三章 トンボ草とエピローグ 5
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捨てる神あれば拾う神あり——まさにそんな格言を思い起こさせる出来事でした。
これからどうしたものか、暗い夜道を延々と歩いて町を目指さすのか……と、暗鬱な気分になっていた私たちに、教会で出会ったばかりの老婆が声を掛けてくださったのです。
「若い娘さんたちを暗がりの中帰らせるなんてとんでもないことだわ!」
うちに泊りにいらっしゃい、と願ってもない優しいお言葉に甘え、私たちは見ず知らずの老婆の家にお邪魔させてもらったのです。
彼女の自宅は教会からさほど遠くない場所にありました。
そして驚くべきことに、そこは白を基調とした綺麗な家で、園芸が趣味なのか、菜園や花壇で彩られた可愛らしい庭つきです。こう言ってはなんですが、とても一人暮らしの老婆が住んでいる家とは思えない、新婚ほやほやの夫婦が暮らしているかのような素敵な家でした。もちろん、そんな失礼なことは言いません。
「本当に助かりました。これからどうしようか途方に暮れてたんです」
温かい情に触れるだけでなく、手料理までご馳走になって、気の利かない二人の分も私は老婆に改めて礼を言いました。
「そんな面と向かって言われると照れてしまいますのニャ」
「あんたに言ってないわよ馬鹿ネコ!」
素っ頓狂なことを言い出す不躾なケメットを叱り飛ばしますが、老婆は「まあまあ」と穏やかに笑います。
「いいのよ、ケメットさんも手伝ってくれたものね。こう言っちゃ失礼かもしれないけれど、見た目からは料理ができるようには見えなかったから、感心しちゃったわ」
「ウチは大佐の私設伍長です。炊事洗濯家事全般をウチが受け持っておりますのニャ」
「あらま、本職のメイドさんだったのね? だったらあなたの方がプロフェッショナルだわ。うふふふ」
その柔和な態度に、私も肩の力が抜けていきます。
このような経験など私の人生でただの一度も無い。それにもにも拘わらず、胸の内には郷愁の念が沸き起こり、ほっとするような、落ち着いた気分で満たされます。
「見ての通り、うちは一人でしょう? 子供たちはみんなロンデ二オンに家庭があるから、ろくに帰っても来ない。主人にも先立たれてしまってね、大概ひとりで過ごしてるのよ。ご近所さんもみんないい年だから、顔を合わせるのも一苦労。だからあなた達が泊っていってくれるのは大歓迎よ」
久々に料理に腕が振るえたわ、と老婆は楽し気に笑います。
「そりゃ良かったわ。あたしたちも来た甲斐があるってものよ」
飼い猫がアレなら主人もアレです。
大佐は遠慮なく葡萄酒を独り占めして、グラスに注いでは空にしていきます。
いったいどうやったらここまで図太い神経に育つのでしょう。ほろ酔い気分の大佐は、頬を赤らめトロンとした目で老婆を見やりました。
「ねえお婆ちゃん、教会には毎日行くの?」
「ええ、行きますよ。特に用事がない日は、畑仕事が終わったら毎日ね」
「でも牧師だってろくすっぽ居ない教会にいつも一人なわけでしょう? スローライフって言ったって限度があるじゃない?」
他人の、しかも一宿一飯の恩がある方の生活サイクルに物言いたげな大佐に、流石にどうかと思った私は口を挟もうとしました。
しかし、大佐の目つきが途端に鋭さを増して私を無言のうちに制します。
「何か特別な理由でもあるんじゃない? 毎日教会に行くのって」
一瞬、食卓に無言の時間が流れました。触れてはいけない話題だったのかと、質問者でもない私がどういうわけかドギマギしてしまいます。訳があったとしても、詮索されて嫌なことだったらどうするのか。後先考えない発言も大佐の悪癖の一つです。
ですが、私の心配をよそに老婆は穏やかに切り出しました。
「そうねぇ……しいて理由をあげるとしたら、待ってるのかもしれないわね」
「お迎えですのニャ?」
「こらッ!」
あまりにも失礼極まりないケメットを怒鳴ると、間髪入れずに大佐が頭を引っ叩き、首振り人形と化した彼女はカランコロンと音を奏でます。
それを見て楽し気に笑う老婆のなんと心の広いことか。歳をとるのなら、こういう老人を目指したいものです。そして緩い雰囲気に乗じ、大佐が話を進めました。
「それで、お婆ちゃん、なにを待ってるの?」
「あなた達はここの人じゃないから、言っても良いのかもしれないわ」
老婆は食卓に少し乗り出すと、「でも内緒よ?」と小声で言いました。その様がとてもお茶目に見えて、私は少し吹き出しそうになりました。年齢を感じさせない、まるで同年代で集まっている気分になります。
「昔ね、結婚の約束した人がいるの。もちろん、大昔の話で、私がまだ十代も半ばの頃の話だから、半世紀以上前のことよ」
思ってもみなかった老婆の恋愛談に私たちは色めき立ちました。
「恋バナですのニャ!」
「あ、そっちの話?」
「どっちだと思ったんです。でも素敵じゃないですか! 今も昔の恋人を想って待ち続けているなんて、ロマンチックです!」
口々に盛り上がる私たちに老婆は頬を赤らめて「やだわもう」と笑う。
だが徐々に彼女は伏し目がちになり、悲しそうに微笑みます。
「でも来てくれなくても良いのよ。当時はミッドガーズとの戦争の真っただ中でしょ? あの人も召集されて、きっと大変な思いをして戦ったんだと思うの。見送ることしかできない私みたいな田舎娘が、これ以上贅沢を言っちゃ罰が当たるわ」
遠い日の記憶に思いをはせるように、老婆は視線を宙にやりました。
海を挟んだ隣国、ミッドガーズ王国はとは五〇年前に大きな戦争がありました。両国の力は拮抗し、戦争は長引いて三年近く続き、総力戦の様相を見せた熾烈な物であったと、歴史で教わりました。
今でこそアルビオンとミッドガーズは、表向き友好関係を築いていますが、その実——現在でも版図拡大の手を緩めてはいませんでした。
テーブルの上では握手を交わし、その下では足を踏みつけあっている。
老婆とその恋人は、そんな大国間の思惑に翻弄され、引き裂かれた。恐らくその恋人はすでに英霊となっているのでしょう。
私はその大国の先兵でもある職業軍人であることに、少々の居た堪れなさを感じるのは、やはり未熟だからかもしれません。
ケメットはともかく、元将校であり、おそらく今現在も戦力の頭数に入れられている大佐の表情は変わらず、動じている素振りは全くみせません。むしろ親身に寄り添うような優し気な表情は、戦場を知り、少なからず部下を亡くしている経験があるからこそ、滲み出るものなのか。
「よくよく考えてみれば、身勝手な女よね。あの人を待ちきれずに今の主人と一緒になったくせに、その主人が亡くなったらまたあの人を待ちわびている。こんなんじゃ本当に罰が当たってしまうわ」
独り言のように呟く老婆の姿はどこか自嘲気味ていました。
そんなことない——と言おうとしたところ、大佐が先に口を開きます。
「別に良いんじゃないかしら? 旦那さんも半世紀近く連れ添った妻を残して逝ってしまったのは心苦しかったと思うし、お子さんたちも立派に育て上げて送り出したわけでしょう? 誰が文句を言うの。誰かの言う人生を生きてはだめよ。人生の先輩には、自分の人生を生きて、あたしたち小娘どもの希望になって欲しいわ。それに——」
「奇跡は、その場所に歩み続けた者だけにだけ与えられる」
その語り口はいかにも大佐らしい、前向きで、ロマンチシズムに溢れていました。
こうして私たちは歳の差を感じさせないお喋りに花を咲かし、夜は更けていきました。
「あー……頭が重いわ……」
昨日はなんだか楽しい気分で羽目を外して飲みすぎました。
老婆と大佐に進められるまま、何度グラスを呷ったことでしょう。おかげで二日酔いになり、最悪のコンディション。悪いことに、早朝から調査する計画が寝坊の所為で台無しになってしまいました。もっと付け足せば、大佐は完全にダウンしてしまい、今も客室のベッドで唸り続けています。
上官もとい上司があの調子なので、私は仕方なくケメットだけを伴って探索にでることにしました。ただ、起きた時、老婆の姿がないのが気がかりです。
何か所用があって出掛けているのかもしれませんが、赤の他人に家を預けるような真似をして不用心ではないでしょうか。もちろん、泥棒の真似事をするつもりは無いので、信頼してくれるのはありがたいのですが。
「大佐だけを残していっても大丈夫かしら」
「心配ご無用です。大佐はお宝には目がありませんが、現金には無頓着ですのニャ」
「いや、誰も大佐が泥棒するかもなんて言ってないんだけども……それにしても——」
振り返れば小さな丘の頂に、老婆の白い家が見えます。
相変わらず可愛い家だと思うし、若い女性が好みそうな外観はとても好ましいものです。ですが、やはり奇妙な違和感が付き纏います。家の外も中も、どうみても新築の一軒家。老婆があのような家に住んではいけない、なんてことは無いのですが、一般的な高齢者の家屋にあのような印象が無い。
「お子さんたちが建ててあげたのかしらね、あの家」
「なんですのニャ?」
「いい、独り言よ」
「歳を取ると独り言が増えると言いますのニャ」
「あなた私と大して変わらないでしょうが!」
上官を上官とも思わない不躾な態度は何度注意しても治りません。それもこれも、大佐がケメットを甘やかしているせいでしょう。
「まったく……まあいいわ——いや良くないけど、ケメット、今日はもうお昼になるし、時間帯的に奇跡の家は現れない。でもヒントになるものを見つけるの」
「お昼になるのがわかっているのなら、昼食にすればいいですのに」
「……二手に分かれる。サボるんじゃないわよ」
予想できたことではありますが、私にはケメットを使いこなす自信がありません。
それはそれとして、怪奇現象の尻尾を掴まねば。
昨日も何度となく往復した土を固めただけの街道に出て、私達は二手に分かれました。
まず何をするべきか、それを考えて頭を悩ませます。
閑散とした街道は人っ子一人見当たらなずに閑散としています。杉並木を左手に眺めながら、とりあえず聞き込みをしようと思い立ち、昨日は叶わなかった牧師との接触を試みます。
それほど離れた場所ではないため、すぐに目につく教会に歩を進めていると——小柄な人影が教会の中へ入っていく様子が窺えます。
「あれ……?」
どこか見た背格好に、私は言い知れない違和感を抱きました。自然と足早になっていることに気づき、教会の敷地に入ったあたりで足音を殺します。別段、悪いことをしているわけではないのだから見られても構わない、そう自分に言い聞かせますが、身体はより慎重に事を運ぼうとしていました。
静かに、ゆっくりと教会の木製扉に身を押し当て、そっと中を覗き込みます。
昨日と変わらぬ身廊——その先の祭壇——聖女の像——そして。
牧師の姿は今日も見当たりませんでした。職務怠慢の嫌いがあることが発覚しつつありますが、そこではなく、祭壇に向かって並ぶ会衆席の片隅に、彼女はいました。
その小さな背中は間違いなく、昨日今日と世話になっている老婆。
「ふぅ……」
先ほどの緊張感はなんだったのか。
小心者の自分に呆れつつ、扉を押し開けました。
「おはようございます! 今朝はすみませんでした、寝坊してしまいまして。つい先ほど起きたんです」
老婆は億劫そうに身体を揺すって振り向くと、不思議そうな表情を浮かべてからはにかみました。
「どうも、おはようございます。えぇと……やだ私ったら、歳をとるとこれだもの」
——と区切って、老婆は言いました。
「ごめんなさいね、どこかでお会いしたかしら?」
私は一時、老婆のその言葉の意味がうまく呑み込めませんでした。
老人ならではの冗談なのかと当初は思っていたのですが、次第に純粋な瞳で見つめ返してくる老婆に対し、背筋が凍るような思いを抱いたのです。
——ボケてしまわれた——と。
嘘だろおい——頭の中が真っ白になってしまいそうで、私は苦心しました。
この場合の正解はいったい何なのか。
なぜこのタイミングで、どう説明すれば丸く収められるか。
昨日お宅の家に泊めていただいた者ですが、と正直に申せば受け入れてくれるかのか心配でした。これが老いによる記憶障害、はたまた心理的な記憶喪失なのか、事と次第によっては、老婆を追い詰めることになり、混乱させてしまうかもしれません。
かといって、このまま事なかれ主義に甘んじて弁解の機会を逸すれば、老婆が帰宅したその家には、惰眠をむさぼる見ず知らずの男装女がいる訳です。
またしても警察沙汰! どうすればいい? どうすれば——ッ!
うんうんと唸り手をこまねいていると、老婆による第二の矢が放たれます。
「あなた、お名前は?」
「あ、ああ——名前——名前……?」
老婆がボケてしまわれたのならば、私の名前を忘れてしまったのも頷けます。
ただ、私が引っかかったのはその点ではなく、老婆の名前。
私は彼女の名前を知りませんでした。夕飯をご馳走になったばかりか、泊めていただいた方の名前をなぜ知らないのか。そんな非常識なことを私が見過ごすが無い。ところが、私はおろか(ケメットは置いておくとして)大佐すらもその点を気に掛ける素振りすらみせなかった。そんなことが、あるのでしょうか?
「私は、ルイズです」
「ルイズ。素敵なお名前ね。私はイライザ。ごめんなさいねぇ、忘れてしまったみたいで。こんなお婆ちゃんでしょう? こんなこと今までなかったのに。もう歳ねぇ」
どうしちゃったのかしら、と老婆——イライザと名乗るこの女性は顎に手をやり、首を傾げていました。
イライザ。やはり名乗られた覚えもなく、尋ねた記憶もありません。しかし、この老婆は間違いなく昨夜の宿と夕食を提供してくださった老婆に相違ない。口調や仕草も疑いようがありませんでした。
そこで私は冷静になろうと、思考迷路に陥りかかった考えを一旦捨てました。
名前に関しては、どちらかがおかしいのではなく、双方うっかりしていた、という線。
そして老婆は、老いからくる単なる物忘れに過ぎない——これが思いつく限り、現状を説明する常識内の推察でした。
「そうだわ」と老婆は一つ手を叩きます。
「何か失礼があったらいけないわ。いつも暇をしている牧師さまと昼食でもと思っていたのだけれど、あなた今からウチにいらっしゃいな。そこで私が忘れてしまったことを教えてくれない?」
その申し出に直ぐには応じることができません。
いやだって、まさにあなたの家で一晩過ごしたわけですし、なんなら私の私物も置いたままですし、挙句の果てには身内が二階で寝ているんです。
そうした思いが瞬時に過ぎり、頭を抱えたくなりました。
ですが、何をどうしようが問題にぶち当たることに気づきます。
ならば儘よ!
老婆が思い出してくれれば御の字、忘れたままなら大佐を警察に突き出す。
これでいこう、そう腹を決め、私は彼女の申し出を受けたのでした。
いや、戻るだけなんですけどね。




