第8話「再会」—生き残るための剣—
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夜は静かだった。
東の拠点は高い。
風は冷たく、音を削ぎ落とす。
灰は届かない。
だからこそ、静けさが際立つ。
呼び出しは短い《伝言》だった。
——来い。
リュシアは迷わなかった。
石の回廊を抜け、崩れかけた塔の上層へと出る。
天井はなく、空が高い。
そこに、ユスティナがいた。
背を向けて立っている。
大剣は外され、壁に立てかけられていた。
「来たか」
振り返らない。
「……」
声が、わずかに硬い。
風が二人の間を抜ける。
「……少しだけ話をしよう」
それは命令ではなかった。
だが、拒否を許さない響きがあった。
「お前が戦士になった日から、これまでの記録は見た」
事務的な声。
「生存率、任務達成率ともに問題ない」
評価のみ。
「……だが」
ユスティナの声が、そこでわずかに沈んだ。
「任務頻度が異常だ」
リュシアは顔を上げる。
「一日に三件。多い時は四件。移動距離、交戦回数、討伐数……すべて記録に残っている」
ユスティナは依然として背を向けていた。
「お前は任務をこなしているんじゃない。任務を使って、何かを探している」
リュシアの指先が、ぴくりと動いた。
「……何の話」
「とぼけるな」
低く、刃のように鋭い声。
「家族を殺した個体。行方不明の妹。お前はその二つを追っている」
呼吸が止まった。
リュシアの目が、ユスティナの背中を射抜く。
少女の内側から、凍てついた静けさが剥がれ落ちた。
残ったのは、剥き出しの傷だった。
「……覚えてたの?」
「ああ。『戦士』になった時点で我々の成長は止まるからな」
リュシアは言葉を失った。
ユスティナが、ようやく振り返る。
銀の髪が夜風に揺れた。
その目は冷たい。
だが、無関心ではなかった。
「リュシア」
初めて、名前を呼ばれた。
胸の奥が、わずかに軋む。
「北の任務では、勝手な行動はするな」
「……私は、失敗しない」
「失敗する前に死ぬ」
ユスティナの声が、石床に冷たく落ちた。
「お前の戦い方は合理的だ。速く、正確で、無駄がない。だが、根本が間違っている」
「……何が」
「生き残るために戦っていない」
リュシアの唇が、わずかに開く。
「お前は、死なない範囲で無茶をしているんじゃない。死んでも構わない場所まで、自分を追い込んでいる」
風が止んだ。
「仇に近づくためなら命を削ってもいい。妹の痕跡が見つかるなら罠でも踏む。違うか」
リュシアは答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
ユスティナは目を細める。
「そのままでは、北で死ぬ」
「……私は死なない」
「願望を口にするな」
鋭い声。
リュシアの肩が、ほんの僅かに震える。
「戦場で必要なのは覚悟ではない。判断だ。
憎しみは刃を鈍らせる。焦燥は足を狂わせる。喪失は視界を狭める」
ユスティナが一歩近づいた。
「お前は今、全てを抱えすぎている」
リュシアは俯かなかった。
だが、視線だけが揺れた。
「……私は」
喉が乾く。
「私は、探さなきゃいけない」
声が小さくなる。
「まだ……リィナは、見つかっていない」
その名前を口にした瞬間、胸が締めつけられた。
ユスティナは黙って聞いていた。
リュシアの声に、熱が混じる。
「仇も、生きている。家族を殺した【エリミネア】も……母さんを、兄さんを、父さんを……」
言葉が途切れる。
柔らかい掌の感触。
引き裂かれる肉の音。
守ろうとした母の腕。
首の折れる鈍い音。
「……まだ、どこかにいる」
リュシアの目が、暗く燃えた。
「だから、私は止まれない」
長い沈黙が落ちた。
夜風が塔の欠けた縁を撫で、遠くで石片が崩れる音がした。
やがて、ユスティナが静かに言った。
「お前の仇は、ただの上位種ではない」
リュシアの呼吸が止まる。
「奴は、【第八席次】」
空気が変わった。
「通称――【胎児喰い】」
世界から音が消えた。
リュシアは動けなかった。
あの日の記憶が、喉の奥から這い上がってくる。
血の匂い。
母の叫び。
「……そいつは今、どこにいるの」
自分のものとは思えないほど低い声だった。
「答えろ」
ユスティナは目を逸らさない。
「知らん」
「……っ」
リュシアの足が一歩出る。
「嘘を——」
「知らんと言った」
冷たい声が、激情を叩き落とす。
「【席次】持ちの強さは、通常個体とは別次元だ。確認されても生存者が少なすぎる」
「なら、見つければいい」
「見つけてどうする」
リュシアの目が鋭くなる。
「 排除する」
迷いはなかった。
ユスティナは静かに告げる。
「無理だ」
その一言は、残酷だった。
「今のお前では、近づくことすらできない」
「……やってみなければ分からない」
「分かる」
ユスティナの声が、初めてわずかに荒れた。
「私でも奴には勝てない」
リュシアが止まる。
「……え」
かすれた声。
「あの時、奴は傷を負っていた。それも癒えぬ傷だ。その状態でも、私が勝てる確率はゼロに等しかった」
ユスティナの目が、夜より暗く沈む。
「正直、あの時、奴が撤退したことに一番安堵したのは私だ」
リュシアの奥歯が、ぎり、と鳴った。
「【席次】持ちとは、それほどの存在なのだ」
言葉は刃ではなく、墓標だった。
「だから、お前はまだ行くな」
「……命令」
「忠告だ」
「同じ」
「違う」
ユスティナがもう一歩近づく。
リュシアよりも高い位置から、真正面に視線を合わせた。
「命令ならお前を縛る。忠告なら、お前が選べる」
リュシアは唇を噛んだ。
「選んだ結果、死ぬなら」
ユスティナの声が静かになる。
「それはただの自殺だ」
リュシアの表情が、初めて歪んだ。
怒り。
屈辱。
悲しみ。
幼い日のまま腐らず残っていた感情が、胸の奥で激しく軋む。
「……私は」
声が震えた。
「生きていたくて、生き残ったわけじゃない」
ユスティナの目が、わずかに揺れた。
「父さんが死んだ。母さんが死んだ。兄さんが死んだ。リィナも……まだ……」
拳が震える。
「それなのに、私だけが残った——なら、私がやるしかない」
「違う」
ユスティナが即座に否定した。
「復讐は、お前が生き残った理由にはならない」
リュシアの瞳が揺れる。
「だが、今のお前はそれを理由にしようとしている。死ななかった意味を、仇の死体で埋めようとしている」
沈黙。
「そんなものでは埋まらない」
その言葉は、優しさに似ていた。
だが、ひどく冷たかった。
リュシアは俯きそうになり、耐えた。
「……なら、私はどうすれば」
それは問いではなく、悲鳴だった。
ユスティナはすぐには答えなかった。
夜がさらに深くなる。
「まず、私の隣で戦え」
やがて、ユスティナは言った。
「仇を殺すためでも、妹を探すためでも、任務のためでもない。お前自身が生きるための戦いを、教えてやる」
リュシアは何も言えなかった。
「北では、私の指示に従え。独断で動くな。痕跡を見つけても一人で追うな。戦闘中に過去を見るな」
「……そんなこと」
「できないなら、置いていく」
リュシアの顔が上がった。
「足手まといは不要だ」
冷たい言葉。
だが、その奥に隠されたものを、今のリュシアはまだ完全には読み取れなかった。
ユスティナは背を向ける。
「明朝、出発する。それまでに決めろ」
「……何を」
「死にに行くのか」
ユスティナはわずかに振り返った。
「生きて戦うのか」
それだけ言って、歩き出す。
リュシアはその背を見つめた。
遠い背中。
届かない背中。
けれど、さっきよりほんの少しだけ、人間に見えた。
風が吹く。
リュシアは剣の柄から、ゆっくりと手を離した。
「……生きる」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも、その声は確かに夜の底へ落ちた。
「まだ……死ねない」
その言葉は、復讐の誓いに似ていた。
だが、ほんの僅かだけ、違っていた。
灰のない夜空の下で、リュシアは初めて、自分の呼吸の音を聞いた。
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