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失敗したなと思ったのは、狭い部屋の真ん中に、背の高い男が立っているのを見た時だった。
吉野ユウが住んでいるのは、古い1LDKの風呂無しアパートだ。
長年住み慣れたユウにとっては、それが当たり前すぎて、今の今まで気にも留めていなかった。
男が何を考えているのかは、背を向けているので分からない。
その頭から背中にかけて、大きなリュックを覆うようにして、例の衣装ケースも背負われていた。
両腕を上から背中に回し、首のあたりにある取っ手を掴んで支えている。
時折片手に持ち替えていたり、大変そうだった。
持ちましょうか、と声をかけたが丁寧に固辞された。
ユウはそのケースに向かって、おずおずと話しかける。
「あの……狭くてすみません……あと、うちお風呂ないです」
「え、何で謝んの?」
男が振り返った。
背負われた衣装ケースが、ぐるんと大きく揺れる。
そしてまた、あの楽しそうな笑顔を浮かべた。
「屋根あって、壁あって、良い匂い! 最高じゃね?」
「…………匂いはちょっと」
「あ、ごめん。変態っぽいか!」
この男は、驚くほどユウの心にするりと入り込んできた。
名前も知らない男性を家に入れるなんて、考えてみれば随分と無謀なことをした。
それなのに、不思議とそこまで後悔していない。
やっぱり、彼の持つ柔らかな空気のせいだろうか。
「……あの、とりあえず座りませんか? 荷物はそこの隅に置いてもらえれば」
「分かった、ありがとう」
男はケースを背中から下ろすと、次にリュックを下ろし、下に置いたケースの中に収めた。
そして、ユウに誘導された場所に腰を落とした。
向かい合って座る二人は、自然と正座をしている。
それは、ユウが差し出したものが座布団だったからだろうか。
それとも先に座っていたユウが、正座だったからか。
「「…………」」
膝と膝を突き合わすほどではないが、初対面にしては近い距離感。
「あの……そろそろ、お名前を聞かせていただいても、いいでしょうか。少し、不便でして」
「ははー!」
男は大袈裟に頭を下げた。
「……どうして、時代劇風」
頭を上げた男はすでに笑っている。
「や、なんかえらく丁寧に話すな〜って思って」
「あぁ、これは両親がそうだったので、私としては違和感がないんです」
「へ〜、そうなんだ」
「……はい。あの、ちなみに私は『吉野ユウ』と申します。十九ですが、もうすぐ二十歳になります」
ユウが名乗ると、男は忘れていたのか、慌てて名乗った。
「朝比奈 暖、二十五歳。俺のことは好きに呼んで……って言いたいところだけど、できれば下の名前で呼んで欲しいかな。苗字、あんまり好きじゃないんだよね」
そう言って笑った彼は、確かにあまり楽しそうじゃなかった。
「……では、暖さんと。でしたら、私のこともユウでお願いします」
「え……いいの? 馴れ馴れしいやつって思わない?」
暖はユウの顔色を窺うようにそう言うと、更に「大丈夫?」と、首を傾げた。
ユウは何度も念を押す暖が可笑しくて、微笑みながら首を横に振った。
「いえ、むしろ私が名前を呼んでいるのに、呼ばれるのが苗字なんて、少し寂しいです」
暖は口の中で小さく「寂しい……」と呟いた。
「そっか。なら遠慮なく呼ばせてもらおうかな。ユウも、暖だけでいいけど」
「いえ、それは無理です」
さすがにそれはハードルが高いと意思表示をすると、ユウのお腹が、空腹の意思表示をした。
二人の間に鳴り響く、腹の虫。
「…………すみません、仕事帰りでして」
「ああああ! いや、こっちこそ悪い! そういや、いま何時? スマホスマホ」
暖がズボンのポケットから、スマホを取り出した。
「二十時過ぎてる……そりゃお腹も空くよなぁ……、俺としたことが……よし! ユウ、ファミレス行こう! お兄さん、奢ります!」
「え、え、あの」
「いいから、いいから、泊めてもらうお礼だと思って!」
「いえ、でも……」
なかなか首を縦に振らないユウに、暖は首を傾げた。
「遠慮以外に何かありそうだけど……どうした?」
首を傾げて、目線を合わせてくる暖に、ユウは少しの気まずさを滲ませた。
「……あの、近くの銭湯が二十三時半には閉まってしまうので……」
「な!? マジ?」
「はい。以前は深夜を回っても営業されてましたが、経営者がご高齢でして」
「そっかそっかー……。ユウは明日仕事?」
腕を組んで何かを考えながら暖は尋ねた。
「いえ、私は月木が休みですので」
「なら明日は木曜日だから、休みか。ちょうどいいな……」
何かぶつぶつと独り言を話しているのか、ユウには聞き取りづらく、首を傾げた。
「それならなおさら、ファミレス行かない? ゆっくり話もできるし、知らないやつと夜二人きりでいるより、安心でしょ。それに、俺二十四時間やってるスーパー銭湯知ってるから。そこもちゃんと出すよ! 日々のルーティンを崩したのは俺だからね」
行く行かない以前に、もしかして自分はかなりの勘違いをしていたのではと、ユウは表に出さず焦った。
捨てられていたことで、なんとなく暖は無一文だと思っていた。
しかし、そのフィルターを外して暖を見てみれば、確かにそうは見えない。
ファッションに興味がないユウでも、一度は目にしたことのあるロゴが、Tシャツの袖に小さく入っているのを見つけた。
それならば、自分のところでなくともホテルなどで、いいのでは――そんな考えが浮かんだけれど、ユウは自分で打ち消した。
――人には、人の事情がある……
「分かりました。……ありがたく奢っていただこうと思います」
「オッケー! じゃあ、行こうぜ!」
暖はパッと笑顔を見せると、大きなリュックを背負った。
「……それって、よく海外行く人が使うバックパックですよね? エコバッグで良ければいくつかお貸しできますよ。タオルとか着替えとか入るぐらいの。ですので、その大きいのは置いていかれては?」
「……え」
暖はなぜか、言葉を失っていた。
わずかに揺れる瞳が、戸惑いを映しているようで、ユウはどうしたものかと首を傾げた。
「私……変なこと言ってしまいましたか? もしかしてそのリュックは、〝肌身離さず〟でないと、落ち着かないとか――」
「いや……、ごめん、ちょっと。一日だけって言ってたからさ? 俺、ここに一緒に帰ってきていいのかなって……」
「なるほど……確かにそう、提案しましたね……」
ユウは少し考え込むと、ぽんと手を叩いた。
「でしたら。今からの時間は、お互いのことを知る時間で、その後、再検討するというのはいかがですか? もちろん、私のことが胡散臭ければ、すぐにでもお帰りいただいて構いませんよ」
とても真面目にそう提案し直すユウに、暖はじわじわと笑顔になっていく。
そして、とうとう声を上げて笑い出した。
「あはは! それって、俺から〝お断り〟する可能性があるって言ってる? いや……ないない! 置いてく! ぜんっぜん置いていけるから!」
暖はそう言うとリュックを置き、楽しそうに荷物を取り出し始めた。
そしてユウは、思いのほか荷物の多い暖に、一番大きなサイズのエコバッグを二つ渡して、自分はいつもの銭湯セットの手提げを肩にかけた。
「よっしゃ! 近くにあるファミレスの場所もいくつか調べたし、どの店行く? どこでも行けるけど」
「そうですね……でしたら、お任せでお願いします」
暖は一瞬眉を上げたが、何も言わず、「じゃあ、行くか!」と、ユウを夜の世界へ連れ出した。
いつもはただ真っ暗な空に、星が見える。
――ここからでも、こんなに綺麗に星が見えるんだ……
ユウはいつもの仕事帰りとは違う空に、目を奪われていた。
***
ファミレスに着くと、暖は余程お腹が減っていたのか、色んなものを注文した。
その様子をユウは、よく食べる人なんだなと見ていたが、料理が届くにつれもしかしたら、という疑問が湧いた。
――暖さんは……私も食べられるように多めに頼んだ……?
実際ユウは、何を頼めば良いか分からず、馴染みのあるコーンスープを頼んだ。
そしてその後、暖は色々頼み始めたのだ。
サラダに、ポテト、ほうれん草のバターソテー、マルゲリータピザに唐揚げ。
これは、一人で食べる用なのだろうか。
それにしては、ラインナップがチグハグな気がする。
ユウは父親が生きていた幼い頃にしか、ファミレスには来たことがない。
だから、シェア文化はあまり詳しくないのだが、そういう文化があるということだけは耳にしていた。
「……暖さん。これはもしや……いわゆるシェア文化でしょうか……?」
暖は一瞬驚いた素振りを見せたが、すぐに笑顔になった。
「あー、バレた? 好きなの頼めって言っても、どうせ遠慮するだろうなって思ったから、適当に好きそうなの頼んでみた。あ、でも無理すんなよ。俺、食えるから」
「…………お気遣い、ありがとうございます」
暖は「相変わらず、かてーなー」と笑った。
相変わらず、と言われてしまうほど、長く一緒にいるはずはないのに、ユウは、なぜか納得してしまった。
「……少し、緩めて話してみてもよろしい……いいでしょうか」
暖は、きょとんとした。
「え? ああ、もちろん! でも、無理矢理変える必要はないから。それは間違えないで」
「……そうですか」
「それに、ユウの話し方、綺麗だから、俺は結構好きだし」
思いがけない言葉に、ユウは目を瞬かせた。
「綺麗……ですか?」
「うん。日本語が、かな? なんだろうな、上手く言えないけど嫌じゃないってこと!」
「……ありがとうございます。そう言ってもらえたのは、あなたで七番目です」
「いや、多くね!? 一番って言い方じゃん、今の!」
ユウは声を上げて笑った。
初対面の人がこんな風に、自分を丸ごと受け入れてくれることなんて、今までほとんどなかった。
敬語は、ユウにとってはごく普通の話し方だった。
それに貧乏なのは、誰のせいでもない。
けれど暖は、妙に気を遣うことも、腫れ物のように扱うことも、変人と呼ぶこともしない。
それが、高校を卒業して親しい友人と離れてしまったユウには、とても嬉しかった。
一通り笑ってふと顔を上げると、暖がこちらを見つめていた。
「……暖さん?」
「…………」
「あの、私の顔に何か?」
暖はハッとしたように瞬きをすると、慌てて首を横に振った。
「いや、なんでもない!」
「……そうですか?」
どうにも腑に落ちなかったが、暖が笑っているので、それ以上は尋ねなかった。
「あの……そろそろ捨てられていた理由を伺っても……?」
「ふは……っ! そこはもっと堂々と聞いていいから!」
「込み入った事情かもしれませんし」
「拾った人には聞く権利があるの!」
ポテトにケチャップとマヨネーズをつけながら、暖は可笑しそうに笑っている。
――ポテトには、両方付けるのですね……
ユウはポテトを一本掴むと、そろそろとケチャップ、マヨネーズを掬った。
「では、頂きます」
「はい、召し上がれ」
「の、前に。事情をお話しいただけますか?」
「はいはーい。えっとね――」
ユウはポテトを一口齧り――その美味しさに感動した。
ジャガイモの特売日にたくさん買っておこう。ケチャップ、マヨネーズも家にあるからいつでも食べられるし、腹持ちも良さそうだなと、考えていた。
「……ユウさーん……? 聞いてる?」
「あ…………。大変申し訳ありません。このポテトが、あまりに美味しくて色々考えてしまいました。もう大丈夫ですので、もう一度お願いできますか?」
「次はちゃんと聞いてよー!」
ユウは耳の後ろに手を当て、一言一句聞き逃さないようにした。
そして、その上で聞き返した。
「……あの、暖さんが追い出された理由は、一緒に住んでいたお友達から、『お前の顔が良過ぎて、俺らの女がみんなそっちに行くんだよ。だから、落ち着くまで出てけ!』と言われた結果――ということで、間違いないですか?」
目の前の暖は、お腹を抱えて笑っている。
「あっはっはっは! そのトーンで、あいつらの口調真似られると、めちゃくちゃおもろいんだけど! はー……やっば」
「……事実確認をしてもよいでしょうか」
「なんでもどーぞ?」
暖は頬杖をつきながら、面白そうに笑った。
その顔がなぜか挑発的に見えて、ユウは少しだけ目を見張った。
――なるほど……こういった仕草も、きっと女性が寄って来る要因なのでしょうね……
ユウは、膝の上に両手を戻し、じっと暖を見つめた。
「暖さんは、結果としてその女性たちと……その、関係を、持たれたのですか?」
「はは! いいえ」
「一度も?」
「一度も」
「暖さん自ら、気を引こうとしたり、誘ったりはしていないと」
「してないでーす」
どうしてそんなに楽しそうなのか、と聞きたくなるほど暖はにこにことユウの質問に答えていく。
「……ちなみに、追い出されたそのお家というのは、どなたの名義なのでしょう」
「俺でーす」
「…………」
「ユウさーん? またポテト?」
ユウの顔の近くで、手をひらひらと振る暖にユウは「いいえ」と答えた。
「暖さんは……お友達に家を乗っ取られてしまったのでしょうか?」
「乗っ取られって……あはははは!」
「……暖さんの中では、笑い事なのですか?」
そこまで笑われるほど、変な考えだっただろうか。なんとなくムッとして、ユウは目を細めた。
「あー、悪い。怒った?」
「……いえ、少しムッとはしましたが……それよりも、どうして暖さんはそんなに他人事なのでしょうか」
ユウがそう言うと、暖は「あ〜……」と、気まずそうに頭を掻いた。
いつもは楽しそうで、自信に満ちている暖が、今はどこか俯きがちだった。ユウと会ってから初めて見る、苦笑いまで浮かべている。
――これは……完全に踏み込み過ぎてしまいました……
「申し訳ありません、踏み込み過ぎました。大失敗です」
頭をスッと下げるユウに、暖は慌てて身を乗り出した。
「いやいやいや、違うんだよ! ただ、なんて言うか、こう……格好悪いと言うか……?」
「衣装ケースに入れられて、夜の公園に捨てられる以上に、格好悪いことなどあるのですか?」
「ユウさん、辛辣〜!」
「……すみません、口が勝手に」
ユウが、口を両手で押さえたところを見て、暖は笑いながら首を横に振った。
「アイツらとはさぁ、中学の時からずっと一緒でさ。俺含めて四人でずっとつるんでたんだよ。で、高校で俺が家を出て一人暮らしを始めた時から、なんだかんだ家にいてさ。大人になってもそれは変わらずで。まぁ……なんつーか……アイツらがいなくなった家に一人でいたくないんだよ。それなら俺が出て行った方が全然マシな訳」
暖はほんの少し視線を下げたまま、話を続けた。
少しだけ笑っているのは恥ずかしいのを誤魔化しているからだろうか。
ユウは、じっと暖の話に耳を傾けた。
「アイツらバカだから」
ユウは、暖の顔に祖父を重ねていた。
祖父はよく、秘書が失敗をするたびに困ったものだと嘆いていた。
しかしその時の顔は、いつもとても優しくて、本気じゃないんだなと幼心にも分かって、嫌な気持ちにはなったことはない。
暖はいま、まさにそんな顔をして友達のことを話していた。
「……お友達の気配がする部屋に、一人は寂しいってことですね」
「まぁそういう感じ!」
暖は一度視線を落とすと、ふっと笑った。
「暖さんが出ていかなければ、お友達が出て行ったと思いますか?」
「……多分ねー。完全に出ていかなくても、しばらく帰ってこないとかにはなったかもね」
「そうですか」
暖はふーっと長い息を吐き出すと、気持ちを切り替えたようにパッと笑顔を見せた。
「さ! 食べますか」
「そうですね……温かいうちに頂きましょう」
ユウは迷わずポテトに手を伸ばした。
「ポテトかよ! コーンスープも冷めるんじゃねーの?」
「……難しいところです」
「めっちゃ好きじゃん、ポテト!」
大半は暖が食べたが、ユウもお腹がいっぱいになるまで、目の前の食事に集中した。




