第9話 雨を待たない畑
夜明け前から、町には乾いた風が吹いていた。
雲は遠くに薄くたなびいているだけで、雨の気配はない。東の貯水槽の前には、昨夜のうちに運び込まれた木材と鉄具が積まれていた。ユリウスは木材を選び、地下道の幅に合わせて支柱を組んでいる。ダリオは縄を束ね、マルタは灯りの油を確かめていた。
「雨が降れば、地上の水も少しは戻るのにねえ」
マルタが空を見上げて言った。
「雨を待つだけでは、畑は枯れます」
リゼットは答えた。
町の南側には、段々畑が広がっている。かつては麦や豆が風に揺れていた場所だが、今は土が白く乾き、ひび割れていた。水路が止まってから、農家は種をまく時期さえ決められずにいる。
「だからこそ、今日中に地下道を確かめる」
ユリウスが支柱を持ち上げた。
「水が生きているなら、畑へ回す方法を考えられます」
地下へ下りるのは、リゼット、ユリウス、ダリオの三人になった。マルタは入口で記録を取り、地上との連絡役を務める。管理人は姿を見せなかったが、町人会議は作業を止めるつもりがないらしい。
石板を持ち上げると、冷たい空気が吹き上がった。
地下の階段は、見た目より深かった。壁面には古いレンガが積まれ、ところどころに水滴が光っている。足元には細い溝があり、わずかな水が音もなく流れていた。
リゼットは灯りを低く掲げた。
「右の壁に音紋があります」
円の中に三本の線。その下に、欠けた記号が続いている。母の帳面で見たものと同じだった。
「これは、分岐の方向を示しているのかもしれません」
ユリウスが壁を照らした。
「線の長さが違う。中央が最も長い」
「音も同じです」
リゼットは目を閉じた。
地下道には、三つの響きが重なっていた。左からは細く乾いた音。右からは時おり石を叩くような音。そして中央からは、低く、途切れずに続く水音がある。
「中央へ進みます」
通路を進むにつれて、空気は湿り、壁の隙間から苔が現れた。だが、十歩ほど先で道は崩れていた。天井の一部が落ち、レンガと土砂が積み重なっている。
「ここから先は掘る必要があります」
ダリオが膝をついた。
ユリウスは土砂の表面を調べ、すぐに首を振った。
「上から無理に崩すと、通路全体が潰れる。左側に力が逃げている。少しずつ取り除きましょう」
三人は黙々と作業を始めた。土をかき出し、崩れたレンガを一つずつ運ぶ。地下の狭い空間では、息をするだけで喉が乾いた。
しばらくすると、奥から水音が強くなった。
同時に、金属を引きずるような響きが聞こえる。
リゼットは手を止めた。
「誰かが、向こう側で水門を動かしています」
「この地下に人がいるということか」
ダリオが声を潜めた。
ユリウスは灯りを消さず、崩れた壁の隙間へ耳を寄せた。
かすかな音が返ってくる。
一度。
少し間を置いて、二度。
さらに三度。
リゼットの胸が強く鳴った。昨日、貯水槽の底で聞いたものと同じ音紋だった。
「応答しています」
「誰が?」
「水路です」
そう言った直後、土砂の向こうから低い声がした。
「そこにいるのは、町の者か」
三人は顔を見合わせた。
ユリウスが答える。
「水路を調べています。あなたは誰ですか」
「名を先に名乗る理由はない。ここを閉じろ。今すぐ戻れ」
声は男だった。遠く、壁越しに響いている。
「なぜ閉じる必要があるのですか」
リゼットが尋ねた。
「この道は、町に水を渡すためのものではない」
「では、何のための道ですか」
返事はなかった。
代わりに、奥で大きな金属音が鳴った。水の流れが急に細くなり、通路の溝から水が引いていく。
「水門を閉めた!」
ダリオが叫んだ。
ユリウスは崩れた壁を見回し、脇にある細い縦穴を見つけた。
「ここから空気が流れている。向こう側に別の通路がある」
縦穴の縁には、新しい靴跡が残っていた。泥の乾き具合から、そう遠くない時間に誰かが通ったらしい。
リゼットは跡のそばに落ちていたものを拾い上げた。
小さな真鍮の札だった。表には水門を示す印、裏には伯爵家の紋章が刻まれている。
指先が冷たくなる。
「グラウス様の管理印です」
ダリオが呟いた。
ユリウスは札を受け取り、しばらく見つめた。
「証拠として持ち帰ります。ただし、これだけでは誰が使ったかまでは分からない」
「でも、地下道を知る者が今もいる」
「そして、水を止めることができる」
地上から、マルタの呼ぶ声が響いた。約束した時刻を過ぎたのだろう。
ユリウスは支柱を確認し、崩落箇所を見上げた。
「今日はここまでです。道を開けるには、もっと人手と道具が要る」
リゼットは頷いた。しかし、戻る前に壁へ手を触れた。
水は止まっていた。それでも石の奥には、かすかな振動が残っている。閉じられたのではない。誰かに押さえ込まれているだけだ。
「この道は、まだ生きています」
「ええ」
ユリウスの声が近くで返った。
「ならば、雨を待たずに水を取り戻しましょう」
地上へ出ると、乾いた風が頬を打った。
町人たちは二人の周りに集まり、地下で見たものを聞いた。真鍮の札を見たマルタは、怒りに目を細めた。
「記録を改ざんした連中が、今度は水まで隠しているのかい」
「断定はできません」
ユリウスが言う。
「ですが、地下道の存在を知っている者がいることは確かです。だから、次は一人で作業しない。町の目を増やします」
その日の夕方、町人会議は決めた。
地下道の調査班を作り、作業のすべてを公開して記録すること。貯水槽と水門の鍵を複数人で管理すること。そして、地下道が再び開くまで、南の畑へ残った水を公平に配ること。
リゼットは新しい帳面に書きつけた。
――地下道の奥に、閉じられた水門と人の声を確認。
――伯爵家の紋章入りの管理札を発見。
――水路は死んでいない。誰かが、流れを止めている。
最後に、少し迷ってから一行を加えた。
――雨を待たず、畑へ水を送る。




