が『もっと早ければ』と呟いた日の、あの子の未来を。血と灰と死体の道……その果てに、わずかな光が」
「世界を救う、か」
ユスティナの声がわずかに荒れた。
「それを、あの子一人に背負わせるのか」
「違います」
ハーレインは真っ直ぐ彼女を見つめた。
「我々が支えるのです。だから、代償は私が払います」
その言葉の意味を、
ユスティナは理解してしまった。
予知ではない。
理屈でもない。
ただ、この男がそういう顔をした時、
ろくな未来になったことがない。
胸の奥が、鈍く冷えた。
「やめろ」
即座の言葉は、ほとんど懇願に近かった。
「まだ何も言っていませんよ」
「言わなくても分かる」
「さすがですね」
「ふざけるな」
ユスティナが一歩踏み出す。硬い靴音が、静寂を切り裂く。
「人の境界を越える気か?」
ハーレインは眼鏡を外し、ゆっくりと拭った。その仕草は、まるで別れの儀式のように穏やかだった。
「私がやらなければ、あなたも、リュシアも……北の地で死にます。他の手は探しました。時間も……ありません」
「私はまだ、何も諦めていない」
「あなたはそういう人です」
ハーレインは眼鏡を掛け直し、静かに微笑んだ。
「だからこそ、あなたを残す。リュシアには、あなたが必要です。あの子は今も、自分が生き残ったことを罰のように抱えています。そして、剣を振るうたび命を削っています。生きるための戦いを教えられるのは、あなただけです」
ユスティナは低く返す。
「……逃げているだけではないか」
「そうかもしれません。私はあの子の未来を、遠くから見すぎました。近くで支える役には、向いていない」
「私は、あの子を救えなかった」
あの夜からずっと、間に合わなかったものばかりだ。
「それでも、あの子は生きています」
ハーレインの声は、夜の闇に溶け込むように優しかった。
「今夜、あなたはあの子に『生きろ』と言った。あの子は、それを選びます。あなたが選ばせたのです」
遠くで、古い弔鐘のような鐘の音が響いた。夜の巡回を告げる、冷たい調べ。
「ハーレイン」
ユスティナは低く、しかし確かに言った。
「私は、お前を死なせるつもりはない」
「あなたなら、そう言うと思っていました」
「止める」
「止められる未来なら……私も嬉しかった」
ユスティナの手が、再び大剣の柄に伸びる。
しかし、抜けなかった。
ハーレインはそれを見て、目を細めた。
幾度も見てきた。
戦場でも、会議室でも、誰にも見せない場所でも。
誰かを斬る時より、守れないものを前にした時の方が、この人はずっと苦しそうな顔をする。
……だから、困るのです。
「優しいですね。そんなところが、好きでしたよ」
「黙れ」
「ええ。黙ります」
彼は深く一礼した。
「明朝、予定通り出発しましょう。Route39を抜け、オーロラフォードへ……そこから先は、運命の流れが速くなります」
「……東は」
ハーレインの表情が、わずかに曇った。
「そこも、ろくでもありません」
わずかな沈黙。
「……ただ一つ。敵の狙いは、東を空けることそのものです。おそらく陽動でしょう」
「……ふざけた盤面だ」
「ええ。ですが盤面があるなら、駒は動けます」
「自分を駒と言うな」
「では、何と?」
「人間だ」
ハーレインは目を伏せた。今度こそ、笑わなかった。
「……ありがとうございます」
背を向ける彼に、ユスティナの声が冷たい夜に落ちた。
「死ぬな」
ハーレインの肩が、わずかに震えた。
返事はすぐには来なかった。
窓の外で、風が古い塔を撫でていく。
長い沈黙のあと、
「……果たして、我々はまだ人間の側にいられるのでしょうか」
夜の塔は、ひどく静かだった。
まるで、誰かの死を先に知っているように。
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