第12話 有力者の贈り物
町人会議の翌朝、工房の扉を叩く音で、リゼットは目を覚ました。
まだ空が白み始めたばかりだった。ユリウスが先に立ち上がり、腰の工具袋へ手を伸ばす。扉の向こうから聞こえたのは、低く落ち着いた男の声だった。
「グラウス様からの届け物です」
ユリウスはリゼットを見た。
「心当たりは?」
「ありません」
「では、開ける理由もありません」
そう言いながらも、彼は扉を細く開いた。
外には、昨日広場に来ていた使いの男と、二人の荷運び人が立っていた。荷運び人の間には、黒檀の木箱が置かれている。蓋には銀色の水鳥の紋章が刻まれていた。
「有力者様から、町の再建に役立ててほしいとのことです」
男はそう言って、封蝋の押された書状を差し出した。
リゼットは受け取らず、封蝋を見つめた。
グラウス家の紋章。伯爵家の紋章よりも小さく、しかし役所や水利組合の書類には頻繁に現れる印だった。
「中身は何ですか」
「浄水用の銀砂と、工房のための工具一式です。ほかにも、記録を保管するための新しい戸棚が入っております」
「ずいぶん親切ですね」
ユリウスの声は平坦だった。
使いの男は笑みを浮かべた。
「昨日の件で、グラウス様も町の将来を案じておられます。若い方々が苦労していると聞けば、手を差し伸べるのが当然でしょう」
リゼットはようやく書状を受け取った。
封を切ると、整った文字が並んでいた。
――水路再建への尽力を評価し、ささやかな支援を贈る。町の安寧を願う者同士、過去の誤解に囚われず協力したい。
その下には、工房への寄付を認める代わりに、今後の記録管理をグラウス家へ報告するよう求める一文があった。
リゼットは紙を折り直した。
「これは贈り物ではありません」
「何とおっしゃいました?」
「報告の義務がついた支援です。受け取れば、私たちはグラウス様の管理下に置かれます」
使いの男の笑みが消えた。
「町のために差し出されたものを拒むのですか。水路が回復したのも、住民が工房を利用できるのも、資金を出す者がいるからでしょう」
「資金を出した記録は、帳簿で確認できますか」
「何を疑っているのです」
「疑っているのではありません。記録を残したいのです」
リゼットは木箱を見た。蓋の隙間から、新しい金属の匂いが漂っている。工具は本物かもしれない。銀砂も、今の工房には必要だった。
だからこそ、受け取るかどうかは慎重に決めなければならない。
「条件を変えてください」
彼女は言った。
「寄付として町人会議に登録し、金額と品目を公開すること。記録の写しを水利組合と工房にも置くこと。そして、グラウス家への特別な報告義務は設けないこと」
「そんな勝手が通ると思っているのですか」
「通るかどうかを決めるのは、グラウス様ではなく町人会議です」
男の目が鋭くなった。
「あなたは自分の立場を理解していないようだ。伯爵家を敵に回し、さらにグラウス様まで侮辱すれば、誰もあなたを雇うことはなくなる」
「私はもう、誰かに雇われるために記録を守っているのではありません」
言葉にした瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜けた。
怖くないわけではない。伯爵家にいた頃、明日から置き場がなくなることがどれほど不安か、リゼットは知っている。
けれど、あの場所へ戻ることを恐れる気持ちは、もう決断を止める理由にはならなかった。
ユリウスが木箱の側へ歩み寄った。
「開けます」
「許可は出していません」
「届けたのはそちらです。中身を確認する権利は、受け取る側にあります」
彼は工具で封を切った。
蓋を開けると、布に包まれた鋼の工具が整然と並んでいた。測量用の細い錘、水圧を測る管、音を拾うための新しい共鳴板。どれも工房では手に入らない高価な品だった。
だが、底の隅に、見慣れない小さな筒がある。
ユリウスが手袋をはめて取り出した。筒の口には、グラウス家の印が押されている。
「これは?」
使いの男が一瞬、言葉を失った。
「工具の付属品でしょう」
ユリウスは蓋を開け、中から巻かれた紙を取り出した。
広げると、地下水路の見取り図が描かれていた。水門の位置、流量、管理札の番号まで、細かく記されている。
しかし、その図にはひとつだけ、奇妙な空白があった。
第三水門から北へ伸びるはずの水路が、途中で途切れている。
リゼットは図面を覗き込み、指先で線の端に触れた。
「この部分、削られています」
「古い図だからでしょう」
「いいえ」
彼女は耳を澄ませた。
工房の床下を流れる水が、低く二度鳴った。間を置き、さらに一度。昨日、地下道で確認した音紋と同じだった。
「この図面は、地下水路を調べた人が作ったものです。しかも、第三水門の先に別の分岐があることを知っている」
ユリウスが図面を裏返した。
紙の裏には、薄く押しつぶされた文字の跡が残っていた。彼が炭を布に擦りつけ、表面をなぞると、消された記号が浮かび上がる。
北側貯水槽。旧排水門。封鎖理由――。
その先は破られていた。
使いの男が一歩下がった。
「それは、グラウス様の私物です。返していただきます」
「贈り物に入っていたものを?」
ユリウスが静かに尋ねた。
「手違いです」
「では、手違いの証明を町人会議へ提出してください」
男は唇を噛んだ。
リゼットは図面を巻き直し、帳面に挟んだ。
「この図面も、寄付品の一覧に記します。返すなら、町人会議の前で返してください」
「後悔しますよ」
「後悔しないために、記録します」
男は睨みつけたあと、荷運び人に目配せした。二人は木箱を持ち上げようとしたが、ユリウスが前に立った。
「工具も置いていくのですか」
男は答えなかった。
やがて、彼は書状を奪うようにリゼットの手から取り戻した。
「この町は、あなた方が思うほど自由ではありません」
「だから、自由にするための記録が必要なのです」
扉が閉じると、工房に静けさが戻った。
木箱の中には、高価な工具と、消された水路の図面が残されている。
贈り物は、懐柔のために差し出されたものだった。だが同時に、隠しきれなくなった秘密の一部でもあった。
「罠だと思いますか」
リゼットが尋ねると、ユリウスは図面を見つめたまま答えた。
「罠でしょう」
「それでも、使えますね」
「ええ。罠を仕掛けた人間は、罠の中に何を落としたか気づいていない」
リゼットは帳面を開いた。
新しい頁の上部に、日付を書き込む。
その下に、今日届いた贈り物の品目と、消された図面のことを記した。
筆を置いたとき、床下の水がまた鳴った。
今度は三度、短く。
途切れた水路の先で、まだ流れが生きている。
そしてそこには、母が追放される前に知っていた何かが眠っている。
「北側貯水槽へ行きましょう」
リゼットが言うと、ユリウスは工具を選び始めた。
「準備をします」
「危険かもしれません」
「だから、二人で行きます」
その言葉に、リゼットは小さくうなずいた。
有力者の贈り物は、町を縛る鎖になるはずだった。
けれど、鎖の重さを測れば、どこにつながっているのかも分かる。
リゼットは新しい共鳴板を手に取った。鋼の表面が、朝の薄明かりを冷たく反射している。
消された水路の先へ。
二人は、まだ誰も知らない記録を探しに歩き出した。




