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水路の音を読む令嬢は、辺境で居場所と恋をつくる  作者: 銀細工ナギ


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10/20

第10話 母の署名は消されていた

 翌朝、町人会議の帳場には、夜明け前から人が集まっていた。


 地下道で見つけた真鍮の札は、机の中央に置かれている。誰かが持ち去らないよう、透明な瓶を逆さにかぶせ、その周囲には昨夜のうちに作られた見張りの名簿が置かれていた。


 リゼットは新しい帳面を開き、地下道で聞いた音と、水門の位置を簡単な図にした。ユリウスはその横で、崩落箇所を開けるために必要な道具を書き出している。


「この札だけでは、グラウス様本人が地下へ来た証拠にはならない」


 ユリウスが言った。


「でも、管理札を持つ者が水門を動かした可能性は高い。次は、いつから誰がこの道を管理していたかを調べる必要があります」


 マルタが古い木箱を引き寄せた。


「それなら、役所の記録庫に残っているかもしれないね。水路の修理記録と管理人の交代記録は、十年は保管する決まりだったはずだよ」


「記録庫には、もう何度も人が入っています」


 ダリオが眉をひそめた。


「グラウス様の部下が、使えない書類ばかり残して大事なものを持ち出したという話もあります」


「持ち出したなら、持ち出した記録があるはずです」


 リゼットは帳面を閉じた。


「記録が消えていること自体も、記録になります」


 役所の裏手にある記録庫は、長いあいだ使われていない納屋のようだった。扉を開けると、乾いた紙と鼠の匂いが流れ出した。棚には水路、税、農地、工事と書かれた札が並んでいる。


 マルタが管理台帳を探し、ダリオが高い棚から箱を下ろした。ユリウスは床板の傷を調べていた。最近、重い箱を運び出した跡がいくつも残っている。


 リゼットは水路の記録が置かれた棚の前に立った。


 耳を澄ますと、紙の重なりの奥から、かすかな響きが聞こえた。


 水滴が三つ落ちるような音。


 彼女は棚の下段から、表紙の外れた薄い帳面を抜き取った。中身はほとんどが空白だったが、最後の数枚だけに古い図と数字が残されている。


「これは、地下道の記録です」


 ユリウスが隣から覗き込んだ。


 図には、現在知られている水路よりさらに深い流れが描かれていた。中央の幹から南の畑へ、細い分岐が伸びている。その脇には、母の帳面で見たものと同じ音紋が記されていた。


「この書き方……母の字です」


 指先が震えた。


 ページの下には、日付と短い文章があった。


 ――第三水門、開閉記録に不一致。

 ――水量は減少していない。上流側で意図的に分流された可能性あり。

 ――伯爵家管理人グラウスに報告。


 その次のページには、破り取られた跡がある。


 さらに後ろには、別の紙が挟まっていた。紙質も筆跡も違う。そこには、母が水路の管理を怠り、記録を改ざんしたため追放されたという処分書が書かれていた。


 リゼットは息を止めた。


「この署名を見てください」


 ユリウスが処分書の下端を指した。


 署名欄には、母の名前があるはずだった。しかし、そこだけ紙が薄く削られ、墨の跡が乱暴に塗りつぶされている。


「母は署名していません」


「ええ。署名を消した跡があります」


 ユリウスは紙を光にかざした。


「誰かが、署名のある原本から名前だけを削り、その上に別の文書を重ねた。これは処分書ではなく、後から作られた写しです」


 リゼットの胸に、長いあいだ凍っていたものが軋んだ。


 母は、何も言わなかった。伯爵家を出た日も、町を離れた日も、ただ「水の音を忘れないで」と言っただけだった。幼かったリゼットは、それを母が負けを認めた言葉だと思っていた。


 けれど、母は負けたのではない。


 声を奪われたのだ。


 棚の奥から、マルタの声がした。


「こっちにもあるよ。持ち出し記録だ」


 彼女が広げた台帳には、十二年前の日付で、地下水路に関する箱が三つ、グラウスの管理下へ移されたと記されていた。その翌日に、母の追放処分が決まっている。


「箱は二つしか戻っていない」


 ダリオが数えた。


「三つ目は?」


 誰も答えなかった。


 リゼットは削られた署名を見つめた。怒りはあった。悲しみもあった。それでも、今すぐ母の名を叫びたいとは思わなかった。


 母の名を使って誰かを責めるのではなく、母が残したものを自分の手で確かめたかった。


「この記録を持ち帰ります」


 彼女は静かに言った。


「でも、まだ公表はしません。地下道の音紋、帳簿、水門の管理記録。全部をそろえます。誰にも、また一枚だけ切り取らせないために」


 ユリウスは頷いた。


「あなたが決めたなら、私は手伝います」


「私が母の娘だからですか」


「違います」


 彼は削られた署名からリゼットへ視線を移した。


「あなたが、真実を確かめる仕事をしているからです」


 その言葉は、乾いた胸の奥へ静かに染み込んだ。


 帰り際、リゼットは記録庫の扉を閉める前に、処分書をもう一度振り返った。


 消された署名の下には、薄く筆圧の跡が残っている。完全に消すことはできなかったのだ。


 母の名前は、紙の上から消されていた。


 けれど、水路の音の中には残っている。


 その夜、リゼットは帳面に書き記した。


 ――母の追放処分書は、署名を削った写しである。

 ――追放の前日、地下水路の記録箱がグラウスの管理下へ移された。

 ――消された名前は、音と記録の両方に残る。


 最後に、ためらわず母の名を書いた。


 ――エレナ・ヴェルナー。

 ――この水路を、最初に正しく聞き取った人。

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