第11話 戻れない場所へ進む
朝の鐘が鳴る前に、リゼットは目を覚ました。
窓の外はまだ灰色で、工房の屋根から落ちた雫が、軒下の桶に一定の間隔で音を立てている。ひとつ、ふたつ、間を置いて三つ。地下道で聞いた音紋と同じだった。
机の上には、昨夜書き終えた帳面がある。
母の名前を記した頁を、リゼットは何度も開いては閉じた。
公表すれば、もう元には戻れない。
伯爵家にいた頃のように、知らないふりをして雑用を続けることはできなくなる。母を追放した家の記録を公にすれば、伯爵家との関係も、町の有力者との取引も、すべて壊れるかもしれない。
けれど、黙っていれば、消された署名はもう一度消される。
母が残した記録も、地下水路の存在も、ようやく取り戻した町の水さえ、誰かの都合のよい形に書き換えられてしまう。
リゼットは窓を開けた。
冷たい空気の向こうから、町の水路の音が届いてくる。流れはまだ細い。それでも、昨日より澄んでいた。
水は、止まっているように見えても、低い場所へ進み続ける。
戻れない場所へ進むのなら、自分の足で歩きたい。
工房へ降りると、ユリウスがすでに作業台の前にいた。真鍮の札を布で磨き、表面に刻まれた番号を写し取っている。
「眠れましたか」
彼は顔を上げずに尋ねた。
「少しだけ」
「それなら、決めた顔ですね」
リゼットは足を止めた。
「顔に出ていますか」
「昨日より、まっすぐです」
簡単な言葉だった。けれど、逃げ道を残さない言葉でもあった。
リゼットは机の上に帳面を置いた。
「今日、町人会議を開きます。そこで、記録を公表します」
ユリウスの手が止まった。
「全部を?」
「母の追放処分書が後から作られた写しであること。追放の前日に、地下水路の記録箱がグラウスの管理下へ移されたこと。現在の水量と帳簿が一致しないこと。そして、地下水路に残された音紋です」
「反対する人も出ます」
「分かっています」
「グラウスが先に噂を流す可能性もあります。あなたが伯爵家への恨みで町を混乱させている、と」
「それも分かっています」
リゼットは帳面の表紙に手を置いた。
「だから、母の娘として訴えるのではなく、水路の記録を扱う者として話します。私の怒りは、証拠にはなりません。でも、証拠を隠す理由にもなりません」
ユリウスはしばらく黙っていた。それから、磨き終えた真鍮の札を彼女へ差し出した。
「これも持っていきましょう」
「管理札を?」
「番号と傷が、古い台帳の記載と一致しています。地下道の水門を動かした人間を特定するには足りなくても、札が記録箱と同じ管理系統にあったことは示せる」
「あなたは、私が公表することに賛成ですか」
問いかけると、ユリウスは少しだけ眉を動かした。
「賛成かどうかで決めることではありません」
「では、何で決めるのですか」
「あなたが、後悔しても自分で選んだと言えるかどうかです」
胸の奥に、細い音がした。
それは水路の響きではなく、長いあいだ閉じていた扉の錠が外れる音に似ていた。
昼前、町人会議の広場には、普段の倍ほどの人が集まった。水利組合の者、工房で働く者、畑を持つ者、そして噂を聞きつけた役所の人間までいる。
マルタが木箱を机の上に置き、ダリオが人の列を整理した。ユリウスは広場の端に立ち、記録庫から運び出した箱が開けられないよう見張っている。
リゼットは机の前に立った。
ざわめきが少しずつ静まっていく。
「私は今日、十二年前の水路管理記録と、母エレナ・ヴェルナーの追放処分について話します」
母の名を口にした瞬間、胸は震えた。それでも、声は途切れなかった。
「これまで、母は水路の管理を怠り、記録を改ざんしたため追放されたと伝えられてきました。しかし、記録庫で見つかった処分書には、母の署名がありません。署名欄は削られ、別の文書を重ねた跡が残っています」
マルタが紙を掲げる。人々の間から息をのむ音が広がった。
「さらに、追放の前日には、地下水路に関する記録箱が三つ、グラウス様の管理下へ移されています。そのうち一つは返却記録がありません」
「そんなもの、後から書き足したんじゃないのか」
後方から男の声が飛んだ。
リゼットは声のした方を見た。役所の帳場で何度か見かけた男だった。
「だからこそ、ひとつの記録だけで判断しません」
彼女は別の紙を広げた。
「こちらは地下水路の図です。図に記された音紋は、地下道の水門で今も確認できます。水量の記載、開閉記録、現地の響き。その三つが一致して初めて、記録として扱います」
ユリウスが前へ出て、真鍮の札を机に置いた。
「この札の番号は、十二年前の管理台帳に記載された第三水門の番号と一致しています。表面の傷も、地下道で見つかった水門の留め具と合う」
今度は、誰もすぐには口を挟まなかった。
広場の隅で、誰かが小さく言った。
「じゃあ、エレナさんは……」
「母が正しかったと、私はまだ断言しません」
リゼットは答えた。
「ですが、正しくなかったと決めつける記録が、偽造された可能性は明らかになりました。だから、町全体で調べ直す必要があります」
彼女は広場を見渡した。
「今日から、記録を一人の管理者だけに預けません。原本は町人会議で保管し、写しを水利組合と工房に置きます。水門の開閉は二人以上で確認し、音紋と水量を毎日記録します」
「グラウス様が許さなかったら?」
マルタが尋ねた。
リゼットは一度だけ、伯爵家の紋章が刻まれた指輪を思い出した。かつては、その紋章を見るだけで自分の立場を思い知らされた。
「許可を待つのではなく、事実を示します」
そう言ったとき、広場の入口に黒い外套の男が立っているのが見えた。
グラウスの使いだった。
男は誰にも頭を下げず、冷たい目でリゼットを見た。
「その発言、伯爵家への正式な申し立てと受け取る」
「受け取ってください」
リゼットは答えた。
「これは、母のためだけの申し立てではありません。町の水と記録を守るための申し立てです」
男の顔から、わずかに余裕が消えた。
戻る道は、もう残っていなかった。
それでもリゼットの足元では、水路が小さく鳴っている。消された名前を抱えたまま、流れは暗い地下を抜け、光のある方へ向かっていた。




