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――暖を拾ってから、三日目。
「ユウちゃん、右のオフィスお願いできるかしら? 私は左の方のお掃除するから」
そう声をかけたのは、ビル清掃の同僚である、和田妙子だ。
モップを片手に掃除機や掃除道具を入れた台車を元気に押している。
五十代の先輩で、キビキビと動く働き者の和田は、ユウを何かと気にかけてくれている。
安い材料で作れる料理のレシピを教えてくれたり、作り過ぎた料理を持ってきてくれたりする、優しい女性だ。昨日も煮物をくれて、暖とありがたく頂いた。
「和田さん、そちらのオフィスは広いので私がやりますよ。先週腰を痛めていたでしょう。無理なさらないでください」
「あらあらありがとう。でもこのままで大丈夫よ〜。それならユウちゃんは、そこのオフィスのゴミ回収してくれる? そっちの方が腰にくるのよ」
「任せてください」
ユウは仕事を二つ掛け持ちしている。
朝はスーパー、夕方からビル清掃で休みは月木。
今はビル清掃の時間だ。
今日の仕事場は、ワンフロアに二つのオフィスが入った小さなビルだ。
ユウがゴミを回収していると、猫の写真が載った、大きなカレンダーが目に入った。
「可愛い……」
思わず呟いたが、さっと目を逸らした。
極力何も見ないようにした方がいいと、和田から教えられたからだ。
ユウは黙々と掃除をした。
いつもは無心で掃除をするのだが、月に一回、どうしてもソワソワしてしまう日がある。
それが今日だった。
ユウはいつもの倍のスピードで掃除をこなし、和田の運転する社用車で清掃会社の事務所へ戻った。
そして手早く着替えると、「お疲れ様でした」と挨拶をして事務所を出る。
すっかり日が暮れた街で、暖が歩道沿いの白い柵に腰かけ、ユウを待っていた。
「おー、お疲れ〜」
「お待たせしました。では、行きましょう!」
座ったままの暖の元へと駆け寄り、手をぐいと引っ張るユウ。
「ちょ、どうしたどうした。珍しいじゃん、そんなに慌てて」
「慌ててません、気持ちが急いているんです」
「はは……っ! 分かったって」
暖は立ち上がると、ユウのリュックを自身の右肩にかけた。
そして、どこかソワソワしているユウについていくのだった。
十分ほど歩いた時、明らかにユウのスピードが上がった。
と、言っても暖は歩幅を広げれば余裕で追いつくのだが、走る手前のユウが見ていて微笑ましく、つい後ろを歩いていると、「置いていきますよ」と、叱られた。
そして目当ての場所に着いたのか、ユウがキリッと暖を見上げた。
「はい、本日の晩御飯はここで買います。お持ち帰りです。なぜなら今日はお給料日だからです! 私、お給料日には必ずここの牛丼を買って帰るのが楽しみなんです。生卵と、キムチとか、でも今日はあっさりが食べたいので、おろし牛丼でもいいかもしれません……いえ、でもやっぱりいつもの……?」
説明していたはずが、どんどん独り言になるユウに、暖はたまらず笑ってしまった。
「……何か、おかしいですか?」
「違う違う! 可愛いなって思っただけだから! じゃあ俺が、ユウがいつも頼んでるやつの特盛にして、ユウはおろしのやつにすれば? 分けたらいいじゃん」
「…………なんて、素敵で効率的な提案」
「ぶは! よし、じゃあ行こうぜ。俺トッピング盛り盛りにしようかな」
「え……でしたら私は味噌汁……いえ、ここは豚汁を買いましょうか」
二人は煌々と灯りのついた牛丼屋さんへ、楽しそうに入っていった。
――暖を拾ってから、八日目。
仕事が休みのユウは、暖の仕事を見ていた。
暖はどうやらパソコン関係の仕事をしているらしく、リモートワークと出勤を使い分けていた。
ユウが休みの日は、リモートワークにしがちだ。ユウが『気を遣わないで下さい』と、言った時、『え、たまたまだって』と、取り合ってくれなかった。
しかし、ユウは暖のパソコンに向かう姿がなぜかお気に入りになっていた。
メガネをかけ、前髪をちょんまげのように結んだ暖が新鮮で、見ていると、動物を愛でている時のような気持ちになるのだ。
それを暖本人に伝えたところ、とても微妙そうな顔で笑っていた。
ユウは首を傾げながら、同じように微妙な顔をして笑ってみた。
――暖を拾ってから、九日目の夜。
小さな折り畳みの机を借りて、そこでノートパソコンを使っていた暖は、ふと手を止めた。そして振り返ると、案の定起きていたユウを見つけて、声を掛けた。
「あれ、ユウまだ寝ないの? もう二十三時だけど」
翌日が仕事の日は、いつもならもう寝ている時間だ。
ユウは体育座りで本を読んでいたが、暖からの質問に視線を上げた。
「明日明後日とどちらも有給を頂けたので、少しゆっくりしようかと。お仕事の邪魔になりますか? それなら、寝室に行きますが」
暖は、ゆっくりとメガネを外した。
「…………は?」
「え?」
掛けていたメガネを外しただけなのに、妙に迫力を感じて、ユウは思わず本を閉じると、そっと横に置いた。
なんだか本を手にしたままではいけない気がしたのだ。
「有給?」
「はい」
「明日と、明後日?」
「はい」
「そんな急に取れるもんなの?」
「スーパーの方は、店長さんから下さって、清掃の方はその話をしたら和田さんが、責任者の方にお話ししてくださって――」
暖は、ずい、とユウの方へ身を乗り出した。
「ちょっと待て待て、和田さんには言ったの? いつ?」
「はい。その話を頂いた三日前でしょうか」
「……三日前ー!? うっそだろ!?」
暖は床に両手をついて、ガックリと項垂れた。
ユウが先程まで読んでいた漫画に、ちょうど似たような描写があった。この漫画は、和田が貸してくれたものだ。
そこには『ガーン』という効果音が添えられていたのだが、ユウは暖の後ろにその文字を見た。これはもしかしなくとも、自分がやらかしたのだろう。ユウは慌てて暖に詰め寄った。
「あ、あの、暖さん? 私が何かしてしまったんですよね? ですが、それが何かわからないのです。怒っていなければ教えていただけませんか?」
暖は、ユウの声に滲む珍しい動揺に、目を丸くして顔を上げた。
暖の目の前には、眉を八の字にして困り果てるユウがいた。
「ユウさん。俺は怒ってるんじゃありません。寂しくて拗ねています」
確かにユウから見た暖の表情はいつもと違って、拗ねているように見えた。
「寂しい……?」
「そう、です! せっかく休み二日ももらって、なんなら月曜休みだから、三連休じゃん! そういう大切なことは、すぐに教えろって!」
「……大切、ですか? 私が休みなだけですよ?」
「一緒に出かけられるだろ!? 今は一人じゃないんだからさー。ちょっと待って、俺も仕事調整する……!」
暖はそう言うと、机にかじりつくようにして、パソコンとスマホを同時に操作し始めた。
ユウはというと、呆然とその姿を見つめていた。
「一緒に、出かける…………そう、ですね。今は……一人じゃ……ないです、ね」
噛み締めるように呟いたその声が、暖の耳に届いたかは分からない。
けれど、一瞬タイピングの手が止まったこと、そしてわずかに上がった口角に、ユウは気付いていなかった。
――暖を拾ってから、十日目。
ユウは久しぶりにゆっくりとした朝を迎えた。いつもより一時間も遅い起床だった。
扉の向こうは静かで、暖はまだ寝ているのかもしれない。
昨夜は日付が変わる頃に眠くなり、一時前には布団に入った。
途中、目が覚めたときには扉から明かりが漏れ、タイピングの音がしていた。
自分がギリギリに伝えたせいで、暖に迷惑をかけてしまった。その時は睡魔に勝てず寝てしまったが、起きてすぐに謝ろうと決めていた。
着替えて布団を畳んでからそっと扉を開けると、机に突っ伏して眠る暖がいた。
机に預けた上半身が、ずり落ちるか落ちないかの絶妙なバランスを保っている。
「大変……! 暖さん、暖さん、横になって下さい。風邪を引いてしまいますよ」
ユウが静かに体を揺すると、暖はすぐに目を覚ました。
「ん〜……、あれ、俺このまま寝たんだ。くぁ〜……」
座ったまま大きく伸びをする暖は、ユウを見て、「おはよ。俺も休み! いえーい」と、笑った。
その笑顔を見た瞬間、ユウの胸がちくりと痛んだ。
「……? いた……」
「どした。痛い? 大丈夫か?」
思わず胸を押さえて呟いたユウに、暖が心配そうに声を掛けて立ち上がった。
「あ、はい。もう大丈夫です」
「ならまた何かあったらすぐ言えよ〜」
ユウはこくりと頷いた。
朝ごはんを食べながら、二人で相談して決めた今日から三日間の予定は――
今日は植物園。明日は大型テーマパークで、最後は『決めない』だった。
電車とバスを乗り継ぎ、大きな植物園を前にしたユウは、いまさらながら暖はここで退屈じゃないだろうかと心配になった。
横に立つ暖を見上げると、「え、でか!」と、楽しそうに辺りを眺めている。
ここで自分が水を差すのもいかがなものかと感じたユウは、黙って楽しむことにした。
二人が一番にやってきたのは、世界最大級の花を咲かせ、強烈な臭いを放つことで知られる『ショクダイオオコンニャク』が展示されている広い温室だ。
そこには、まるで一本の木のような、巨大な植物がぽつんと立っていた。
しかし、どうやらそれは一本の巨大な葉らしい。
紹介文を読んでいるだけでも面白い。
ユウが楽しみにしていた臭いは、花が咲いていないため、残念ながら全くの無臭だった。
「……臭くないな」
「……ですね。本当に〝開花しないと無臭〟というのが分かっただけでも良しとしましょうか」
そして次に、食虫植物が展示されているスペースへ向かった。
「見てください、暖さん! この中、すごいですよ!?」
「ウツボカズラって名前はよく聞くよなぁ〜……うわ、なんか……えぐ」
「底なし沼のようなものって書いてますよ」
「ユウ、めっちゃ生き生きしてんな……」
「はい。食虫植物はとても面白いです!」
「俺、『ザ、花!』みたいな花を見たいのかと思ってたわ」
「それは花屋さんでも見ることができますので」
その後、ハエトリソウを見て触りたくなるのを堪えながら、別の展示に向かった。
オオオニバスが浮かぶ池につくと、そこでは子どもが葉に乗る体験をしていた。
「暖さん……!」
「……あれは、小学生以下って書いてあるからね。そんな顔しても、乗れません」
「……悲しいです」
「そんなに乗りたかったの?」
「はい。一度でいいので、乗ってみたかったです」
「じゃあ来世に期待だな」
「……来世では、小学生のうちに来ようと思います」
「あはは! じゃあ、そん時は手繋いでやろうか?」
「落ちる時は一人で落ちてくださいね」
池を抜けた先に、軽食を取れる場所があった。二人は池が見渡せるテーブルを選んで、向かい合わせで座った。
「ここでお弁当食べますか?」
「いいねー、俺テーブル拭くわ」
暖はそう言うとリュックを下ろし、中からビニール袋に入れた濡れ布巾を取り出した。
「あ、私が拭きますよ」
「じゃあこれ、はい」
ユウが一通り拭き終わるのを見て、暖がお弁当を取り出した。
今朝、ユウが料理をしている間に、暖は使い捨てのお弁当箱を、コンビニで買ってきていたのだ。
おかずとおにぎりを分けた箱を、それぞれ二つずつ置いていく。蓋を開ける前から、ふわりと醤油や出汁の香りが漂ってきた。
「あー、めっちゃ良い匂い! 腹減った〜」
「お弁当と水筒まで持って下さってありがとうございました。重かったでしょう?」
「楽しいときは、重さなんか感じないんだって!」
「不思議ですね」
ユウのリュックに入れていたお手拭き用の布巾を暖に渡すと、自分の手も綺麗に拭いて、お弁当の蓋を開けていく。
急に決めたお弁当だったが、冷蔵庫に残っていた昨晩のおかずや、新しく作った出汁巻き、暖がコンビニで買ってきた肉団子などで、それなりにお弁当〝らしく〟なった。
「プチトマトが残っててよかったです。彩りがきれい」
「だなー! じゃあ手を合わせてくださーい」
「はい」
「「いただきます」」
暖とユウは揃っておにぎりに手を伸ばした。
「なぁ、これっておかか?」
「あ、そうです。うちでは『かつおのおにぎり』と、呼んでました。鰹節にお醤油をかけてご飯に混ぜるんです。私の大好きなおにぎりです」
「へぇー、いいじゃん!」
暖は大きな口で頬張ると、嬉しそうに笑った。
「んまー! これだけでも全然、いける」
ユウもカツオのおにぎりを一口食べた。
祖母や母が作ったものの方が、やっぱり美味しいなとユウは思った。
そういえばユウが学生の時、お弁当のおにぎりを見て『ねこまんま』と笑われたことがあった。嫌な思い出だ。
けれど、目の前で美味しそうに食べる暖を見ていると、その思い出も塗り替えることができそうだ。
あの時作ってくれた母の気持ちまで報われた気がした。
「暖さん」
「んあ?」
「ありがとうございます」
「え?」
おかずを割り箸で掴んだまま、「なにが?」と首を傾げる暖に、ユウは笑った。
「いえ、こちらの話です。あと、顎とほっぺたにご飯つぶがついています」
「わ、マジか」
それを取る仕草ですら、ユウは微笑ましく見ていた。




