第13話 味方は成果を見ている
北側貯水槽へ続く道は、町の外れに沿って伸びていた。
朝の市場が始まる頃には、二人の姿を見つけた住民たちが、遠巻きに声をかけてきた。リゼットはそのたびに足を止め、昨日届いた工具と図面のことを説明した。グラウス家からの支援は、条件を外さなければ受け取らない。けれど、木箱に入っていた道具は町人会議の確認が済むまで工房で保管する。消された図面については、午後の会議で公開する。
話を聞いた水路組合の老人が、腕を組んだ。
「そんなことをして、グラウス様に睨まれたらどうする」
「睨まれた事実も記録します」
リゼットが答えると、老人は困ったように笑った。
「記録、記録と……それで腹は膨れんぞ」
「ですが、水は記録なしには流れません」
ユリウスが静かに言った。
「どこを開け、どこを閉じたか分からなければ、次に誰かが同じ失敗をします」
老人はユリウスを見て、しばらく黙った。
「技師さんは、ずいぶん記録を信用しているんだな」
「記録を信用しているのではありません。記録を残す人間の責任を信用したいのです」
その答えに、老人は視線を落とした。
北側貯水槽は、長年使われていない石造りの建物だった。水面は濁り、外壁には苔が厚く張りついている。入口の鉄扉には、新しい錠が取りつけられていた。
ユリウスが錠を調べた。
「古い扉に対して、錠だけが新しい」
「封鎖のためでしょうか」
「誰かが、最近ここへ入られたくなかった」
リゼットは扉に耳を当てた。
向こう側から、かすかな反響が返ってくる。水の音ではない。金属が石に触れる、乾いた響きだった。
「中に何かあります」
ユリウスが工具を出そうとしたとき、背後から声が飛んだ。
「勝手に開けるつもりかね」
振り返ると、グラウス家の使いの男が立っていた。今度は一人ではない。水路組合の書記と、役所の制服を着た男が連れ添っている。
「この貯水槽は危険区域に指定されている。許可なく入ることはできない」
「危険区域にした記録は?」
リゼットが尋ねた。
役所の男が書類を広げた。
「三年前の事故を受けて封鎖した」
「昨日の図面では、封鎖理由の欄が破り取られていました。事故の内容を確認できますか」
「古い記録だ。保管庫を調べなければ分からない」
「では、調べてください」
使いの男が眉をひそめる。
「あなた方は、町の行政を混乱させるつもりか」
「混乱しているのは、記録のほうです」
リゼットは帳面を開き、昨日の図面を示した。
「第三水門の流量と、この貯水槽の容量が合いません。ここが使われていたなら、町の北側へ水が流れた記録が残るはずです。ですが、帳簿からは三年分が抜けています」
水路組合の書記が、思わず紙を覗き込んだ。
「抜けている……?」
「同じ筆跡で、頁だけが差し替えられています」
使いの男の顔から血の気が引いた。
ユリウスが扉の前へ進んだ。
「許可が必要なら、町人会議に申請します。ここで待っていてください」
「そんな時間はない」
「では、あなたがたにも中を調べる理由があるということです」
その瞬間、役所の男がユリウスを見た。
「お前は……」
声が震えていた。
ユリウスの手が止まる。
「何か」
「いや……その顔を、以前どこかで」
使いの男がすぐに遮った。
「くだらない話はよせ。そいつはただの流れ者の技師だ」
リゼットはその言葉を聞き逃さなかった。
「ユリウスは流れ者ではありません」
彼女が言うと、ユリウスが横目で見た。
「私たちが見ているのは、彼の身分ではなく仕事です。ここへ来てから、壊れた水門を直し、流量を測り、住民と一緒に水路を戻した。その成果は誰にも消せません」
使いの男が鼻で笑った。
「成果、ね。町人は明日の水が出れば、誰が直したかなど忘れる」
「忘れない人もいます」
背後から老人の声がした。
いつの間にか、市場から数人の住民が集まっていた。水路組合の老人もいる。
「この二人が来る前、北の井戸は泥で詰まっていた。今朝は子どもが水を汲めた」
別の女が続けた。
「工房で直してもらったポンプは、十年ぶりに動いたよ」
若い荷運び人が手を上げた。
「流量の表を見せてもらった。あれで水を分ける時間が分かった」
一人ずつの声は小さかった。けれど、重なれば扉を押し開けるほどになる。
ユリウスは黙って彼らを見ていた。
その横顔に、リゼットは初めて、隠された疲れのようなものを見た。
「あなたは以前、何をしていたのですか」
小声で尋ねると、彼はしばらく答えなかった。
「王都の水利局にいた」
「どうして辞めたのですか」
「上の命令で、壊れた水門を安全だと報告した。直せるものを直さず、記録を書き換えた」
ユリウスの声は平坦だった。
「事故が起きた。死人は出なかったが、責任を取る者が必要になった。私は命令に従った技師として名を出された」
「あなたは、従ったのですか」
「一度だけ」
短い答えの中に、長い後悔があった。
「だから今度は、誰かの名前を盾にしない。測ったものは測ったまま、壊れたものは壊れたまま記録する」
リゼットは彼を見つめた。
「あなたがここでしていることは、償いですか」
「最初はそうだったかもしれません」
「今は?」
ユリウスは、集まった住民たちへ視線を向けた。
「必要とされているから、続けています」
その言葉に、リゼットの胸が温かくなった。
彼は過去を消そうとしているのではない。過去を抱えたまま、目の前の水路を直している。
水路組合の老人が、役所の男から書類を取り上げた。
「封鎖の記録を探す。見つからなければ、見つからなかったことを記録する」
役所の男が反論しようとしたが、周囲の視線に押されて口を閉じた。
その日の午後、町人会議は北側貯水槽の調査を正式に認めた。
鉄扉が開くと、内部の壁に古い刻印が現れた。リゼットが共鳴板を当てると、低い音が石の奥から響いた。
三度、短く。
そして最後に、長い一音。
母が残した記録の端にあった、見覚えのある符号だった。
リゼットは息を呑んだ。
「ここに、母が来ていた」
ユリウスが灯りを掲げる。床には水門へ続く階段があり、その脇に錆びた金属箱が置かれていた。
蓋には、グラウス家の紋章ではなく、古い水利局の印が刻まれている。
味方は、最初から大声で名乗るわけではない。
成果を見て、記録を見て、ようやく同じ方向へ立つ。
リゼットは金属箱へ手を伸ばした。
その中にあるものが、母の追放と、ユリウスの過去を結びつけると知りながら。




